マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

日本人は遊牧民族を嫌わぬ

 遊牧民族と農耕民族とは――

 歴史の基調を巡って、太古より主観の鬩(せめ)ぎ合いを続けてきた。

 

 簡単にいえば――

 争い続けてきた。

 

 なぜ争い始めたかといえば――

 

 土地である。

 

 同じ土地を農耕に用いるか遊牧に用いるかで争った。

 

 人類最古の遊牧民族――キンメリア人――の登場が紀元前9世紀であるから――

 かれこれ 3,000 年近く、争い続けていることになる。

 

 当然ながら――

 農耕民族と遊牧民族との仲は良くない。

 

 遊牧民族に憧れを持つ農耕民は少ないし――

 農耕民族に親しみを持つ遊牧民も少ないであろう。

 

 が――

 例外はある。

 

 日本人だ。

 

 ……

 

 ……

 

 日本人は農耕民族に分類をされる。

 

 少なくとも――

 日本列島で広く遊牧が行われていた、という話は聞かぬ。

 

 日本列島で広く行われ、今も行われているのは稲作――つまり、農耕――である。

 

 にもかかわらず――

 

 日本人は遊牧民族を嫌わぬ。

 

 少なくとも――

 概して悪感情は抱いてはいない。

 

 モンゴル高原やユーラシア大草原を主題とする文芸・映像作品は――

 どういうわけか日本語圏で根強い人気を保っているという。

 

 いわゆる、

 ――判官びいき

 の源義経(みなもとのよしつね)は、奥州・平泉で殺害をされたが――

 実は、北海道へ逃れ、ユーラシア大陸へ渡り、モンゴル高原に入って――

 チンギス・ハンとなった――

 との風説は――

 わりと好まれている。

 

 なぜ――

 日本人は遊牧民族を嫌わぬのか。

 

 『随に――』

遊牧民たちが敗れた理由

 21世紀初頭の現在――

 歴史の基調は、明らかに農耕民たちの主観で定められている。

 

 遊牧民たちは、農耕民たちとの、

 ――歴史の主観の鬩(せめ)ぎ合い

 に敗れた。

 

 その直接の理由は――

 13世紀に、遊牧民たちによる“草原の帝国”が、いったんはユーラシア大草原の覇権を握りながらも――

 それを、わずか 100 年ほどしか保てずに――

 中国大陸の版図を失い、やがて呆気なく瓦解をしていったことである。

 

 が――

 他にも理由はある。

 

 間接の理由ではあるが――

 

 より本質的な理由だ。

 

 ……

 

 ……

 

 遊牧民たちは、記録を残さなかった。

 記憶に頼った。

 

 農耕民たちは、記憶に頼るだけではなかった。

 記録を残した

 

 歴史は、記録と記憶との“両輪”である。

 

 片輪が欠けていては、前に進めぬ。

 同じところをひたすら回り続ける。

 

 遊牧民たちの歴史は、いつまでも“周回”を繰り返した。

 農耕民たちの歴史は、“前進”が可能だった――“蛇行”は繰り返したが――

 

 この条件の下で――

 遊牧民たちと農耕民たちとが主観の鬩ぎ合いを行った。

 

 結果は自明であろう。

 

 人類の過半の支持を得るのは、

 ――前進

 であって、

 ――周回

 ではない。

 

 多少の、

 ――蛇行

 はあっても、

 ――前進

 でなければならぬ。

 

 ――周回

 は倦(う)む。

 

 人類の性質である。

 

 『随に――』

歴史は主観の鬩ぎ合い――

 ――歴史は主観の鬩(せめ)ぎ合い――

 と、20代の頃、書いた―― 30 年近く前のことである。

 

 ――鬩ぎ合い

 とは、

 ――互いに争うこと

 くらいの意だ。

 

 例えば――

 農耕民族と遊牧民族とが互いの主観を押し付け合う――

 その“押し付け合い”の結果が、記録や記憶として残され、歴史の基調を決める――

 

 ……

 

 ……

 

 しばしば、

 ――歴史は勝者が決める。

 などという。

 

