2020年05月06日

●一挙手一投足が「良知を致す」を実感

◆「今、私がやっている行為は、扉の清掃をしているのではなく、良知を致しているんだ」

 5月6日(水)の今日の15時頃、いわゆる「一元論」をしみじみと実感。以前からキッチンの流しの下にある扉の汚れが気になっていたので、昼食を終えてキッチンに立ったついでにスポンジに液体クレンザーをかけて、扉の汚れを取り始めたのである。6枚のデコラの扉の汚れを、スポンジでこすっては、布巾でせっせと拭き取る作業を繰り返すうちに、
「今、私がやっている行為は、扉の清掃をしているのではなく、良知を致しているんだ」
 とつくづく思えてきて、その思いが確信へと変わっていったのである。
 料理をしている時や、食事の後の片づけや、それらを流しで洗っている時などにも、もちろん、これは良知を致しているんだという思いがなかったわけでは無いのだが、今日は、そんな時々に味わっていた思いが、確信へと変わった瞬間だったのである。
 繰り返しになるが、以前は、日々の生活のなかで、掃除をしていたり、洗濯物を干していたりする時などに、
「良知を致す」
 を意識したのは時々だったのだが、今は、今こうしてキーボードを叩いている時であっても、
「今私は、良知を致しているんだ」
 という明確な自覚があるのだ。
 それも、かつてのように、時々ではなく、常に「良知を致す」を自覚しているわけで、これこそが孔子が言った
「〔良知という〕一を以って貫く」
 だということも、今回併せて実感したのである。
 俗にいう「大悟する」とは、言い換えれば二元論から一元論へ転換する、目覚める事なのだが、一元論を、頭で分かったというのではなく、明らかに実感した、心で納得したのである。とはいえ、今後も、これまで同様か、これまで以上の「悟後の修業」が継続されなければ、この気づきは雲散霧消することになる。
 以前は、どちらかと言えば、「良知を致す」を自らに言い聞かせていたレベルで、現在は、違って、ワンランクアップした感じだ。小事も大事の区別などまるで無く、コーヒーをたてることも、掃除をすることも、こうしてペンを走らせることも、仕事をしてお金を稼ぐことも、私の一挙手一投足が、私に言わせれば「良知を致す」なのであり、心に天理を、真の私を回復することなのだ。
 禅語に「坐忘」という言葉があるが、この良知への意識が将来忘れ去られていき、良知そのものに成れることを祈るばかりである。

◆真の宗教家とは、五井昌久先生のことを言うのである。

 これには、昨年頃から私淑するようなった白光真宏会の開祖・五井昌久(ごい・まさひさ。1916〜80)先生の教えや、このところ毎日手にするようになっていたルドルフ・シュタイナー、森章吾・訳『自由の哲学』(イザラ書房)や、昨日入手した今井重孝『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)という本なども影響してのことであろう。
 こう書くと、ルドルフ・シュタイナー、森章吾・訳『自由の哲学』を手に入れたいと思う人が出て来るのだろうが、本書は哲学に興味がない人には正直言ってお勧めできないので、それでも読んでみたいと思う方には、今井重孝『シュタイナー「自由の哲学」入門』の方の一読をお薦めしたい。
 というわけで、五井昌久先生のご著書も、是非の一読をお薦めする。
 真の宗教家とは、五井先生のことを言うのである。五井先生と言えば、昭和の陽明学者として高名な安岡正篤先生が尊敬し絶賛されたことでも知られており、合気道の開祖・植芝盛平先生とも肝胆相照らす仲であったことも有名な話である。
 私が「男の中の男」とひたすら私淑した明徳出版社の代表で二松学舎大学の理事を務められた小林日出夫(1927〜2007)先生ご夫妻が五井先生の熱心な信者だったことを、小林先生亡き後に気づかされたのだが、実はその後も、五井先生とのご縁の深さを思い知らされる出会いが相次いでいる。

▼五井昌久先生と合気道の開祖・植芝盛平先生

五井先生と植芝先生 小さい写真

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akio_hayashida at 19:34│Comments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 陽明学 | 宗教

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