豆腐のPrivate Life

豆腐の私生活・趣味

Vol.031 自分を許す

2019年10月30日 23時01分46秒 | ココロと向きあう
ボクのモットーというか信念は、自分が「自分らしく」あることです。
この「自分らしさ」という言葉は「わがまま」とか「自分勝手」という意味ではありません。
人間は社会的な動物だから独りでは生きていけません。
だから自分勝手にふるまうことで、周りを傷つけたり、相手のことを考えずに自分の要望だけをごり押しして、人と関係性がうまくいかなくなっては、気持ちの良い「自分らしさ」にはならないからです。

前回も述べましたが、ボクらLGBTが生きやすくなることで、LGBTでない人たちが肩身の狭い思いをするのはあまりうれしくないです。
あくまで、LGBT当事者と非当事者の共存が目的です。

しかし、この「自分らしさ」というものを獲得するのは、ボクにとって至難の業でした。
なぜなら、いいも悪いも「自分らしさ」だから、自分の嫌な部分や嫌いな部分があっては、自分のことが好きになれないし、「自分らしさ」は見えてきません。
嫌な部分を好きになる必要はありません。
ありのままを受け入れることが必要だということです。
極端に言うと、今現在自分が人と違って嫌だというところにたくさん「自分らしさ」が隠れています。

「自分らしさ」を獲得したのは40代後半だったと思います。
うつになってから、回復するには自分の内面ととことん付き合っていく必要がありました。
それまでは、長男だったということもあり、内孫や結婚や苗字の継承や墓守りができない自分はダメな人間で親不孝者でした。
ゲイであるというだけで、自分に自信がなく、ゲイであることをひた隠しにしてきたわけだから、「自分らしさ」なんてどこにもありません。
ゲイである要素を取り除いたら、自分ではなくなってしまいます。

多くのカミングアウトしていない、自分の本心を語れないLGBTの人たちは、今の環境で、普通の人生を歩むことが幸せに決まっていると思っている親の元にいて、「自分らしさ」なんて感じようがないと思います。
男は男らしくいい大学に入りいい奥さんに巡り合い子どもを持ち素敵な家庭を築く、女の子はきれいなお嫁さんになって家事をしていい母親になり家庭を守る、それが人の幸せだと信じきっている親に、「ボクはそれできないから」なんて簡単に言えないのです。
自分の本心を隠し、親に愛されようとする子どもたちが、自分は「ありのままであっていい」なんて思えないのです。
そんなことを四六時中感じながら生きていくことがいかに苦しいか、わかっていただけるでしょうか。
「ちょっと理不尽なことがたまにあるけど、うまくいっているし簡単に気持ちの切り替えができる人」とは雲泥の差があるわけです。

前回述べた、LGBTの方たちの中には「自尊感情」が低い人たちが多いというのは、まさにここに問題があります。

「ちょっと理不尽なことがたまにあるけど、うまくいっているし簡単に気持ちの切り替えができる人」というのは、僕がこれまでいろんな人と接した限り、割りと幼少期にのびのびと育ってきた人が多いように思います。
世界を飛び回っているLGBTの活動家やスピーカーの方たちも、親がリベラルな考えを持っていた人が多いように感じます。
実際はLGBTの方の多くが、普通の人生を歩むことが幸せに決まっていると思っている親の元に生まれている人が多いように感じています。リベラルな価値観の親にのびのびと育てられた方たちと、幼少期から我慢ばかりを強いられた人とはずいぶん違うように感じます。
幼少期に比較的のびのびと育ってきた人や、リベラルな考えを持った親の元に育った人というのは、「自分がありのままであっていけない」とは思ったことが比較的少ないように思います。

「自分がありのままであってはいけない」と思い続けてきたLGBTの人たちにとっては、簡単に他の人と身体的特徴や性自認や性的志向が違うだけとはならないし、同性婚が認められたりパートナーシップに関する環境が整ったからといって、「はい、じゃあ、すぐにみんなにカミングアウトして、制度を活用しますっ!」とはならないのです。

「自分がありのままであってはいけない」と思い込んでいた方にとって、それと「自分を許す」とは、どのような関連性があるのでしょうか。
「自分がありのままであってもいい」気持ちになるためには、多くの人との共感が必要になってきます。これについては、これまでも少し触れてきた「自尊感情」に関係があると思っていますが、それはまた後日書きたいと思っています。
「自分がありのままであってはいけない」という思い込みは、自分の中に許せない部分があるからだと思っています。
簡単にいうと、自分が置かれた不条理で納得いかない環境を受け入れるといったことになるでしょうか。

ボクの場合でいうと、
「ゲイに生まれて普通に生きられない自分を受け止めきれない」
「ゲイに生んでしまった両親を恨む」
「ゲイであることで生きにくい環境を憎む」
「家族を持てない、子どもを作れない自分を悲しむ」
といったことを「仕方がない」こととして受け入れていくことだったかな、と思います。
これは後日書けたらいいな、と思っている「健全な諦め」ということに通じていくことになると思いますが、その限られた条件の中でいかに自分らしい選択をしていくのかということになると思っています。
その過程では、「人が人を愛するのに性別は関係ない」とか、「幸せの形は必ずしも結婚し子供を持ち家庭を築くこととは限らない」といった価値観を自分の中に植え付けていく作業も必要になってきます。
一般に存在する概念や、男女間の夫婦を前提にした法律や制度に抗っていくことになりますし、それを良しとしている人と溝を作ることにもなります。多少の傷にも耐えていかねばなりませんし、その傷を自分で癒す力も必要になります。

だから、LGBT本人の努力も必要になってくるわけです。ボクの目から見ると、なぜLGBTばかりがその努力をしなければいけないのか、ということには少し理不尽さを感じます。

まだまだLGBTに寛容とは言い難い社会の中で、LGBTの苦しみをあまり理解していない人たちの中で、生きていくのはなかなか難しいことなのです。なので、アライの方たちにもっともっとLGBTのことを知っていただく啓蒙活動もします。

両側から寄り添っていく姿勢が必要になるんです。

でも、そんなLGBTの自分を受け入れられたら、これほど強いものはないと思うんです。ボクは今、ゲイであるボクにしかできないことがたくさんあると思っています。その痛みを実体験で知っているから、寄り添えることもたくさんあるんです。どこまでできているかわかりませんが、乗り越えられたから言えることがたくさんあるんです。

それをこれからも誠心誠意一生懸命に死ぬまでやっていこうと思っています。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