 ここでいう「勝者」とは、

 ――権力闘争に勝ちえた者

 あるいは、

 ――殺し合いに生き残った者

 を指す。

 

 概ね正しい。

 

 が――

 勝者の主観が絶対化をされ、完全な形で保存をされるわけではない。

 

 敗者の主観で相対化をされ、いくらかの棄損を受けた形で保存をされる。

 

 その棄損の程度を決めるのが、

 ――鬩ぎ合い

 といってよい。

 

 ……

 

 ……

 

 20代の頃は――

 そこまで具体的には、わかっていなかった。

 

 もっと、

 ――ふわっ

 とした感覚で、

 ――鬩ぎ合い

 と書いていた。

 

 ……

 

 ……

 

 農耕民族と遊牧民族との“鬩ぎ合い”でいえば――

 

 13世紀に、モンゴルがユーラシア大草原を統べた頃は――

 遊牧民たちの主観が歴史の基調となりかけた。

 

 が――

 14世紀に、その“草原の帝国”が中国大陸での版図を失った頃――

 農耕民たちの主観が巻き返しを始める。

 

 21世紀初頭の現在――

 歴史の基調は、明らかに農耕民たちの主観で定められている。

 

 が――

 農耕民たちの主観が完全な形で保存をされているわけではない。

 

 いくらかの棄損を受けた形で保存をされている。

 

 その棄損の程度を決めているのが――

 農耕民族と遊牧民族との主観との鬩ぎ合いである。

 

 この“鬩ぎ合い”は――

 キンメリア人が人類最古の遊牧民族として登場をし、農耕民たちによって記録をされ始めた紀元前9世紀に始まり――

 その後、21世紀初頭の現代に至るまで、延々と続いている。

 

 ――延々と続いている。

 と表すと――

 何だか不毛なようだが――

 

 そんなことはない。

 

 それでよい。

 

 歴史とは、そういうものである。

 

 『随に――』

匈奴(9)

 紀元4世紀にユーラシア大草原の西部で覇権を握ったフン族が、紀元前3世紀から紀元1世紀にかけてユーラシア大草原の東部で覇権を握っていた匈奴の直系の子孫であったらしいことの真偽は、ともかくとして――

 匈奴の出現を機に、遊牧民たちが農耕民たちへ、侵略の意図を明確に示すようになった事実は、疑いようがない。

 

 もちろん――

 その「侵略」とは、あくまでも農耕民たちにとっての侵略であって――

 遊牧民たちからすれば、侵略への防衛に過ぎぬ。

 

 遊牧民たちにとっては――

 先に侵略をしてきたのは、農耕民たちの方であった。

 

 遊牧民族は新興と考えられがちである。

 

 人類史が語る最古の遊牧民族はキンメリア人であり――

 この民族の登場は、紀元前9世紀である。

 

 農耕民族の登場は――

 その 1 ~ 3 万年前と考えられている。

 

 紀元前9世紀頃の農耕民たちにとっても、その子孫たちにとっても――

 遊牧民族は新興の勢力であった。

 

 その異形の民族が、紀元前3世紀から紀元4世紀にかけ、匈奴フン族の姿で現れ、自分たちに危害を加え始めた――

 そういう物語が、農耕民たちの立場では、受け入れやすい。

 

 が――

 実態は、どうか。

 

 ……

 

 ……

 

 実は――

 紀元前9世紀にキンメリア人が人類史に登場をする遥か前から――

 遊牧民たちはユーラシア大草原を自由に行き来していたのではあるまいか。

 

 遊牧民たちの活動の履歴は、実は農耕民たちと同程度に古い時期に、始まっていたのではないか。

 

 遊牧民たちは自分たちの活動の履歴を歴史としては残さなかった。

 

 農耕民たちは残した。

 

 その差異こそが、

 ――遊牧民族は新興の勢力――

 の誤解を生んだのではあるまいか。

 

 ……

 

 ……

 

 もし――

 そうだとしたら――

 

 人類史を多少なりとも書き換える必要がある。

 

 少なくとも農耕民たちの史観の偏りを明らかにしておく必要がある。

 

