拙著『新・女子校という選択』の最終章には「母性」というキーワードが出てくる。ここでいう「母性」とはすべての生命に宿された「宿命」のことであり、普遍的な意味での「愛」のニュアンスを含んでいる。生物学的に女性の劣化コピーである「できそこないの男たち」(生物学者福岡伸一博士の名著のタイトル)にももちろんある。

 

自分たちの命を生かし、次世代につなげるためにこそ、糧を得るのであり、それをよりたしかなものとするためにこそ人間は群れをつくり、むらをつくり、弱者優先の社会をつくることで発展してきたはず。つまり、高度に文明化された社会も、グローバルな経済活動も、もとはといえば「母性」を守るため、「母性」によってつくられた。それこそが目的であり手段である。

 

しかしいつしか、糧を得ること自体や、社会や経済を継続させることが私たちの目的であると考えられるようになり、子どもを産み育てることはむしろ、メインストリームから外れることであるとされるようになった。

 

この経済活動優先の現代社会は、妊娠や出産や授乳という直接的な形で「母性」を示すことができないオスたちが、自分たちがもつ別の価値を誇張してみせるためにこつこつと築き上げた壮大で巧妙な舞台装置だといえるかもしれない。

 

だとすれば、文明のはじまり以来オスたちは、自分たちの中にも必ずある「母性」をあえて軽視するような反生命的な文化を半ば意図的に発展させてきたのだともいえる。それが、戦争、環境汚染、差別などの人類の愚かさを生み出している。

 

しかしオスがいない女子校という環境では、「母性」すなわち"理屈抜きで受け継ごうとする本能"が生き生きと覚醒するのを私はこの目で見た。これが、オスに最適化された現代社会を内側から溶かす溶剤になるのではないか。

 

何千年もかけて構築された社会の歪みを内側から溶かして再構成するためにも、女子校が重要な役割を果たすのではないかと私は思う。

 

「内側から溶かして再構築する」という意味で、文明社会はいま、さなぎの時期を迎えようとしているのかもしれない。「母性」の価値が再評価され、妊娠や出産や授乳ができなくても広義での「母性」を発揮することはできることを男性も学べば、社会は大きく変わるだろう。

 

それが、拙著『新・女子校という選択』『新・男子校という選択』の取材を終えての結論である。