April 04, 2020
花を見に。
昨年の桜の季節はランバルに桜スポットがあるって知らなかった。翌年には一目見てみたいと思ってた希望が叶った。
私は四季に疎く無頓着だったので、お花の季節にこれこれを見たいなんて思うようになったのは病気をしてからだ。
次の季節の風景を見られないかもしれないから見たいって感じたのが最初で、その後季節を楽しむことを覚えた。初めて覚えた。
それはおそらく、どんな土地にも季節はあるのに「日本には四季がある」や「日本の四季は」などといった表現が備えてる奇怪な程の押し付けがましさを回避したかったせいだろう。
言われずとも世界中の極めて優れた人々が紀元前の古代ギリシャや古代エジプトから既に季節の暦を取り決め、
以降何世紀に渡る美術や音楽が様々な季節を謳ってるのに
一体全体何だって20世紀や21世紀になってようやく思いついたかのように「日本には美しい四季というものがあります」とか滑稽な事を言われなくちゃならないのか説明しろよ! うるせーよ! っていう苛立ちが、件の「日本の四季」に対してのみ無頓着にさせてきた。
自分の感覚の根本には常に此うした反抗心があるんだ。
水辺へ行き、ポンジュの "水について" を楽しんだ。
《水は気狂いなのだ、とさえいえるだろう。まるで固定観念のようにもっている、自分の重さにしか従うまいという、水のヒステリックな欲望の故に。
勿論、世の中のすべてのものはこの欲望をもっており、その欲望は、つねに、どんな場所でも満たされなければならない。例えば、この戸棚が地面にへばりつこうとする欲望は頑強そのものだ。
そして、他日、もし平衡を失ったと感じたなら、戸棚は、平衡を取り戻そうとするよりも、逆に自分から崩壊してしまうことを選ぶだろう。》
(阿部弘一様訳)
フランシス・ポンジュ、好きすぎて困ってしまう。
そこでもしも「日本には美しい水があります」「日本の水は昔から...」と言われていれば
その間抜けな言い草と凡庸な短文への煩わしさにより
水を今ほど愛さなくなってたに違いない。
*植物と水。ポンジュによれば
lasalledeconcert at 19:41││ 訪問記13