「え・・・?」
暴れる男を取り押さえる為、駆け寄ろうとした時に、横から空気を切る風、そしてとてもシンプルな音が聞こえた。
ドンッ
気付けば男も居なければ、目の前のそこにも【誰もいなかった】。
幾つもの疑問符が頭の中をマッハの速度で通り過ぎる。
自分の思考をもて余すくらいのスピードで。
何が起こったのかが全く分からないまま、芹沢は流れる汗をそのままに、窓際で下品な嬌声を上げて下を覗き見る別の誰かを後ろから羽交い締めにした。
手の中にある手錠を無意識のうちに掛け、絞める。
それから数秒後、もう一度聞こえた音、そして聞き慣れた男の声が、初めて聞くような悲鳴で名前を叫ぶ。
「伊丹!!!」

急激にその場の空気が真冬のように凍りついた。





陽射しがジリジリと身の内から焼き尽くしそうなほど暑い、と思われる。
現に横にいる男はダラダラと大汗をかいて、額から流れてきたそれを、手の甲で拭うこと数度。
白いシャツの襟がジンワリと濡れて変色していた。
「まだ、ですかね?」
「まだだ、ヤツが中にいると確認してからだ。」
動かず待っている時間の方が、この炎天下では辛い。
芹沢の小さな溜め息を聞きながら、伊丹は時計を見てそれからアパートの2階を仰ぐ。
窓は閉まったまま、動く気配がない。
先程、この建物の中に入っていったのは確認済みだ。
2階の、さっきからずっと凝視しているあの部屋であるのは間違いない筈なのに、一向に人の気配が現れない。
この暑さだ、窓を開けるなり空調のスイッチを入れるなりするだろう。
その時がこちらの番だ。
突入は伊丹と芹沢、離れて三浦、既にスタンバイは終わっている。
息を潜めて、その時を待つ。
伊丹の細い顎を一滴の雫が落ちて、灼熱のアスファルトで一瞬のうちに蒸発した。
「先輩。」
差した芹沢の指先で、目的の部屋のカーテンが外にはみ出して揺れ始めていた。
「行くぞ。」
「・・・はい。」
緊張しているのか、先程までの声より幾分か低く小さく、ようやく返事とも取れるものが聞こえてくる。
「ばっか、固くなると怪我するぞ。」
「き、緊張してませんよ!」
自白したも同然の芹沢は、今度は声が上擦っている。
慣れろ、というのも無理がある。
現に伊丹もこの瞬間だけは酷く緊張してしまうのだ。
だからと言って、今の芹沢ほどではない。
「おい。」
「は、はいっ。」
ずいっと伊丹の前に芹沢の顔面が危険な距離まで近付き、反射的に身を引く。
「ちけぇよ!・・・ちょっとあっち向け。」
伊丹はひょいっと明後日の方向に指差した。
素直なことにわざわざ伊丹の指を綺麗に視線は追いかけて空を見る。
「せ、先輩?」
「バカが見るナンとかのケツだな。」
羽を広げた蝉が一匹、何にもない青空の中を、木から木に跳んだ姿が2人の視界に映っただけ、ジジジジジ・・・と妙に間の抜けた羽音が付いていく。
「ちょっと先輩!」
「肩の力抜けたろ?」
笑ったのは一瞬だけ、伊丹はすぐに口許を引き締めて芹沢の無駄な力が抜けた背中を思いっきり叩いてやった。



それが僅か数分前の他愛ない、いつもの時間経過だった。



三浦の激昂にハッとして、男の手首を鷲掴みにしたまま窓辺に引き摺っていく。
「ひゃぁあああはははは!!!いてぇ!いてぇよ!!あはははは!!!」
最早何が可笑しくて爆笑しつつ抵抗をしているのかは知ったことではない。
揺れ続ける薄いレースのカーテンは、芹沢の邪魔をして必死に纏わりつく。
柔らかい材質が余計に彼の動きを阻んでいた。
力任せに掴み引き下ろす。
糸と布が引き裂かれて、上手く芹沢の手元で暴れる男を覆って一瞬だけ大人しくなった。
「三浦さん?!何が・・・?・・・!!!」
真下に落ちた筈なのに逃げ出す男。
その下敷きになっている黒い影。
影も後を追う。
車のエンジン、男は這うように開けられたドアから中に転がる。
三浦の姿は僅かに後方を走っていた。
アクセルを全力で踏み込み、灼熱のアスファルトを空転してタイヤが叫び声を上げた。
影が車の前に飛び出すと同時に、車体は勢いをつけて前進した。
影のことなど無いもの同然で、いとも簡単にそれを弾き飛ばし、そして二度目のシンプルな衝突音。
ドンッ
速度超過のまま走り去っていった。
芹沢の額から目尻で一旦止まった後、頬を伝ってポツンと顎から流れて落ちたのは、多分汗だろう。
確定できない理由は、異常に冷たかったから。
生木を無理矢理踏み折った耳触りの悪い音まで残して、跡形もなく消えていた。
暴れて意味不明の言葉を吐き続ける足元の男をこれ以上にない力で握り締めていることにも気付かないままで、芹沢の一切が完全に停止している。
ただ、喉の奥がぐぐぅと鳴った。
息がそこで詰まる。
しかし、それを打ち破る声が、悲鳴が、怒りが、恐怖が、驚愕が、
そこら一帯を震わせた。
「伊丹先輩!!!」





