サマルカンド - 世界の都市の物語 - | 鳳山雑記帳アメブロ版

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 古代ギリシャ人はアラル海にそそぐ大河アムダリアをオクサス河と呼びました。アラル海にそそぐアムダリアともう一つの大河シルダリアの間の土地をトランスオクシアナと言います。同じく古代支那の史書ではこれを河間地方と名付けました。トランスオクシアナは別名ソグディアナとも呼びます。

 

 紀元前数千年前の農耕遺跡が見つかるなど世界史的にも開けた地方の一つで、その中心都市がサマルカンドでした。ソグディアナはソグド人の土地という意味です。ソグド人は古来商業民族として有名でモンゴル帝国が世界支配した時彼らを起用し統治に利用しました。高い生産性を持つ農耕地帯でしたから早くから他の地方との交易も盛んだったのでしょう。シルクロードの重要な中継地点でもあるので、ソグド人が商売に長けたのは自然だったかもしれません。

 

 サマルカンドは分かっているだけで紀元前10世紀頃には既に存在し、イラン系(ソグド人もイラン系)の住民が住んでいたそうです。ギリシャの資料では紀元前4世紀に登場しマラカンダと呼ばれました。紀元前4世紀でピンときた人も多いと思いますが、マケドニアのアレクサンドロス大王に最後まで抵抗した都市です。当時から難攻不落で知られ、マケドニア軍も攻めあぐねたと言われます。ようやくこの地域を攻略した時、アレクサンドロス大王は一人の美女を得ます。その名はバクトリアの王女ロクサネ(ロクサンヌ)。ロクサネを側室に加えたアレクサンドロスは彼女を溺愛したそうです。

 

 後漢書にもサマルカンドの記述があり、サマルカンドを中心とした都市国家連合を康国と呼びました。康国の支配者は月氏だと書かれています。月氏はイラン系の遊牧民で最初は甘粛回廊あたりに住んでいました。匈奴が勢力を拡大するとこれに追われ中央アジアまで逃れたのです。ソグド人も月氏も同じイラン系ながら、早くから農耕民族として定住していたソグド人にとって野蛮な遊牧民である月氏の支配は苦痛でしかなかったと想像します。

 

 ちなみに、月氏はソグディアナで勢力を回復し北インドに侵入、大帝国を築きます。これが世界史に出てくるクシャン朝でカニシカ王が有名ですね。サマルカンドはササン朝時代、イスラム帝国時代もこの地方の中心都市であり続けました。その後11世紀のセルジューク朝の前後あたりから、トルコ系遊牧民が侵入、トルコ化が進みます。1077年に成立したホラズム・シャー朝はトルコ人の王朝でした。

 

 1210年、ホラズム・シャー朝はウルゲンチからサマルカンドに遷都します。そしてチンギス・ハーン率いるモンゴル軍の侵攻を迎えました。1220年、徹底抗戦したサマルカンドはモンゴル軍によって破壊されます。この時市民の4分の3が殺されたそうですから恐ろしい。当時の人口は不明ですが、おそらく100万人は住んでいたと思います。

 

 このようにソグディアナの中心都市であったサマルカンドは歴史上何度も破壊されます。その度に再建され大都市に戻るのですから不死鳥のような都市です。それだけ地政学上重要な位置にあったのでしょう。14世紀から15世紀にかけてティムール帝国の首都となったサマルカンドは繁栄します。ティムールは自身の広大な帝国の首都として整備しました。この時の人口は一説では200万人を超えていたとも言われます。

 

 その後ソグディアナの中心都市の地位はブハラに奪われました。ソ連邦が成立するとウズベキスタン共和国として自治国となりソ連崩壊で独立しました。ウズベキスタンの首都はタシケント。サマルカンドは18世紀中ごろから周辺遊牧民族やロシア人の抗争の的となり荒廃します。ソ連邦時代、一時的にウズベク・ソビエト社会主義共和国の首都となりますが、長年の荒廃からついに立ち上がることはできませんでした。

 

 現在サマルカンドの人口50万人。一地方都市になりましたが、歴史ある都市として観光産業にも力を入れているそうです。いつかは訪れたい都市ですね。