 『随に――』

匈奴(8)

 紀元1世紀、匈奴北匈奴南匈奴とに分裂をし――

 北匈奴の方は、その世紀のうちに、モンゴル高原を去って人類史から消えた。

 

 その後――

 北匈奴遊牧民たちは、どこへ行ったのか。

 

 ……

 

 ……

 

 紀元4世紀――

 ロシア平原の一部――黒海北岸――に忽然と姿を現した遊牧民たちがある。

 

 日本語で、

 ――フン族

 と呼ばれている。

 

 短期間のうちに、ロシア平原やハンガリー平原などを版図に組み込むなどして、ユーラシア大草原の西部に帝国を築いた。

 

 このフン族の出現によって――

 いわゆる、

 ――ゲルマン民族の大移動

 が起き――

 この“大移動”が西ローマ帝国の瓦解を導いた――

 とは、よくいわれる言説である。

 

 ――ゲルマン民族

 とは、ごく簡単にいってしまえば、現在の欧米人の祖に当たる。

 この時、東ヨーロッパに定住をし、農耕や牧畜を生業としていたらしい。

 

 ――西ローマ帝国

 とは、紀元前1世紀に成立をみたローマ帝国が、紀元4世紀末、東西に分裂をした――それら2か国のうちの1か国である。

 

 フン族の出現はヨーロッパに激動をもたらした。

 

 ゲルマン民族の多くは、フン族によって征服をされ――

 西南へ逃げ延びたゲルマン民族が、西ローマ帝国を圧し、滅ぼした。

 

 その起点となったフン族こそ――

 北匈奴の後裔と信じられている。

 

 直系の子孫であるかは、ともかくとして――

 その生活様式や風習、遺物、使用言語などの比較から、共通の文化圏に属していたことには、

 ――ほとんど疑いの余地はない。

 という。

 

 少なくも子孫の系統の分派の1つではあったろう。

 

 かつてユーラシア大草原の東部に一大帝国を築き上げた匈奴遊牧民たちは――

 いったん人類史の“舞台袖”に退いた後――

 300 年ほどの歳月を経て――

 今度はユーラシア大草原の西部に一大帝国を築き上げ――

 再び人類史の表舞台に躍り出た。

 

 『随に――』

匈奴(7)

 匈奴の君主・冒頓(ぼくとつ)が、漢の初代皇帝・劉邦(りゅうほう)を、その命を奪う寸前まで追いつめて以降、70 年ほどが過ぎると――

 形勢は逆転を始める。

 

 匈奴は漢に対し、徐々に劣勢に転じていった。

 

 劉邦の子や孫に当たる皇帝たちは、匈奴に対し、父や祖父に倣って平身低頭の外交に徹したが――

 曾孫の皇帝・劉徹(りゅうてつ)――武帝(ぶてい)――は、違った。

 

 おそらくは、

 ――曾祖父の恥を雪がん。

 との思いが強かった。

 

 当時の官軍が有能な将軍たちに恵まれたこともあって――

 漢の軍は匈奴の軍を討ち破り、その版図を奪っていった。

 

 漢の軍は、かつて初代皇帝の命が脅かされたくらいに苦戦をしたのに――

 なぜ、この時は討ち破ることができたのか。

 

 ……

 

 ……

 

 有能な将軍たちの采配力だけではなくて――

 漢の国力の増勢と兵器の改良とが主因であったと考えられる。

 

 劉邦の子や孫が平身低頭の外交に徹しているうちに――

 漢の産業が活性化をし、軍備が増強をされた。

 

 例えば――

 鏃(やじり)が青銅製から鉄製に変わった。

 

 匈奴は遊牧の社会である。

 草原で従来の暮らしに満足をしている限り、産業や軍備の技術革新には乗り遅れる。

 

 漢を脅かした匈奴は、草原で安住をしていた。

 

 そして――

 少しずつ衰退を始める。

 

 紀元1世紀――

 内紛が高じ、匈奴北匈奴南匈奴とに分裂をした。

 

