「不死身の特攻兵」から『世間』と『社会』を考え、ついでに山口達也氏の謝罪を読み解く | マーケットを戦略的に理解する読書術 〜マーケティング会社の経営者視点で読書してみた〜

さて、GWに入ってようやく落ち着いたので、読んだ本を紹介しながら、マーケティング的視点を入れていこうと思います。

不死身の特攻兵〜軍神はなぜ上官に反抗したか〜 著者 鴻上尚史氏

 

 


どんな本だったかという部分は、amazonの「内容紹介」に委ねます(笑)
—amazonより

 

太平洋戦争の末期に実施された”特別攻撃隊”。戦死を前提とする攻撃によって、若者たちが命を落としていった。
だが、陸軍第一回の特攻から計9回の出撃をし、9回生還した特攻兵がいた。その特攻兵、佐々木友次氏は、戦後の日本を生き抜き2016年2月に亡くなった。
鴻上尚史氏が生前の佐々木氏本人へインタビュー。
飛行機がただ好きだった男が、なぜ、軍では絶対である上官の命令に背き、命の尊厳を守りぬけたのか。
---

数年前に読んだ「永遠のゼロ(小説)」しかり、この「不死身の特攻兵(インタビュー)」しかり、戦時中に「特攻」を命じられた若者の物語は、気持ちを揺さぶられますね。めちゃくちゃ面白かったですよ。


さて、マーケティング界隈では、一般の消費者を語る時に「世の中の動きやトレンド」について言及することがあり、よく引き合いに出せれるコトバとして、『世間』『社会』があります。

 

得てしてこれらの2つのコトバが、同じ意味合いで、同じコンテクストで使われることが多いのですが、本書での著者の解釈には僕らも耳を傾けるべきだと思いました。
『世間』『社会』を次のように、分けて考えています。2つは別物だ、と。


—本文より(文脈に沿って少し書き加えています)
『世間』とは「現在、および将来において何らかの直接的な利害・人間関係がある、もしくは生まれる可能性ある人達」のことで、職場やクラス、サークル、交流のある隣近所、公園でいつも会うママ友などが、それに当たります。
『社会』とは「現在も将来も直接関係を生まない人達」のことで、道ですれ違った人や、居酒屋で隣のテーブルで飲んでいる人や、お店の知らない店員などのことです。



自分の周囲にいる人すら『世間』『社会』に分かれる。分岐点は、直接の利害関係を生むか否か、という論考です。

世の中は、自分→家族→『世間』→身近な『社会』→遠い『社会』という風に広がる、ということですね。

よく、「日本はムラ社会である」と言われ、狭いコミュニティの中でのコンセンサスを重視するのが日本人の国民性である、と解説されますよね。


この場合のムラ社会とは、実は『世間』のことであって、『社会』のことではないということですね。日本人は『世間』のことを取り分け気にしがちな民族だ、ということです。


僕たち日本人は、数十年前の「NOと言えない日本人」という大ベストセラー以降、「NOと言える欧米人」との違いを、ネガティブな文脈で明示され続けてきました。

それは、ともすると「意思の弱さの象徴」として。


しかし、このように考えると、「日本人がNOを言わない対象は『社会』ではなく『世間』である」ということに気づきます。

日本人は必ずしも『社会』に対してNOと言えない人達ではないのです。

直接関係性のある『世間』に対してはNOと言わないよ、ということですね。
対して欧米人は『世間』に対しても容易にNOを突きつけるのだ、と。

 

 

特攻兵にしてみたら、所属する軍の上官や郷里の同胞や部隊の同僚は『世間』で、他の部隊に所属している兵士や上官は『社会』ということですね。日本人全体も当然『社会』です。

 

特攻を命じられた時、『社会』に対してはNOと言えても、『世間』に対してはNOと言えなかったわけですね。

もちろん、本当は特攻なんてNOと言いたかったのに。



先日、タレントの山口さんが公開謝罪していましたが「被害者個人と世間に対して謝罪する」という内容でした。

ここで彼が意識していた「世間」とは、本質的には『世間』ではなく『社会』のことです。

1タレントからの『社会』に対する謝罪は、曖昧だし効果的ではありません。

 

この場面を切り抜けるために必要だったストーリーは、「被害者個人」及び、クライアント・事務所・他メンバー・ファンという『世間』への謝罪だったんだと思います。

 

対して、今回の謝罪は、被害者個人と『社会』全体に対する謝罪の中で、定型的・お約束的に『世間』への謝罪を付け加えた形だったのではないでしょうか。

繰り返しますが「世間に申し訳ない」の"世間"は『世間』ではありません。『社会』です。


ゆえに、100点の謝罪じゃないという「いちゃもん」を『社会』から突きつけられます。

被害者個人と『世間』に大変なご迷惑をおかけしたことを『社会』に対して公開謝罪の形でご報告する、というパフォーマンスが必要だったわけです。
なお、この場合『社会』に対して謝罪すべきは、管理者である事務所だったと思います。

タレント本人が「被害者個人」と『世間』に謝罪し、事務所の経営陣が『世間を含めた社会』に対して公開謝罪すれば「いちゃもん」は少なく終わったと思います。

※と知ったかぶりしてみましたが、マーケティング文脈上の1つの「解釈」ですので(笑)正解かどうかは分かりません。

そして、個人的には、大手既成メディアのこうした「いちゃもん」には、毎度毎度反吐が出る思いです。


なお、多数の特攻兵にとって、特攻を命ずる上官と、共に特攻に出る仲間は『世間』ですから、この『世間』に対しては「特攻なんて行きたくない」とNOが言えなかったわけです。

対して、本著に出てくる「不死身の特攻兵」は、『世間』に対してもNOと言って、「特攻に行っても何度も生きて帰ってきました」という物語です。繰り返しますが、めちゃくちゃ面白い本です。

ということで、『世間』『社会』の違いについて、著者の論考を踏まえて考えてみました。

この本からは、『世間』『社会』という概念をPick Upしましたが、これ以外にも、『集団我』という概念が論じられているので、これは次回考えたいと思います。

 

 

 

(ご案内)他のメディアでの直近のPost

BFIマガジン

http://brand-farmers.jp/blog/gp_005/

→「トレーサビリティ」について

 

CSPサイト

http://citation-sp.daa.jp/archives/105

→「仮想通貨」について