「先輩!伊丹先輩!!先輩!先輩!」
言葉をそれ以外忘れてしまったように叫び続ける芹沢をどうにか落ち着かせて、そんな半狂乱に似た状況でも一人捨てられた共犯者を忘れず引っ張って階下に降りてきたことを誉めておくべきだった。
思っていたほど三浦も平常心ではなかったらしい。
その事に気付いたのは、刑事部長室に呼び出しを食らって、状況を説明した後に中園から意味の無い小言を3回転半程聞いたところでだった。
俯き気味に反省してるような素振りを見せつつ、こっそり隣に立つ若輩の男を盗み見る。
中園が言う事なんて聞いちゃいないだろう。
唇を噛み締めて、ただひたすらに床を睨んでいる。
恐らく睨んでいるのではなく、気を抜けばこぼれ落ちそうになっている涙を止めるのに必死なだけだ。
証拠に同じく俯いて影になっているというのに、瞳が真っ赤になっているのが分かるほどなのだから。

『伊丹!・・・芹沢!救急車!』
『先輩!・・・ど、どうしよ・・・三浦さん、伊丹先輩、目ぇ開けない・・・。』
『頭打ってるかもしれねぇから動かすな!救急車呼べ!芹沢!』
『先輩!!!伊丹先輩!伊丹先輩!!』
『芹沢!』

「とにかく、この事は口外しないように。一課が犯人取り逃がした上に負傷なんて前代未聞だぞ?!お前達三人の処分は追って沙汰する。」
三浦はこの部屋に入って初めて顔を上げた。
中園の後ろで憮然とした内村と目が合うが、相手はピクリとも動くこと無いまま口を縫ったように結んだままだ。
「・・・分かりました。失礼します。」
「いいか?!絶対に口外するな!」
一度言えば分かる命令を何度も繰り返すと言うことは、何らかの別の意味合いがあるときに限る。
さすがの三浦もグッと何かを噛み締めた、その時、目の端に隣の男が微かに動いたのが映る。
ずっと握りしめていた拳がさらに固く震えるくらいの力が込められていた。
「返事は?!」
内村が何も言わないのを良いことに、ここぞとばかり中園のボルテージが上がってゆく。
「分かりました。・・・ところで。」
お言葉ですが、と物申すことがどれだけリスクを背負うかはよく分かっているつもりだった。
いつもは先に我慢の限界を越える伊丹が発するピキリとした冷たい空気で自分の昇った血を抑え、年下の同僚を引きずり出しつつ退散、となるはずなのだが、残念なことに今はその男が居ない。
三浦を制する切っ掛けが一つもない。
これ以上、ここにいる自分達のことだけならともかく、不在でしかも怪我を負った人間に対する台詞なのか?聞き捨てるにも限度があった。
『お言葉ですが』言いかけた時、先に口を開いたのは意外な人間だった。
「もういい、下がれ。とにかくお前たちは逃走した犯人グループを全力で追え。良いか?三度目はない、分かったな?」
間違いなく機嫌が最高に悪い響きだったが、中園の言葉を遮り三浦の開きかけた口と前に歩みだそうとした行動を制したのは、ずっと沈黙を決め込んでいた内村だった。
「・・・失礼します。・・・芹沢、行くぞ。」
石像のように固まった芹沢を促し、三浦は何も言うこと無く扉に向かって歩きだす。
背後で内村の声が聞こえてきたが、それは彼らに対するものではなかった。
「言っておくが、沙汰を伝えるのはお前かもしれないが、その沙汰の中身を決めるのは俺だ、お前じゃない。」

