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Vol.032 健全な諦め

2019年11月11日 00時42分54秒 | ココロと向きあう
5年半ほど前に「諦める」ということについて記事を書きました。
それからずいぶん経ってボクの思うところも少しずつ変わってきたように思います。
だんだん還暦も近づいてきて、「諦める」ことが増えてきたのと、「悟り」に近いところに少しだけ近づけたせいもあると思います。

そのときにも書きましたが、本来「諦める」という言葉は、「仕方がない」と断念するということとは違ったようです。
語源として「諦」という字は「真実」を意味していて、「諦める」とは「明らかにする」というのが本来の意味だそうです。

「諦めきれない」ことについて「齷齪しない」「じたばたしない」と捉えたり「絶望する」といった意味に繋がってしまうとそこにはかなりの「痛み」も伴うし、「悲しみ」「切なさ」「空しさ」といった感情にやられてしまいそうになります。

今回お話ししたいのは「悟りましょう」とことではなくて、もっと現実的にものごとや出来事を捉えて楽になっていきましょう、というお話です。

ボクの場合でいうと、例えば、もう今では可能になりつつありますが、ボクの適齢期では同性婚はどう考えてもあり得ない選択でした。
また、法律上認められていないパートナーがICUに入るということはとても無理なことでした。
もちろん、同性婚が認められるように活動したり、自分の認めたパートナーがICUに入れるように社会に受け入れてもらうようにするのは立派で素晴らしいことです。
ただ、ボク自身が本当にそれを望んでいたのかというと、少し違う気がします。
パートナーをパートナーとして社会に認めてもらうのが本当の望みではなく、おそらく自分の近くの周りの人に認められたり、パートナーを友だちに堂々と紹介できることだったのだと思います。
だとしたら、法律で認められるということは、ボクにとっては割とどうでもいいことだったように思います。
ICUにしても、自分がいちばん弱って心細くなっているときに、ICUでパートナーが手を握っていてくれたら、どんなに心強いかと思います。
でも、そばにいて手を握ってもらうことがボクの本当の望みかと言えば、おそらくそうではなくて、ICUの壁を隔てた向こう側でパートナーが願ったり祈ったり応援してくれることの方がうれしいはずだと思うようになりました。
ボクはこういった考え方を「健全な諦め」と最近呼んでいます。
不治の病にかかったら、もちろん治療も大切だけれど、ボクは残りの時間をいかに有意義に過ごすかを考えていくと思います。

5年半前は、この「諦めきれない」感じが、おかしな「頑張りすぎ」の自分を生んで体を壊してしまうことに焦点が行っていました。
その傾向は今でもあります。
まだまだボクの中にも諦めた方がいいことを「諦めきれずにいる」ことがたくさんあります。
ただ、ずいぶん楽な考え方をできるようになりました。
これは、リフレーミングのひとつなのかとも思います。

かといって、なんでもかんでも諦めればいいということではありません。
昨今のラグビーの日本代表が与えてくれた感動や多くのスポーツ選手やほかの成功者の方たちは「諦めなかった」からできることがあることを教えてくれています。
そして、ほとんどの成功者が、なぜ成功したかを訊くと、「諦めなかったから」だと言います。
それはおそらく、その人の中では真実なのでしょう。
諦めなかったら成功するとは限りませんが、諦めていたら100%成功しません。
人生、幾たびかは「可能性のあることに賭けてみる」場面はあるでしょうし、そのために並々ならぬ努力をすることも美しいことです。

ですが、諦めてしまった方がいいことを諦めきれずに執着することで、無理な事態を招いたり健康を損ねたり必要以上の迷惑を人にかけて成し遂げられなかったら、それは単なるわがままになってしまうのです。
不器用に努力を重ねてしまう人をたくさん見ていて、はらはらするけど応援したくなったり、心配だけど力をもらえたりすることもあります。

結果はわからないし、プロセスの中で得るものもたくさんあるでしょう。
何パーセントの可能性だったら賭けてみる価値があり、何パーセントの可能性だったら諦めた方がいいのか、それは誰にもわかりません。
どのくらい努力に耐える力を持っているかにもよると思います。

ボクが大切にしたいと思っている諦めの基準は、自分の信念やモットーがそこにどれだけ関わっているかです。
そして、時には客観的に見て、その力が自分にあるのか、努力を惜しまずできるのか、どのくらいの犠牲なら払うことができるのか、ということだと思います。
自分のぶれない軸とどれくらい関わっているか、なのだと思います。
なんとなく、ではなく、どこまで貫き通す自信や確信があるのかにも因ると思います

おそらくボクはLGBTの支援に関わることだったら、きっと「諦めない」方を選ぶと思います。
そして、自分の力や社会的な環境も考慮したうえで、いかに自分がさほど大切でもないことに執着していたがが見えてきたら、他の結果に繋がる方法を模索して「諦める」必要があることを見極める力が必要になってくるのかもしれません。

あなたの、ほんとうにありたい「ありのままの姿」に、今しようとしている方法は沿っているのか、大して価値のない見栄や欲で「諦めきれない」ことになっていないか、今いちど、問いを立てていただくことをお勧めしたいと思います。

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