2018年12月31日の横須賀・浦賀散策レポの続き。
「陸軍桟橋」「船番所跡」を見学した後は、「為朝神社」に向かいました。
陸軍桟橋・船番所跡のレポ
https://ameblo.jp/indyaki12/entry-12521051421.html
「船番所跡」からは、海岸線から一本入った路地を南に暫く進んで、左手の路地に入ると、神社があります。
こちらは「爲朝神社」。
御祭神は、源為朝公。源頼朝公の父親の源義朝公の弟ですね。
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源 為朝(みなもと の ためとも、旧字体:爲朝)は、平安時代末期の武将。源為義の八男。母は摂津国江口(現・大阪市東淀川区江口)の遊女。源頼朝、義経兄弟の叔父にあたる。
身長2mを超える巨体のうえ気性が荒く、また剛弓の使い手で、剛勇無双を謳われた。生まれつき乱暴者で父の為義に持てあまされ、九州に追放されたが手下を集めて暴れまわり、一帯を制覇して鎮西八郎を名乗る。保元の乱では父とともに崇徳上皇方に参加し、強弓と特製の太矢で大奮戦するが敗れ、伊豆大島へ流される。しかしそこでも国司に従わず、大暴れして伊豆諸島を事実上支配したので、追討を受け自害した。
(後略)(ウィキペディア「源為朝」)
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%82%BA%E6%9C%9D
「浜町」という地名由来の由緒書きもあって…。この辺りを「浜町」といい、浦賀湾に面した磯浜の広がる地域であったことからついた名称です。
「浜町」は、元は広い範囲を占める「川間」の一画でしたが、漁を業とする人々の集落として発展し、この名称になりました。
この地に伝わる「虎おどり」は、奉行所が伊豆の下田から浦賀に移った時に一緒に移って来た下田の廻船問屋の人々が演じたものと言われています。
鳥居をくぐり、正面に社殿。
社殿手前の狛犬。
結構古そうですね。
拝殿に近づいて…。扁額には「鎮西八郎為朝神社」とあります。
拝殿の中の様子。
社殿の彫刻がなかなか見事で…。
素晴らしい♪
手水所。
「虎踊(とらおどり)」の由緒書き。神奈川県の無形民俗文化財に指定されているんですね。
「横須賀の虎踊」は、享保5年(1720)奉行所が伊豆下田から浦賀に移った時に伝えられたと言われ、近松門左衛門の「国姓爺合戦」における和藤内の虎刈りの場面を取り入れた芸能で、ここ「為朝神社」に特設舞台を造り演じられます。
和藤内の東条に始まり、太唐人が引き連れた唐子の踊り、そして虎の出現と虎の舞(舞台上を自由に振る舞い数種の芸を披露)と進行し、最後に和藤内が虎を神符で成敗し、みえを切ります。
虎は親子二体で、親虎には青年、子虎には少年が二人ずつ入り、和藤内は男児、唐子は女児、太唐人に成人男子が演じます。
へぇ~面白そう♪一度見てみたいな♪
処で、神社の由緒書きが見当たらなかったので、ネットで検索。
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10.為朝神社
浜町(西浦賀4丁目)の鎮守で、その名のとおり源為朝を祀っています。
寛政12年(1800)浜町の漁民が、海に漂流していた木像を引き上げ、地蔵堂に安置し祈願をすると、その功が多かったそうで、鎮西八郎為朝の像であったといいます。
創建は文政期(1820年代)であり、航海及び疱瘡除の神様として信仰を集めていました。
源為朝は源頼朝の父の弟にあたりますが、強弓で知られ、後世に疱瘡除の神となりました。(後略)(横須賀市HP)
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https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2490/uraga_walk/nisi10.html
最後に、社殿を横の方から…。
ここ浦賀に、鎮西八郎源為朝公をお祀りする神社があるとは!知らなかった…(^^;
「為朝神社」をお参りした後は、「浦賀奉行所跡」に向かいました。
その様子は、また後日。
濱町為朝神社
神奈川県横須賀市西浦賀4-3-7
https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2490/uraga_walk/nisi10.html(横須賀市HP)
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