好奇心

直感・閃き・気になる事探究を楽しむ

縄文時代最大のミステリー 土偶とストーンサークル

紀元前15000年から約10000年の平和を築いたと言われる縄文時代は嘘の学説に隠されている!?深い考察を余儀なくされる各地の土偶の形状と用途不明のストーンサークルが物語る最古の文明の謎にせまると、不思議と世界の神話に結びつく・・!?

縄文時代は10000年続き6つの時代を移り変わっている

縄文時代 生活

小学生、もしくは中学生の時、学校の授業で習った縄文時代の印象は結構ざっくりで、竪穴式住居、石やり、狩猟民族、貝塚がゴミ箱やトイレという原始的な狩猟生活

土偶や土器など土、粘土が使われた程度の文明でした・・でその後、すぐに弥生時代に突入。なんならここから加速して大和朝廷の卑弥呼様~!って所のほうが興味を引いてましたが・・

この軽視された縄文時代というのは、実は10000年も続いた長い歴史があり、その10000年の中で、6つの時代を移り変わってきたというのはご存知でしょうか?

縄文草創期約1万3千~1万年前
縄文早期約1万~6千年前
縄文前期約6千~5千年前
縄文中期約5千~4千年前
縄文後期約4千~3千年前
縄文晩期約3千~2300年前

主に北海道から東北にかけて発見された遺跡だけで、縄文1万年の歴史が説明できるほどに、形状の違う土器が出土され、少しずつ生活様式や模様の変化などが見られ、文明の発展も垣間見えるだけでなく

明らかに【人ならざるものをモデル】とした土偶が多数、それも形状がまったく違うものが多数でてきている謎。

縄文時代 土偶

縄文時代 土偶

そして、いまだに使途不明な精密に組まれたストーンサークル(環状列石)の跡

縄文時代 遺跡

なのに教科書では「そんなものがあったそうですけど~、ここはテストにほとんどでないので~」と軽くスルー。その後に「はい、ここテストでるよ!弥生時代だよ~」って感じであんまり重要視されてませんでした

国は縄文は重視するな!という教育指導してたんでしょうかね?

今西暦が始まって2019年ですが、その約5倍もの時間が過ぎていく中で発展していった文明
そのテクノロジーは果たして今より劣るんでしょうか?(素朴な疑問)

縄文土器の形状は重要ではないが人が生きていた証明

基本的な解釈として縄文土器は、水を汲んで貯めるためのツボなどの生活用品の他、遺体を入れる骨壺、などと、かなり原始的で限定された用途で教育されてきましたが・・縄文の中期以降になれば、実はそんなレベルの工芸ではないレベルにまで達してるのがわかります

これなんて形状だけじゃなく、素材厳選して漆まで塗った嗜好品の工芸品となっています

縄文時代 土器

また、これなんて完全にお茶釜ですよね?生活用品でここまで趣味趣向にあわせた土器が充実している事を考えれば、縄文人はかなり優雅なティータイムを楽しんでいたであろうと思えます

縄文時代 土器

ただ大事なのは、土器が出土する=そこに生活する集落があった という存在の事実です

文献では狩猟民族と言われていた縄文人が、わざわざ土器を作ったという事は、長い時間そこに定住したという事が一点

また、1万年もあるんだから、狩猟民族もさすがに腰据えて拠点作る=食料貯める=自給自足の農耕を始めるでしょ普通

その証拠として、集落があった付近にはかならず栗とどんぐりの木が生えていたらしいです。そういう自然の恵みがある場所を選んで拠点を構えた可能性もあります(めっちゃ拾い放題でしたw)

縄文時代 栗

実はこの栗が熊の餌となっているため、集落付近までくる熊と共生していた可能性もあります

熊に栗を自由に食べさせる→飢えない→人を襲わない→人と共存
肥え太らせた熊だけ狩る→熊を乱獲しない→熊の数減らない

今でいう馬との共存→一部馬肉みたいなもので、もしかしたら、縄文人は熊に乗ってたかもしれません。

また、ヨーロッパでは牛や馬を使って気を引っ張って倒すなどの土地開発が行われていた訳なので、もしかしたら、石斧で木に切れ目をいれて、熊に引っ張らせるor木を張り倒させるなどして野生動物との共生をしてたのかも?まさかり担いだ金太郎スタイルは縄文生れ?

