真宗寺と、傳教寺と、勝楽寺と ~新潟市の寺院 | 九州下町おやじの珍道中

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2018年11月29日の新潟市内散策の続き。

 

 

古町通や本町通の街並を、ゆっくり散策した後は、西堀通の西側に並ぶお寺に向かいました。

 

 

古町通界隈の街並のレポ

https://ameblo.jp/indyaki12/entry-12600799880.html

 

 

 

西堀広小路から西堀通りを北に進むと、すぐ左手にお寺が見えて来ます。こちらは「真宗寺」。

 

 

 

門前には、「蓮如上人旧跡」と刻まれた石碑があります。蓮如といえば、浄土真宗の僧侶で、本願寺中興の祖と言われる人物ですね。新潟にも所縁があるんですね!

 

 

 

真宗寺」の由緒書き。鎌倉幕府執権北条高時の臣・長崎為基が本願寺覚如上人に帰依円海と称し、正平8年(1353)加賀国能美郡長崎浜で一宇を創建し称名寺と号しました。

 

 

文明2年(1470)中興の僧で蓮如上人の弟子であった5世道光が寺号を「真宗寺」に改めました。

10世了心の時、天正年間(1573~1593)戦乱を避けて出羽国秋田へ移住、更に慶長元年(1596)新潟町へ移住しました。

蓮如上人の由緒により蓮如上人旧跡に数えられています。

 

当寺には、初代萬代橋を架けた内山信太郎の墓、西堀に架かっていた「真宗寺橋」の親柱があるそうです。

 

 

 

境内を進むと、古そうな建屋があって…。

 

 

 

傳教寺」と刻まれた石碑が…。「真宗寺」の境内に「傳教寺」があるということのようです。

 

 

 

伝教寺」の由緒書き。応仁2年(1468)越前国坂井郡矢地に創立。開基は蓮如上人の弟子法教坊で、出身は細川家家老職里村家。後年、越前大聖寺溝口家の重臣として仕え、同家が新発田藩に移封となった時、傳教寺里村家一門に随行して慶長5年(1600)新潟町に移転しました。

 

 

明治42年(1909)の大火で本尊を安置するのみで、寺宝、古文書、新潟日々新聞社主の一人、21世里村太利が収集した郷土史編纂にかかわる幾多の文献を焼失しました…。

 

新潟小原流生け花の創始者・小原キクを讃えた「紅雪軒華道碑」があります。

 

 

 

境内を更に進みます。

 

 

 

鐘楼。

 

 

 

梵鐘に近づいて…。

 

 

 

真宗寺」の本堂。

 

 

 

本堂に近づいて…

 

 

 

真宗寺」のお参りを終え、西堀通りまで戻り、西堀通りを南下すると、右手に「こしの千涯 良寛手まりの碑」という石碑があるんですよね。

 

 

こしの千涯」って…?

 

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こしの 千涯

(こしのせんがい)

1895(明治28)年8月20日〜1958(昭和33)年2月27日

西蒲区(旧潟東村)に生まれました。1921(大正10)年、横山大観を訪ね弟子入りを請うたが聞き入れられず、のち、上野日本肖像画学院に入学。1923(同12)年、関東大震災で帰郷。まもなく巻町漆山で独立し「美高」と号して画家の道を歩きました(当時30歳)。その後、五泉市、さらに新潟市へ移住し、雅号を「耕華」「耕堂」に改めます。

1935(昭和10)年、良寛研究家相馬御風により雅号を受け「越後千涯(えちごせんがい)」とし、その後「こしの千涯」に改めて、良寛を一筋に描きつづけて無欲清浄の画境をひらきました。(新潟市HP)

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http://www.city.niigata.jp/info/bunka/niigatakara/search/detail.asp?eventId=1127

 

 

こしの千涯 良寛手まりの碑」の近くには、「勝楽寺」があります。

 

 

 

