深谷のもやし屋(有)飯塚商店創業者であり、初代代表取締役社長飯塚英夫(平成22年没 享年八十八歳)は第二次大戦において凄惨を極めた【インパール作戦】の生還兵であった。日本陸軍参加将兵8万6千のうち戦死者3万2千あまり。その大半が病死もしくは餓死だったと言う。生き延びた英夫は帰国後、その体験あって食に絡んだ仕事に従事、農業、青果卸と営みそして昭和34年に地元でも珍しいもやし生産業(有)飯塚商店を立ち上げた。そして令和元年の今年、飯塚商店は創業60年を迎えた。どんぞこから這い上がった父も母ももういない。

 

『戦争ってのは食えなくなったらお終いなんだ。あれがいやだ、これがいやだなんて言っているやつらからどんどん死んでいった。俺は食えるのものなら何でも喰った。それで生き延びた』

 生前、英夫が家族の前で何度も語った言葉だ。このインパール作戦では多くの犠牲者が出たが戦闘で死んだものより、病気(マラリア)と餓死で命を落とした兵隊が大部分だったという。父がこの戦争で学んだのは「生き残り方」だったのではなかろうか。家訓として飯塚家に残したわけではないが、自分の覚えている生前の父の生きざまを見るに、父の中で戦争はずっと続いていたのだなと感じることがあった・・・・・そして飯塚商店を継いだ長男の私も、今になって父の生き残る術の世話になっている気がするのだ。

 

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 1972年(昭和47年)の夏、飯塚家は珍しく家族で琵琶湖に来ていた。もやし屋で忙しい両親だったがこのときは業界団体の会議か親睦会があったようで、それで私の記憶でも数少ない家族旅行になったわけだ。

 

 海のような琵琶湖で水遊びをして、その後一緒に来ていた同業者の家族と一緒にボートを漕ぎを始めた。ボートはそれぞれの家族単位で。当然、父が漕いでいたのだろう。私はは水に手を入れながら遊んでいた。ある程度沖まで漕いでみんなが一休みしているとき、父がいきなり私の両脇を掴んで湖に放り投げた。「それっ」とか「ほらぁっ」と言ってたような気がする。あとで聞いた話だがそれを見た周りの家族は驚き凍り付いたらしい。琵琶湖の沖は当然足のつかない深いところ、私は一度ブクブクと緑色の湖に沈んだ後、再び湖面に浮かび上がった。それから父のいるボート目指して当時、泳ぎも知らなかった私は必死で犬かきで近づいた。そしてボート近くまでたどり着いた時に父はたくましい腕で私を引っ張り上げた。私は必死だったがその時父は笑っていた。

 

 あの時一緒にいた母は、私が投げられた時驚きはしたが、大騒ぎすることもなく「お父さんは泳いで助けられる自信があったからお前を投げたんだろうね」となぐさめだかなんだかわからないけど私にそう話した。

 

 今だったら児童虐待とかいろいろ言われるだろうな。ただ父はそういう人間だった。いきなり何かをやる、一度決めたらためらわずやる人だった。まわりがなんと言おうと。

 

 ふと考える。何故父はあの時私を琵琶湖に放り込んだのか。理屈じゃない「本能的に必死に生きること」を教えたかったのか。父の教育の一貫だったのか。ただウケ狙いだったのか。今となってはわからない。ただ父は先の戦争で「必死に生き延びた人」だ。これは敢然とした事実だ。

 

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 それから27年後、もう戦争もインパール作戦もない時代だが、飯塚商店は再び暗い水の底に投げ込まれた。お金もなければ、あの時助けれくれた力強い父もいない。でも死ぬわけにはいかない。私はもがき苦しみながら必死に浮かび上がろうとした。父も母もいないが支えてくれる妻や子供たち、もがき続けることで沢山の理解者も増えてきている。創業60年の今はまだまだ安定したボートにはたどり着けぬが、おぼれずに湖面で息をする事くらいはできている。

 

 父が若かった私を琵琶湖に投げ込んだこと、その判断は間違っていない気がしている。