 北匈奴は、紀元1世紀のうちに、モンゴル高原を去って人類史から消え――

 南匈奴は、紀元3世紀に、中国大陸の皇朝の一つに吸収・合併をされた。

 

 遊牧民の国家の崩壊の多くが、そうであるように――

 匈奴の崩壊は、呆気なかった。

 

 『随に――』

匈奴(6)

 モンゴル高原匈奴を興した遊牧民たちにとっては、中国大陸よりもロシア平原のほうが、心理的に遥かに近くに感じられた――

 と考えられる。

 

 匈奴が人類史に登場をするのは、紀元前4世紀頃――

 

 それから時代を 500 年ほど遡った紀元前9世紀頃――

 人類史上、最古の遊牧民族が出現をした。

 

 日本語で、

 ――キンメリア人

 と呼ばれている。

 

 その出現の地が、

 ――ロシア平原

 であった。

 

 より正確には、

 ――今日のウクライナの南部――黒海北岸

 である。

 

 その後、紀元前7世紀~前3世紀において――

 ロシア平原の主(あるじ)は、他の遊牧民族に代わった。

 

 日本語で、

 ――スキタイ人

 と呼ばれている。

 

 このスキタイ人の文化に――

 匈奴の文化は、よく似ているという。

 

 つまり――

 スキタイ人匈奴とは――

 紀元前4世紀~前3世紀において――

 ユーラシア大平原の西部と東部とで共存をしていた。

 

 年代をみれば――

 人類史上、スキタイ人のほうが先達である。

 

 よって――

 普通に考えれば、スキタイ人の文化が東方へ伝わり、匈奴の文化となった。

 

 が――

 異説を唱える学者もあるらしい。

 

 太古の昔――紀元前7世紀よりも遥かな昔――

 ユーラシア大草原の中部の辺りに――今日のシベリアの辺りに――実は未知の遊牧民族の国家が興っていて――

 その遊牧民たちの末裔がスキタイ人であり、匈奴である――

 という説である。

 

 何とも夢のある説である。

 

 それは、ともかくとして――

 

 紀元前のユーラシア大草原の文化は――

 その東部と西部とで驚くほど均質であった可能性がある――

 ということである。

 

 『随に――』

匈奴(5)

 もし、あの時、匈奴の君主・冒頓(ぼくとつ)が、漢の初代皇帝・劉邦(りゅうほう)を殺していたら――

 中国大陸の運命だけでなく――

 ユーラシア大草原の運命も、大きく変わっていたかもしれぬ。

 

 冒頓は大軍を率いて一気に南下――

 漢の都・長安を攻め落とし、そのまま――

 後世、モンゴルが、そうしたように――

 中国大陸を自身の版図に組み込んだかもしれぬ。

 

 もし、冒頓が、ユーラシア大草原の東部と中国大陸の全域とを押さえたなら――

 以後、その目は西方へ向けられたろう。

 

 冒頓の視線の先には、遠く、ロシア平原が横たわっていたに違いない。

 

 モンゴル高原から中国大陸までの距離は、ざっと 1,000 キロメートル――

 モンゴル高原からロシア平原までの距離は、ざっと 5,000 キロメートル――

 

 むろん、中国大陸のほうが距離的には遥かに近い。

 

 が――

 冒頓たち匈奴遊牧民族にとっては――

 中国大陸よりもロシア平原のほうが、近くに感じられたろう。

 

 匈奴遊牧民たちにとって――

 ほぼ一つの草原で繋がっているという点で――

 ロシア平原は心理的に近い距離にあった。

 

 むろん――

 ロシア平原に至るまでには――

 後世、モンゴルが、そうしたように――

 ユーラシア大草原の各所に偏在をしていた数々の遊牧民たちを自分たちの支配下に置く必要はあった。

 

 そのような長征が、当時の馬の装備や長距離移動の技術で可能であったかどうかは、ともかくとして――

 そのような夢想を抱いたことは想像に難くない。

 

 モンゴルがユーラシア大草原を統べる 1,500 年ほど前に――

 同じことを匈奴がやってのけた可能性は、ないとはいえぬ。

 

 『随に――』

匈奴(4)

