高知城(その4)現存天守の一つ ~高知公園 ~高知市の城跡・史跡・公園 | 九州下町おやじの珍道中

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2019年11月27日の高知県高知市・徳島県三好市阿波池田の歴史散策の続き。

 

 

高知城」の続き。

 

 

高知城(その3)のレポ

https://ameblo.jp/indyaki12/entry-12601619109.html

 

 

 

本丸御殿の縁側には、「物見窓」という説明パネルがありました。矢狭間塀に設けられた横連子の武者窓のことで、本丸東南面の物見(監視)を担う軍学上重要な窓です。

 

 

矢狭間塀には監視や鉄砲を撃つためにある狭間(さま)が設けられていますが、確認できる範囲が狭いことから監視範囲を大きく取った物見窓が設けられています。

 

 

 

お庭の塀を見ると…。おお~横に長い窓がありますね~

 

 

 

竹の節欄間」。竹の節状のデザインが束に用いられるもので、間仕切りの上部に使われています。この様式は平安時代の貴族の書院造に用いられた意匠と伝えられています。

 

 

杉の一枚板戸下部の引き違い板戸は、板目表面を「砂ずり仕上げ」と呼ばれる方法で仕上げられた一枚板の建具で、板戸より数段大きい杉の大木から切り出されたものです。

 

 

東入側」の間仕切りの上を見ると…。これは見事な欄間だこと!

 

 

 

帳台構え」。裏は納戸になっていて、藩主護衛の武士が隠れたことから「武者隠し」と呼ばれています。

 

 

 

上段の間」。外の部屋より床を一段高くした藩主の御座所で、来客応接の間として、武家・大名の屋敷には必ず設けられました。床、違棚、付書院、帳台構えの座敷飾りがつけられるのが通例です。

 

 

 

この二つの説明パネルの奥が「上段の間」で、床の間、違い棚、帳台構えが設えてあります。

 

 

 

武者隠し」となる帳台構えは、こちら。中は納戸になっていて、藩主護衛が隠れるんですね。

 

 

 

上段の間」は、一段高くなっていますね。ちなみに、先程の2つの説明パネルは、付書院超しに置かれていました。

 

 

 

縁側を更に進むと、狭い廊下になっていて…。

 

 

 

更に進むと、納戸のような空間が…。左手の壁には扉があるようですが…?

 

 

 

ここにも、「帳台構え」の説明パネルが!ということは、先程見た上段の間帳台構えの内側ということか!

 

 

書院造の座敷に違い棚や付け書院とともに設けられるもので、畳より一段高い所にかまちを設け、鴨居を長押の下に低く取り付け、引き分け戸または引き戸の襖を設けたものを、帳台構えと言います。

高知城帳台構えは、襖障子に壺金が打たれ、揚巻結びを組緒にした房がと取り付けられるなどの壮麗な装飾が施されています。

 

帳台とは、貴族などの屋敷の寝間や居室のことを指しますが、江戸時代の大名屋敷などでは裏側が納戸となり、藩主護衛の武士が隠れる場所に役割が変化し、「武者隠し」とも呼ばれています。

 

 

 

そのパネルの横には、「本丸御殿」の間取図も掲示されていました。

 

 

 

この「帳台構え」の手前の部屋は、な、なんと!「雪隠の間」!この本丸御殿の雪隠は、藩主しか使うことができないものでした。

 

 

 

雪隠の間」は、こんなお部屋で…。

 

 

 

本丸御殿の釘隠し。

 

 

 

本丸御殿から天守閣に向かいます。

 

 

 

天守閣には、いろいろな展示物がありました。

まずは、棟札。中央は、「追手御門建替」と享和元年(1801)の銘がありますね。左は天保14年(1843)の黒鉄門修理棟札。右にある棟札は、安永8年(1779)に天守と御殿を修復した際のものです。

 

 

 

高知城」の歴史を記したパネル。「大高坂松王丸時代」。

高知城の建つ大高坂山は、南朝方の大高坂松王丸が居城を置き、北朝方と攻防戦を繰り広げていましたが、暦応3年(1340)松王丸は戦死し落城。この頃の城は、柵と土塁を中心としたものだったと考えられます。

 

 

長曾我部元親時代

土佐を統一した長宗我部元親は、天正16年(1588)岡豊(現 南国市)より大高坂山に居城を移しました。

長宗我部地検帳の大高坂郷には、「御土居」「大テンス」など城に関する地名が見られます。

数年後に、土佐湾に面した浦戸の地に居を移しましたので、未完成に終わった城下町は、東は浦戸湾北辺、西は枡形、南は鏡川、北は江ノ口川で区切られた範囲に広がっていたと伝えられます。

 

 

 

石落とし」。お城の天守や櫓の定番ですね。

 

 

 

石落とし」の説明パネル。

 

 

 

山内一豊時代」。慶長6年(1601)1月に山内一豊公は土佐へ入国、6月に新しい居城を現在の高知城大高坂山に定め、8月に地鎮を行い、9月に築城開始。本丸完成までの間、浦戸城に滞在し、頻繁に築城現場の視察に出かけました。

 

 

その際、一豊公は自分と同じ装束をまとった家来5名(市川大炊、野中玄播、柏原半右衛門、乾七郎右衛門、乾伊助)を影武者として随行させたと言います。一豊公と5名の家来を称して「六人衆」と呼ばれました。

 

一豊入城

慶長8年(1603)8月、本丸・二ノ丸が竣工し、入城。

一豊公は「大高坂山」の地名を、城が南北の川(南:鏡川、北:江ノ口川)に挟まれていることから「河中山(こうちやま)」と改名しました。

処が、川が度々氾濫し、安定した城下町経営ができない為、2代藩主山内忠義公の意向により竹林寺空鏡上人が慶長15年(1610)に「高智山」と改め、これが「高知」の始まりとなります。

慶長16年(1611)三ノ丸が完成。三ノ丸は土地が狭く、大高坂山と小高坂山の間にあった中高坂山を崩してこれを盛り土したと言われています。

 

 

 

土佐漆喰」。石灰石に塩をくうぇて焼成したできた地灰にネズサと呼ばれる発酵した藁スサを混ぜて水でこねたもので、きめが細かく厚塗りができ、丈夫に仕上がることから風雨に強いことが特徴です。

 

 

塗った直後はクリーム色ですが、時間とともに固く白くなって行くので、台風常襲地域の土佐の風土に合ったもので、水切り瓦と合わせて建物の外壁を特徴づけています。

 

 

 

土佐漆喰」のサンプル。ピンボケで、ずびばぜん…(涙)

 

 

 

鉄砲狭間と忍び返し

 

 

 

壁には小窓があって…。こちらが「鉄砲狭間」。説明書きには「銃眼」とありました。

 

 

 

天守の中央には、模型がありました。築城当時の様子を描いたもののようです。

 

 

 

城下町も再現されていて…

 

 

 

鎌継ぎ」。木材の継ぎ手で用いられる手法で、鎌状の突起を持った男木(おぎ)と同じ形の彫形を持った女木(めぎ)で構成され、木材同士が一体化し、力の伝達を図るものです。

鎌形の首の部分が大きい形式は、古い形態となります。

 

 

 

「その5」に続く。

 

 

 

 

高知城

高知市丸ノ内1-2-1

https://kochipark.jp/kochijyo/

 

 

 

 

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