ねたみと嫉妬 | 仏光さんの心の相談室

ねたみと嫉妬

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今日は日曜日でこれから瞑想教室をします。オーストラリアをはじめ遠くから参加者が来られるので、天気が良ければいいなと思っていましたが、昨日の嵐とは打って変わって良い天気になりました。富士山も綺麗に見えています。今日も良い一日になりそうです。こういう瞬間私は本当にありがたいなと思うし幸せな気分になりますね。

 

ホトトギスや他の鳥達も雨が上がって嬉しいのか元気に鳴いています。本当に自然というのは良いものです。自然界には弱肉強食はありますが、妬みや嫉妬みたいなものはありません。人間に飼われている動物には嫉妬みたいな行動を見ることがありますが、全くの野性の中で妬みや嫉妬を見ることはありませんね。だから妬みや嫉妬などの感情は人間独特のものかなと思っています。もしかしたらチンパンジーのような類人猿にはこのような感情があるのかもしれません。

 

自然界ではオスがメスをめぐって戦う事がよくあります。それは誰が一番強いかを決めて、その強いDNAを後世に残して生き残っていくための自然のシステムです。でも戦いが終わって一番強いオスが決まると、負けたオスが何時までもウジウジ勝ったオスを恨んでいるとか妬んでいる様子はありませんね。見ていると負ければあっさり諦めているようです。

 

したがって妬みとか嫉妬は怒りや喜びの感情とは違って、ある程度知能が発達しないと出てこない感情だと思います。そこで一番知能が発達している人間社会は妬みや嫉妬が渦巻いているのですね。多くは表面的に仲良くしているように見えていても、どこかに妬みや嫉妬の感情があるのです。田舎の農家の奥さんが私のところに来るたびに、田舎では寄り合いなどで誰かが先に帰ったりすると、必ず抜けた人の悪口大会が始まると訴えています。

 

それが怖くて誰も先に帰れないと言っていました。面白いのは自分の損得には何も関係ないのに、人が得するのを見ると嫌なのですね。そこで嫉妬や妬みが出てくるのです。欧米と比べると特に日本の社会はそれが強いように思います。これには単純明快な理由があります。それは嫉妬や妬みの感情が脳の中で醸成されるのに必要な要素が二つあって、それが「同一性」と「獲得性」なのです。

 

「同一性」とはみんな同じと言うことです。色々な民族が集まっているアメリカより単一民族の日本のほうが同一性が高いということになるのですね。中国もみんな中国人に見えますが、実は多民族国家です。それが田舎のような閉鎖的な社会になると、同じ日本でもより同一性が高くなるのです。これは同じ会社とか同じ学校とか同じグループでも同じように同一性が強まるのです。ママ友グループなどもそうですね。

 

次に「獲得性」ですが、誰かが何かを獲得するということです。例えば高収入とか立派な家とか社会的地位とか、誰かが自分に無いものを獲得すると、いきなり嫉妬や妬みの感情が湧いてきます。そしてそれが本人としては嫌で嫌でしょうがないのですね。その人が得すれば自分が損するような利害関係があるのならそのような感情が湧いてくるのもまだ理解できますが、全く何の利害関係もないのに、誰かが幸せそうにしていると、自分は不幸だから腹が立つということになるのです。

 

だから人の非難や悪口を言っているその人の心の根本的なところに、実は嫉妬や妬みがある場合が多いのです。「自分と同じなのに、自分に無いものを持っている。それが腹が立つ。」になるのですね。だからあること無い事をでっち上げたり、真偽の程を確認することも無く、誰かが言っている一方的な話しをネタに、「よっしゃ!これは使える」となって陰で悪口を言って回って、相手の心や名誉を傷つけるという思考行動パターンになるのです。

 

自分でも気付かないそのような心の境涯で一生を終わる人が世の中にはいっぱい居ます。これは本当に自分を客観的に見ることができれば如何に情けない事なのかが分かります。ところがそういう人は自分を客観的に見ることはしません。何故なら人のことを妬んだり嫉妬したりする人間は、自分の実力が足りないのに自我が強いという特性を持っているからです。

 

本当に実力があって、自分の自我が少ない人、または自我を克服している人の心に、ねたみや嫉妬の感情が発生する余地はありません。そういう人は人をねたんだり嫉妬したりはしないのです。ましてや陰で悪口を言って人の心や名誉を傷つける事などはしません。でもほとんどの人は周りがそうだから自分に嫉妬やねたみの感情が発生しても当たり前くらいに思っています。もちろんこのようなことを表立って言う人は居ませんが、心の中ではそのようになっているのですね。だから悪口が世の中に溢れているのです。

 

どのような心で生きるのかはその人の勝手ですが、私は嫉妬や妬みの生き方が嫌だし、見ているのも嫌なので、人間社会に目を向けるよりかは自然界に目を向けているのでしょうね。しかし私はこの人間社会で生きているし、最低限自分に出来る事は、自分の周りだけは良くしていく努力を毎日することにしています。そしてほんの少しでも良くなってくれればいいのですね。

 

だから今日も瞑想教室頑張りますね。これも自分にできる世の中を少しでも良くすることだと思っています。そういうことをしていると、またそれが気に入らんとなって悪口を言う人も出てくるのですが、そこはお釈迦様が言うように「黙っていてもそしられ、話してもそしられ、およそこの世にそしられない者は居ない」になるのですね。世の中に「同一性」と「獲得性」がある限り、2500年前のお釈迦様の時代から延々と妬みと嫉妬は続いているのです。

 

もし自分にそういうところがあるのなら、自分はまだ人間としての実力が足りなくて自我が強いのだと思って、「自分は何という小者なのだろう」と少しでも自分を客観的に見る努力をするべきですね。人を妬み嫉妬し悪口を言っている間は、自分でも気付いていない劣等感が自分の中にあり、生きている間に自分が真に幸せになることは絶対に無いという事実を知るのです。自分を客観的に知る。それが自分が本当に幸せになる入り口になるのですよね。それにしても今日の朝も気持ちの良い自然の中で私は本当に幸せです。ありがとうございます。

 

合掌

 

仏光

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