2019年8月13日の山口県山口市歴史散策レポの続き。
「御茶屋橋」「軽便鉄道中河原停車場跡」「クリエイティブスペース赤れんが」「山口県立図書館」と回った後は、「鴻東橋」に向かいました。
御茶屋橋・軽便鉄道中河原停車場跡・クリエイティブスペース赤れんが・山口県立図書館のレポ
https://ameblo.jp/indyaki12/entry-12554356254.html
「山口県立図書館」の北側の道路を東に進むと、橋が見えて来ます。こちらは「琴水橋(きんすいはし)」。一の坂川が架かる橋です。
橋の袂には、蛍も生息できる工法で護岸を整備しているんですね!
一の坂川沿いに沿って自転車を進めます。緑が多くて、いいですね~♪
「琴水橋」から南に進むと、「鴻東橋(こうとうばし)」があって…。
「鴻東橋」の近くには、昔ながらの建物がありましたよ♪
「鴻東橋」から一の坂川を…。
そのまままっすぐ東に進むと、大通りに出るんですが、そこにも、昔ながらの建屋があって…。
その向かいのお宅も!「鴻東橋」から進んできた道は、このお宅の左側の路地です。
2つ上の写真の建物を横から眺めて…。
更に進むと、また昔ながらの町家が見えて来て…。
右側には「十朋亭維新館」があります。
ここ「十朋亭維新館」の入口には「維新史跡 十朋亭」と刻まれた石碑もありました。
「十朋亭」の由緒書き。山口の旧家萬代家の離れで、江戸時代後期の建物です。
幕末、萬代家は志士たちの活動を援助していましたので、ここは、高杉晋作、桂小五郎、久坂玄瑞、伊藤博文など、多くの志士たちが利用しました。
十朋亭の名は、江戸時代の漢学者篠崎小竹がつけたものです。
「十朋亭維新館」を見学しようと思ったのですが、この日はお休みで…。中に入れませんでした(涙)。なので、木戸の隙間から、通路を眺めて…。
「十朋亭」と思われる建物を道路から…。
すると、「吉田稔磨止宿之地」と刻まれた石碑がありました。
「吉田稔磨之碑」という由緒書き。松陰門下の俊傑吉田稔磨は、文久3年(1863)7月、三文字屋で、長州藩重役から士分昇格を伝えられました。最後の滞在は、幕長間融和のため奔走中の元治元年(1864)4月で、ここで萩の両親に手紙を書きました。
志を果たせぬまま、元治元年6月5日、京で池田屋事件に遭遇し、24歳で没しました…。
「三文字屋」の由緒書きもありましたよ。元禄元年(1688)杉山甚右衛門が和紙問屋元締としての初代創業をなしました。近世の防長二州は日本一の製紙業を誇り、6代三文字屋大吉は自前の「三大之船」で良質の紙を大量に浪速に移出し、長州和紙は天下の相場をも左右しました。
天保12年(1841)には萩城修繕に寄与する一方で、宝暦元年(1751)の大坂米切手訴訟事件では本藩とともに矢面に立ち、天保の混乱期には家財や荷物を「龍福寺」に預けるなど、多難な局面にも遭遇し、幕末を迎えました。
藩庁は山口城に移り、「三文字屋」は政府人宿・客館、政務座御用地として志士たちが来訪・止宿しました。
特に、久保松太郎、吉田稔麿はたびたび訪れ、国司信濃、玉木文之進、入江九一、白石正一郎、笠間藩士加藤櫻老、松田正人らも出入りしました。
明治4年には、木戸孝允より「國難之節 隠然力を盡す處多し」として、三条実美公による報奨御品を賜りました。
300年余年わたりこの地にあった社屋は、昭和52年に12代杉山義雄氏により、緑町に移されました。
へぇ~この辺りには、政府人宿があったのか~
「三文字屋」を訪問した人物が、詳しく書かれている由緒書き。
由緒書きの奥の植栽の中に「三文字屋跡」の石碑がありました。
「十朋亭跡」「三文字屋跡」周辺には、昔ながらの町家が並んでいて…。
この辺りは、幕末は大変賑わっていたのでしょうね。
こちらにも。
風情があって、いいな~(^^)
「琴水橋」から「鴻東橋」と周り、「十朋亭跡」「三文字屋跡」を見学した後は、「龍福寺」に向かいました。
その様子は、また後日。
十朋亭維新館・三文字屋跡
山口市下竪小路112
三文字屋跡
山口市下竪小路112付近
にほんブログ村 福岡(市)・博多情報
https://localkyushu.blogmura.com/fukuoka_town/ranking.html?p_cid=10197823
↑ランキング参加中!クリックして戴けますと、嬉しいです!
人気ブログランキング
https://blog.with2.net/in.php?819555
↑ランキング参加中!クリックして戴けますと、嬉しいです!
Trip-Partner [トリップパートナー]
ぷらたび