 匈奴の君主・冒頓(ぼくとつ)は――

 漢の初代皇帝・劉邦(りゅうほう)をなぜ見逃したのか。

 

 ……

 

 ……

 

 ――最初から殺すことを考えていなかったから――

 と考えるのが自然であろう。

 

 あの時、冒頓が考えていたのは――

 おそらく、

 ――漢の皇帝以下、農耕民たちを懲らしめる。

 ということであった。

 

 中国大陸の農耕民たちからすると――

 遊牧民たちは、北から襲って来て、農地を荒らし、収穫物を奪っていく。

 

 遊牧民たちをこそ懲らしめる必要があった。

 

 が――

 

 ユーラシア大草原の遊牧民たちからすると――

 農耕民たちは、南から移り住んで来て、草原を耕し、農地に変えていく。

 

 どちらの民にも、いい分はあった。

 

 冒頓が劉邦に弁えさせたかったことは、

 ――中国大陸の農耕民たちに、草原と農地との境界を不用意に侵すのをやめさせよ。

 ということであろう。

 

 裏を返せば――

 そこさえ弁えてくれれば、

 ――それ以上の手出しはせぬ。

 ということではなかったか。

 

 ……

 

 ……

 

 以後――

 漢と匈奴とは和親を保つ。

 

 匈奴の君主は漢の皇帝の娘を妻にする――

 漢は匈奴に毎年、品を贈る――

 などの条件が設けられた。

 

 その「和親」の実態は――

 漢が匈奴に対し、

 ――平身低頭に徹する。

 というものであった。

 

 漢の皇帝以下・文武百官は、むろんのこと――

 中国大陸の農耕民たちにとっても――

 屈辱的な恭順であったに違いない。

 

 『随に――』

匈奴(3)

 匈奴の君主・冒頓(ぼくとつ)が、漢の初代皇帝・劉邦(りゅうほう)を国境紛争の末に取り囲んだ時――

 中国大陸の運命は激しく変わろうとしていた。

 

 1,500 年後のモンゴルによる征服と同様のことが――

 この時、起こっていたかもしれぬ。

 

 ……

 

 ……

 

 実際には起こらなかった。

 

 なぜか。

 

 ……

 

 ……

 

 その経緯は――

 

 実は、どうにもわからぬ。

 

 ……

 

 ……

 

 史書が伝えるところによれば――

 

 この時、劉邦は、軍師であった陳平(ちんぺい)という者の策を採り――

 冒頓の正妻へ品を贈って夫に兵を退かせたという。

 

 にわかには信じ難い。

 

 匈奴は遊牧の社会であるから――

 遠征には家族全員が移動をする。

 

 よって――

 冒頓の正妻が戦場の近くにいたことはわかる。

 

 が――

 仮に、冒頓の正妻が完全に買収をされたとして――

 それだけで、夫が兵を退くだろうか。

 

 ……

 

 ……

 

 単に、品を贈っただけではなかった――

 と説く者もある。

 

 ――貴女の夫は、このまま漢の皇帝を殺すと、中国大陸の美女たちを欲しいままにすることでしょう。

 と、まことしやかに告げて――

 その悋気を誘ったと伝わる。

 

 もし、それで冒頓が兵を退いたとするならば――

 この匈奴の君主は、よほど定見を欠いていたことになる。

 

 そうでは、あるまい。

 

 あるいは――

 以下のように説く歴史小説家もある。

 

 ――この時、匈奴の軍は圧倒的優位だったわけではない。漢からの降将の元部下たちが匈奴に寝返って援軍となる約束であったのが、まだ到着をしていなかった。また、漢の軍の主力が追いつくと、今度は匈奴の軍が取り囲まれる可能性もあった。

 

 よって――

 冒頓は、あえて劉邦の首級を狙わなかった――

 

 ……

 

 ……

 

 真相は、わからぬ。

 

 ……

 

 ……

 

 漢の皇帝親率の騎兵を囲むこと 7 日――

 

 匈奴の軍は、あえて囲みを解き――

 冒頓は劉邦を見逃した。

 

 『随に――』