「・・・ほら、さっさと拭け。そんなツラで部屋に戻るつもりか?それに、お前の仕事はまだ終わってねぇだろ?」
「わ、分かってますよ・・・!」
刑事部長室を出てすぐ、三浦が差し出したハンカチを芹沢は遠慮無く掴んだ。
「・・・間違っても俺のせいとか考えるんじゃねぇぞ?」
ビクリと明らかに肩が震えるのが見える。
肯定したに等しい反応に三浦は閉じていたスーツのボタンを開けた。
「考えるのは、犯人取っ捕まえた後にしろ。あと・・・。」
芹沢の手の中で一瞬にして使用済みになった自分のハンカチを見て、三浦は苦笑いを浮かべた。
「それ、洗って返せよ。」



彼等を筆頭に捜査一課挙げて犯人追跡をした結果、逃走した人間を一網打尽にしたのは次の日のことであり、伊丹の意識が戻ったという連絡が入ったのはその更に翌日のことであった。



病院の入り口までは急くようだった芹沢の足が心なしか落ち着いたかと思えば、とうとう止まってしまったのは、部屋がある階のエレベーターを降りて数メートル進んだ廊下の途中だった。
「・・・?どうした?忘れ物か?」
労災手続きの書類は三浦が持っていた。
思わずペラリと自分の手元にある紙の束を確認してしまう。
「・・・いえ、そうじゃなくて・・・。」
「あー・・・。」
先日自分が放った言葉を思い出し、後ろで立ち止まってしまった男の腕を掴む。
「ちょっとこっちで話すか。」
道を逸れて談話室のソファーにまずはしょんぼりした彼を座らせて、そのはす向かいに三浦は腰を下ろした。
泣いてはいなかった。
ただ、このまま部屋に入ったら、何か別の意味で怪我人を不安にさせるだけだろう。
「刑事の仕事はこういうことも付き物だ、それにいちいち反応してたらやってられねぇぞ?」
「・・・。」
「ま、そうそう起こることでもないが、な。」
瞬間、芹沢の口許がぐっとヘの字に曲がる。
そうそう起こらないことが現に起こった、三浦の言葉は今の状況では慰めになっていないようだ。
「・・・ったく。」
首の後ろをボリリと掻いて、一度外した視線をもう一度不機嫌な芹沢に戻す。
「じゃあ聞くが、お前が落としたのか?」
「・・・違います。」
「お前が犯人に落とせって言ったのか?」
「・・・いいえ。」
「お前が轢いたのか?」
「・・・あるわけないでしょう?」
「じゃあお前は何をしたんだ?」
「・・・犯人を、先輩のあとから入って、取り押さえようとして。」
「違う、お前は犯人を一人逃さなかった。残りの犯人の逃亡を許したのはお前だけじゃない、俺もだし・・・伊丹もだ。」
「それは・・・!」
やっと顔を上げたその表情は何故か必死だった。
「結果的に犯人は逮捕された、俺達は犯人を取っ捕まえるのが仕事だ。その職務は全うした、違わないだろう?そこにお前が何か自分のせいにしたがる理由が・・・分からないでもないが・・・でもな・・・あの男は多分、怒っていないと思うぞ?・・・怒っているとすればそれは芹沢が考えてるようなことじゃなくて、もっとこう・・・想像の斜め上だろうな。」
「・・・。」
それでも納得できないと芹沢はあからさまな不審顔で三浦を見つめている。
「どうしても気になるんなら聞いてみろよ・・・行くぞ。せっかく来たんだからせめてツラ見て書類ぐらい渡してから戻ろうぜ。」
そこ数分の会話のなかで少なくとも、先程までのこの世の終わりを一身に背負った顔ではなくなっていた。
行くぞ、もう一度三浦が促すと、芹沢はゆっくり立ち、返事はせずコクりと一度だけ頷いた。