※当時、日本に熊がいたかも定かではないのでここは完全に憶測です。

ちなみに現在は、縄文遺跡跡地付近には自然に自生している栗の木がたくさんあるのですが、そっちにはいかずに、近隣の民家の畑で作ってるトウモロコシ側に野生の熊が出没して困っているようです

縄文時代はトウモロコシはなかったでしょうね、現代のクマはより美味い味を覚えてしまったのかもしれません(笑)

話が脱線しましたが、ここで言いたいのは、縄文人という存在は確実にあったという事です

人類の進化の過程と言われるネアンデルタール人とかアウストラロピテクスとかそんな、見たこともない学説上の進化途中の猿人じゃなく、土器や道具を作って生活するスタイルが残っていたという確たる証拠

また、拠点を移した場合でも、重い土器をわざわざ運んだとも思えないので、置いて行ったとも考えられる理由があります。実はその付近のエリア一体で見つかった遺跡を辿っていくととてもおもしろい事がわかるんです

同じ縄文部族が同じ時代に移り住んだ痕跡

縄文土器は様々な場所で縄文様が着いたものが出土しています。これは明らかに先祖から子孫へ作り方などが継承して広がってる証拠。仮に習ってないにしてもどこかの誰かがツボを見て真似ているという事だけは予想できます(基本の作風は変わらない)

なので、出土された土器、縄文様の違い、使用された成分(土質)などだけでは、年代を特定するのはとても難しい訳ですが、もうひとつ明らかに【これは年代を特定できる】という遺跡の事例があります

青森の小牧野遺跡にはストーンサークルがあります(実際に見てきました)

この遺跡を見た後に、十和田と秋田の境にある伊勢堂岱遺跡を見れば、これはほぼ同じ世代に同じ部族が移り住んで拠点を構えたというのがわかる理由が二つあります

小牧野遺跡(上空からジオラマで地形)
縄文時代 小牧野

伊勢堂岱遺跡
縄文時代 いせどうたいいせき

1:ストーンサークルの形状がまったく同じ
2:ストーンサークルを形成している立地条件が同じ

一定の法則で並んでいる環状列石の形が伊勢堂岱遺跡と小牧野遺跡ではまったくといっていいほど形状が似ています。また、そのストーンサークルが作られた場所というのが、ちょうど山の尾根に当たる崖下がとても見晴らしたが良い高台の場所を選んでいるのも共通しています

この事から、北にいた部族(親)の元から(子)が南下して新たな集落を作って拠点を構えたのではないか?あるいはその逆とも考えられます。と同時に、この【ストーンサークルの知識】は継承されていたという訳です

またこれら二つが同時代のものでは?と考える理由は、十和田から南下して秋田県境、あるいは、その逆でも、【歩いて移動できる距離】だからです

今の時代だからこそ、車で峠山道を迂回しながら小一時間で行ける場所ですが、歩いてその場所にたどり着き、そして、同じような生活基盤を整えて集落が育ち、小コミュニティの拠点になるまでは数十年はかかったと思います

当時はメモ帳のような記録はあったんでしょうかね?あの複雑な環状列石を実物を見る事もなく、同じように再現するという事は・・

設計者からしっかりと教育を受けた?、見た物をしっかりと記憶して再現した?前の部族の設計者が同行した?←(ここ重要!)

いずれにせよ、それほどまでに伊勢堂岱遺跡と小牧野遺跡のストーンサークルは似ているという訳です。なので、私個人的にはですが、これは同じ部族の次の世代の民族大移動だと感じました

>>続く 各地域に残るストーンサークルの用途の謎

LEAVE A REPLY

*
*
* (公開されません)

Return Top