勝楽寺」の由緒書き。文永10年(1273)越前国今立郡和田村において親鸞聖人の直弟子圓善坊によって開基されました。

 

 

文明3年(1471)7世圓金坊が加賀国能美郡安宅村に移ったのに因み、通称を安宅山とも言います。

慶長10年(1605)12世了覚坊は檀中安宅氏らとともに新潟町へ移住し、今日に至っています。

江戸時代に町民に時刻を知らせた時の鐘の碑や画家こしの千涯良寛手まりの碑があります。

明治の開港時にイギリス領事館が置かれたお寺でもあるんですね。

 

 

 

境内を進むと、「イギリス領事館跡」という石碑があって…

明治2年1月から明治10年10月まで、明治11年7月から明治12年8月まで、置かれたのですね。

 

 

明治元年(1868)11月19日、新潟は5港の一つとして、世界に開かれ、明治2年11月に、ここ「勝楽寺」にイギリス領事館が置かれました。新潟に置かれた最初の領事館になります。

明治12年8月に閉鎖されるまで、ラウダ・ツループ・エンスリー・ウイルソンの4人の領事が執務しました。

勝楽寺」は、慶応3年、開港を前に新潟港を調査に来港した外国使節と新潟奉行の会談場として使われたり、武器商人エドワード・スネルが奥羽越列藩同盟をもてなす宴を開いたりと、歴史の舞台となりました。

 

 

 

境内を進むと、蔵があって…。

 

 

 

その隣にも…。

 

 

 

勝楽寺」の本堂。

 

 

 

時の鐘のはなし」と刻まれた石碑。「時の鐘」は貞享4年に鋳造され江戸時代を通して新潟会所の鐘楼で新潟町民に時を告げていました。

 

 

明治6年、号砲場を砂山に設け大砲の音で正午を告げることにした為、「時の鐘」は競売にかけられドイツ商人ウェーバーが70円で落札しましたが、この鐘が国外に渡ることを惜しんだ檀家安宅氏が数倍の代金で買い戻し、「勝楽寺」に寄進、以後は「勝楽寺」の梵鐘としてありましたが、昭和17年、太平洋戦争時に供出され、文化財としての「時の鐘」は失われました…。

 

 

 

この大きな石碑は、「勝楽寺記念碑」。

 

 

 

鐘楼の前にも、大きな石碑があって…。

 

 

 

梵鐘。残念ながら、江戸時代の「時の鐘」ではありません…

 

 

 

親鸞聖人御分骨処」「蓮如上人御分骨処」「教如上人御分骨処」と刻まれた石碑。

 

 

こしの千涯 良寛手まりの碑」は、よく分からず…(^^;

もううす暗くなっていたからかも知れません…

 

 

 

勝楽寺」の参拝を終えて、暗くなってきたので、新潟駅に戻ります。

古町通の料亭・飲食店には、明かりが灯り…ふらっと立ち寄りたくなる衝動を抑えて…(笑)

 

 

 

吹屋小路(ふきやこうじ)」の案内板。江戸時代、本町通とこの小路の角に吹屋理兵衛の屋敷があったので、そう呼ばれるようになったと思われます。

 

 

大正より昭和にかけて少女雑誌や絵本の挿絵画家として人気のあった蕗谷虹児(ふきやこうじ)は、幼少期から青年期まで新潟の町で暮らしましたが、この小路名にちなんでペンネームをつけたのではないかと言われています。

ふきやこうじ」…そのままですね(笑)。面白い!

 

 

 

途中、ビルの建設現場の塀には、明治29年の「新潟市商業家明細全図」が掲示してありました。

 

 

 

真宗寺」「傳教寺」「勝楽寺」とお参りした後は、JR新潟駅に向かいました。

その様子は、また後日。

 

 

 

 

真宗寺

新潟市中央区西堀通9番町1600

 

 

伝教寺

新潟市中央区西堀通9番町1605

 

 

勝楽寺

新潟市中央区西堀通8番町1588

 

 

 

 

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