「お前らが最初かよ・・・。」
「第一声がそれかよ。」
思っていた以上に口は達者だった。
しかし想像を遥か越えてその姿は息を飲むほど凄惨だった。
グッと堪えて芹沢は三浦の背後、出来るだけ伊丹の視線上に入らないような位置を陣取ったつもりだったが、残念ながら目敏く見付かってしまった。
「で?」
「で?って・・・何ですか?」
「犯人逮捕、できたのかよ?」
何か罵倒されるのではないかと身構えていた芹沢に飛んできた質問は、そんなことより犯人の行方だった。
「・・・してなきゃ来るわけねぇだろ?ほら、書類。起きれるようになったら読んで書いとけよ。また取りに来るから。」
代わりに答えた三浦に、お前じゃないと言わんばかりに鋭い目付きが睨む。
「昨日、逮捕、しました。」
「そうか、だったら俺も名誉の負傷だな。」
にんまりと笑ったつもりだろうが、ぐるぐる巻きにされて絆創膏がこれでもかと貼られた顔では、上手く表情は作れない。
ほんの少し頬が動いただけで終わった。
とても久しぶりに伊丹を見た気がする。
たった数日間の出来事。
ひどく時間が経った気がして、一瞬狂った自分の時間感覚に芹沢は戸惑いを覚えていた。
「お前が逮捕したのか?」
「え、いや、それは・・・。」
伊丹が反射的に庇った犯人はやはり無傷ではなく、足を引き摺って逃走しようとしたところを芹沢がタックルした。
『今度は逃がさねぇ!!!』
勝手に出てきた咆哮に、芹沢の下から睨みつけてきた男を、渾身の力で締め上げる。
「コイツが逮捕したよ。」
再び三浦が答えた声にハッとする。
「だからアンタじゃねぇって。」
「俺が・・・。」
『確保した』と言って良いものだろうか?
言う言葉を失くしてしまって、ただ伊丹の顔色を、いや目を窺う。
「あーっ・・・たくよぉ・・・にしても腹立つな・・・。」
バグンッと心臓が跳ねて血管まで一斉に波打った。
やはり怒っている。
あの時、動けなかったことを。
一瞬の出来事とは言え、どんなに反応が早かったとしてもどうしようもできなかった、それは間違いない。
けれど、それでも。
耳の奥に早鐘が賑やかに打ち鳴らされる。
動いてもないのに汗が滲んできた。
「あの、伊丹先輩、俺・・・。」
「何で俺は犯人の下敷きにならなきゃいけなかったんだ?腰痛悪化したぞ。」
「あ、え???」
言い訳するより謝った方が早い。
謝罪を唇に乗せようとした寸前、言い放った伊丹の【理由】に、『すみませんでした』を寸出で飲み込んだ芹沢が発したのは面白いほど間の抜けた声。
「そりゃお前がケーサツカンだからだろ?」
「関係ねぇだろ?」
「あるだろ、そういう風に出来てるんだから。」
軽口を言いつつ、三浦がコッソリと芹沢に目配せをし、口の端を上げた。
「・・・。」
「できてねぇよ!・・・いてて。」
思わず出た大きな声は傷に多少響くようだ。
しかめ面が苦痛に歪む。
「で?何か言いかけたよな芹沢。」
「あ、その・・・。」
「んだよ・・・さっきから歯切れ悪ぃな・・・先輩お加減いかがですか?ぐらい言えねぇのか?お前もう少し先輩を心配できねぇのか?」
「十分すぎるぐらい心配してたけどな、お前が爆睡してる間。」
「み、三浦さん!」
慌てて三浦の背中に向かって叫ぶも、しっかり聞いていた伊丹の勝ち誇った口許はからかうネタができたとばかりに嬉しそうだった。
「ほぉ、十分ってどのくらいだ?」
「ちょっ、伊丹先輩も・・・じゃなくて!そうじゃなくて!・・・じゃなくて、ですよ・・・先輩。」
小さくなる声と一緒に、また芹沢の顔色が暗くなる。
「先輩、怒ってないんですか?」
「何を?」
間髪いれずに返ってきた質問に、意を決した。
「俺に!・・・怒ってますよね?」
『何を』とはさすがに言葉にはできなかった。
正しくは、芹沢の中に渦を巻く感情はハッキリとした表現に起こすには複雑過ぎた。
「怒ってるわけね・・・ああ、怒り狂ってんな。」
即座に否定しかけて止めた。
「おいおい、伊丹・・・。」
「ですよね・・・俺・・・。」
「分かってんだったらてめぇ、ちょっとこっち来い。」
伊丹の長い人差し指がチョイチョイと後ろに隠れたままの後輩を呼びつける。
「はい・・・。」
狭い空間を三浦の横をスルリと抜けて、観念した芹沢がベッドサイドに立つ。
消毒薬の匂いに混じって生々しい血の匂いに思わず顔を背けたくなったが我慢する。
「頭、こっちに寄越せ。」
「はい・・・。」
恐る恐る近付く。
「芹沢、ちょっとあっち向け。」
「・・・先輩、また俺騙そうとしてません?」
「しねぇよ、良いからあっち向け。」
数日前は蝉が飛んでいく空だった。
からかっていないとすれば今度は何を?
言われたとおりに伊丹の指先を今回も綺麗に追いかけて、ゆっくり振り向く。
あったのは。
「何もないじゃないっすか・・・?!」
真っ白な天井とまだ点いていない灯りがポツンと一つ逆さまに張り付いているだけ、芹沢が振り向こうとしたのをいち早く妨害したのは後頭部に突如受けた衝撃だった。
「ってぇ・・・!ちょ、せんぱ・・・!」
「せっかく逮捕したくせに、お前のそのシケたツラを見なきゃいけねぇのが今いっちばん腹立つ。」
ボソリと呟いた声が、どこか凍り付いていた芹沢の中の何かにピシリとヒビを入れた気がした。
その声はまだ、彼に向かって続けていく。
「勝手にこの世の終わりみてぇな顔してんじゃねぇ、バーカ。それと、勝手に何でもかんでも自分のせいにしてんじゃねぇ、お前はそんなに思ってるほど大した事なんかできやしねぇんだからよ。・・・それは、俺もおんなじだ。だからお前はふてぶてしく自分が逮捕したって俺に向かってドヤ顔してりゃ良いんだ。分かったか?」
「わ、分かり・・・ませんよ。」
「あ?」
絞り出したのは芹沢自身も思ってもみなかった反論だった。
「俺は・・・先輩が・・・目の前で・・・。」
「勝手に俺のドジを自分のせいにするんじゃねぇ。」
部屋に静けさが戻ってくる。
遮断されているはずの外から、暑さは滲んでこなかったが、蝉だけが不安定なリズムで泣いていた。
「・・・芹沢、そろそろ行こうか、まだ後処理が残ってるからな。」
「・・・はい。」
伊丹には震えを必死で堪えた声しか聞こえない。
見えているのは三浦だけ。
これ以上はと出した助け船だった。
「じゃあまた、来るわ。」
「次来るときはその情けねぇ顔何とかしてこいよ、はなたれ小僧。」
「た、垂れてませんよ。」
伊丹にはお見通しだったようだ。



