マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

内科本道、外科外道――

 ――よくできない・よくできる

 の話は、

 ――技術

 の有無であり――

 それは、

 ――理解

 の対象であって、

 ――感嘆

 をもたらす一方――

 ――よくわからない・よくわかる

 の話は、

 ――知恵

 の有無であり――

 それは、

 ――納得

 の対象であって――

 ――共感

 にもとづく――

 

 ということを――

 きのうの『道草日記』で述べました。

 

 ――よくできない・よくできる

 は、

 ――芸術

 や、

 ――スポーツ

 に当てはまり、

 ――よくわからない・よくわかる

 は、

 ――会社経営

 や、

 ――政治

 に当てはまる――

 ということも、繰り返し述べています。

 

 以上のことは――

 いわずもがなのことですが――

 ――どちらか一方だけで十分――

 という話ではありません。

 

 芸術やスポーツにも知恵は必要ですし――

 会社経営や政治にも技術は必要です。

 

 僕がいっているのは、

 ――どちらに重きがあるのか。

 ということ――

 あるいは、

 ――どちらが本質的か。

 ということです。

 

 このことについて――

 僕が最初に考えるようになったのは20代です。

 

 当時、大学で医学を専攻していました。

 

 医学は、ふつうは医療と対を成しています。

 

 ――基礎医学

 という例外はありますが――

 ふつう「医学」といえば、

 ――臨床医学

 を指します。

 

 この医学は医療とセットです。

 

 医療あっての医学であり――

 医学あっての医療です。

 

 いうまでもなく――

 医学は、

 ――学

 であり――

 医療は、

 ――芸

 です。

 

 このような医学と医療との関係になじんでいたことから――

 僕の関心は、

 ――よくできない・よくできる

 と、

 ――よくわからない・よくわかる

 との相違に向いたのでしょう。

 

 が――

 大学を出て、医療の現場に入ったときに、

 (うん? ちょっと待てよ)

 と思い始めました。

 

 (どうやら同じ医療の中にも、学と芸との違いはあるようだぞ)

 と思い始めたのです。

 

 (学と芸との違いは、どうも“入れ子”構造になっているようだぞ)

 と――

 

 この問題意識は――

 以下の印象的な語句になって――

 僕の思考の中に潜り込んできました。

 

 ――内科本道(ほんどう)、外科外道(げどう)――

 という語句です。

 

 同じ頃――

 例の笑い話も――

 僕の思考の中に潜り込んできました。

 

 ――医者なんて誰でもできるさ。よくわからない薬をもっとよくわからない体に入れて病を治そうっていうんだから――

 という笑い話です。

 

 ……

 

 ……

 

 この続きは、あす――