世界を変えるための方法 | Life is the very ART

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命こそ、人生こそ芸術作品だ!!

生きることを心から謳歌したいという願い、
やりたい放題生きると決めた

書を、文章を、落書きを、写真を、クルマやバイクを通じて
試行錯誤しながら考え、気づき、実践する
そんな「にんげん 伊藤 義之」のBlog

「今、見えている世界が、その人の世界。」

 

書に取り組んでいると、この言葉は実感として迫ってきます。

 

書道に於いてはみなさんご存知のとおり、

半紙サイズのお手本を先生にいただいて、

そっくりに真似られるように繰り返し、何枚も書いて、

先生に合格をいただくまで頑張るわけです。

 

少し勉強が進むと先生のお手本だけではなく、中国や日本の古典を学びます。

「法帖」として残されている古典を手掛かりに、

時代が変わっても変わることのない美しさや筆法(筆の使いかた)を学ぶのです。

 

そしてこれがいつも奇妙で面白く、またとても辛く感じるのですが・・・

 

先生の手本しかり、古典の法帖しかり、目の前に正解そのものがある。

つまり正解を自分で出す必要はなくて、それを直接横に並べて練習できるわけです。

にも関わらず、これが何枚書いても何枚書いても違うところがある。

それどころか、似せる事すらもできなかったりするんですね。

 

すぐ目の前に正解が見えているのに、自分が書いたものとの違いがわからない。

 

これはつまり、網膜には映像として映っているはずのものが、

脳ではまったく認識されていない、

見えるものとして扱われていない、ということです。

 

例えるなら、路端に落ちている石ころのようなもの。

 

しかし路端の石ころならともかく、

こんなに血眼になって手本や法帖との違いを探るのに、わからない。

視界には入っているはずなのに、違いとして知覚できない!

 

で、何がなんだかわからないまま師匠にご指導を仰ぐと、

「おぉ!なるほど!!」というようなところに朱の指導が入り、

自分が捉えられなかった違いを、目の当たりにする。

 

師匠には見えていて、わたしには見えていない。

 

見えないものを見えるようにするにはどうすればいいか?

師匠にお尋ねしたことがありましたが、返ってきた答えは・・・

 

「見ようとし続けるしかない。」

 

という当たり前で、とても厳しいお言葉。

巷の How to 本のように、「これさえやれば大丈夫!!」

なんて言ってはくださらない。

 

ちょっとかっこよく言うと・・・

 

「そこにあると信じて、あると解るまで続ける」

 

科学者と似てるな、と思ったりします。

 

科学者の知り合いがいるわけではないし分野によるとは思いますが、

彼らの研究も、何らかの「仮説」があって、

それが「確かにある」という前提で、さまざまな観察や実験を繰り返し、

それが「ある」ということを証明していく・・・

 

証明されたとき、世界にとって新たな事実が明らかになったということ。

つまり、世界が変わった、広がった、と言っていいと思います。

 

書における、手本や法帖からの学びもまさにこれ。

しつこくしつこく、「ある」と信じて半紙に取り組みます。

最初はまったく解らない。知覚できない。

でもわたしが気付いていない事実は、そこにある。

 

すると、気がついたらいつの間にやら、解るようになっているんですね。

様々な違いや、雰囲気や、内包された美というものが。

 

これが「自分の世界を変えるための方法」です。

 

そうであると信じて、

疑いが頭をもたげてきても、そんなはずはない、と信じて、

万難を排して、信じて、信じて、信じて・・・

 

いつの間にか、鮮やかな世界がそこにあった。

 

そんなふうに、確かに世界が変わる。

 

裏返して言うとするなら・・・

 

今のわたしやあなたの目に映る世界は、

あなたが「ある」と信じたものでできている。

 

世界が楽しく、喜びに満ちているなら、あなたはそれを信じている。

世界が苦しく、恐れがはびこっているなら、あなたはそれを信じている。

 

書の勉強をしながら、

実は世界の成り立ちについて学んでいたのです。

 

これがわかれば、理屈は同じ。

 

諦めさえしなければ、素晴らしい世界は、実はもう、

わたしたちの気付きを待っていてくれているかもしれないのです。

 

via Life is the very art.
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