空調でヒラヒラと泳ぐ遮光カーテンは、風の音を見せてくれる。
一人きりで動けない身体はベッドに預ける以外無く、痛いだけで頭の中は非常に退屈していたから、眺めているだけでも暇潰しになるか、としばらく眺めていた。
一度も同じ動きを繰り返さないそれが伊丹の退屈しのぎに役立ったのは僅か数分で、自然とため息が吐き出された。
「・・・あっちぃな。」
窓の外の景色は青いだけ、横たわる姿勢では雲一つ無い青く蒼く終わりの無い空。
濃い夏の空。
唯一自由に動く腕を伸ばして、つい・・・と指を動かす。
「あーあ・・・ドジっちまったなぁ・・・。」
突き飛ばされ落ちる数瞬は思いがけず長く感じた。
見えた青い空の中に伸ばした自分の手が映る。
実はその後の記憶は曖昧だった。
轟音、悲鳴、怒声、激痛が全て一気に襲いかかり、処理能力の限界を簡単に越える。
『伊丹先輩・・・!!!』
聞こえなかったもう一人の声が響いた。
【無事だった。】
それに安堵したのか、プツンと意識を途切らせて。
名を絶叫する芹沢の姿の後ろにあった眩しい紺碧の残像が焼き付いている。
「まぁ、及第点ってとこか・・・。」
泣きそうな顔をしてやって来た後輩をちょっとぐらい褒めてやろうかとも思っていた。
が、それはすぐに思い止まった。
謝ることを許したら、以降その事をずっとずっと引きずるに違いない。
その時、その瞬間の、一番自分が正しいと思うことを、できる最善の方法を取る、まだ若い彼の判断力をこんな他愛のない出来事で鈍らせてはいけない。
それ以上に。
「真っ平ごめんだ。」
伊丹が許せなかった。
自分のせいでこうなったのに、誰かに謝られるなんて。
それは誰であろうとも、だ。
ふっと出た吐息に苦笑いを乗せてもう一度窓を見上げた時、遠くから革靴の高い足取りが2つ戻ってきた。
「・・・?忘れ物か・・・?いや、違うか。」
紛れて乱暴な足運びと一人勝手に喋り続ける男の声に舌打ちする。
「だぁれが喋ったんだよ・・・ったぁくよぉ・・・。」
悪態をつく割に、伊丹は自分で気付かずほんの少しだけ、笑っていた。