トーマス・オーエン・クレーン |     クレーン謙公式ブログ

トーマス・オーエン・クレーン


どこも行かないので、祖先の足取りを追って想像で旅をする、パート2。

前回はポルトガルのルーツを辿ったので、今回はイギリスの血筋を辿ってみます。
クレーン家の5代前まで遡って、その人物像と歴史背景を書いてみます。
人物の名は、トーマス・オーエン・クレーン

 

 

(1799年~1869年)。彼は、東インド会社の社員でした。

トーマスが出てくる最初の記録は、まるでチャップリン映画のようなエピソードです。
トーマスは1824年、25歳の頃、インドのいる兄弟を訪ねるべくイギリスから船に乗りますが、途中で船がスペイン沖で沈没をしてしまいます。
ーートーマスを始め、助かった数名は岩場まで泳ぎ着き、そこで飢えをしのぐ為、靴などを食べてひと月を生き延びます。
近くを船が通ったので、ようやく救助されるのですが、その船はシンガポールへと向かう船でした。
トーマスは開港したばかりのシンガポールへと流れつき、残りの一生のほとんどをシンガポールで過ごします。
と、このように書くだけでも、実に人生とは不思議なものです。
この時、トーマスが沈没した船と共に海に消えていれば、その後に続く5代後の僕もこの世には居なかった訳ですから。

トーマスに関する記録は、前回に書いたホセ・デ・アルメイダ程は多くはありませんが、なるべく資料と照らし合わしながら、その人生を追ってみたいと思います。
記録によればトーマスは1799年11月6日にロンドンで生まれています。
ミドルネームにオーエン、と付いている所から、元々はウエールズ出身なのかもしれません。
(ウエールズにはオーエンという名前がとても多いらしいです)

いつ、彼が入社したのかは分かりませんが、シンガポールでは東インド会社の社員として、ポルトガル人との折衝を任されていました。
シンガポールは同じく、東インド会社の社員スタンフォード・ラッフルズにより開港されています。
おそらく、トーマスはラッフルズから直に色々と仕事を任されていたかと思われます。

 

(一番最初にアップした画像は1846年に描かれた絵で、当時のシンガポールを描いており当時から様々な国籍の人々がいたのが分かります。

この多様さは現在のシンガポールの人種構成とも繋がっており、シンガポールに当時から代々住み続けている僕の遠い親戚は日本、インド、など10ぐらいの国が混じっています)

 

ーーさて、この東インド会社ですが、現代人の感覚からすれば、ただの『会社』とは捉えきれない程大きな影響を世界史に刻んでいます。
実は『東インド会社』はイギリスだけではなく、オランダ、スエーデン、デンマーク、フランス、にそれぞれ独立してありました。
東インド会社の実態に迫るだけでも、本を数十冊も読まないと全体像の把握が難しいでしょう。
ややこしいので、ここでは『イギリス東インド会社』のみに触れて、先に進めます。

ーーイギリス東インド会社は実質、インドを植民地支配していて、軍隊も所有していました。
現代人の感覚からすれば、軍隊を所有していて、その力で国を支配する企業なんて、実に不思議な感じがします。
アヘンの売買などの『黒歴史』も列挙すれば、東インド会社は超ブラック企業ですが、けっして一枚岩の会社ではないでしょう。
当時東インド会社は、中国などと商売をする為の交易ルートを確保するべく、その拠点をマレー地区で探していました。立地的な条件から、ラッフルズはシンガポールに白羽の矢を立てた訳ですが、どうやらラッフルズは会社の意向だけではなく、自らが描く『理想郷』の設立も考えていたようです。

恐らくは、ヨーロッパでは実現ができなかった桃源郷をアジアのどこかに築きたかったのかもしれません。ラッフルズはアジアの語学のみならず、現地の文化や自然に多大な関心を寄せていました。
世界最大の花として知られる『ラフレシア』はラッフルズ率いる探検隊が発見をして、その名前は『ラッフルズ』から取られています。
インドネシアでは、仏教寺院の遺跡を発見したりして、後にラッフルズは学者としても名を残しています。

ーーこれは僕個人の感想ですが、東インド会社が解体された後に、その哲学はシンガポールという国へと形が変わったのではないかと思います(あるいは、ラッフルズの思想の結果と言ってもいいかもしれませんが)。
現にシンガポールは当時から現在に至るまで、公用語は英語です。
このような視点で見てみますと、違った見方でシンガポールを見る事ができます。
SF映画『ブレードランナー』はアジア系移民が入り混じった後の未来世界を退廃的に描いていますが、実際にはシンガポールのように世界は変化をするのかもしれません。

ーー話を祖先のトーマスに戻します。
ポルトガルとの折衝を任されたトーマスは、しばらくしてボルトガル人の元医師、ホセ・デ・アルメイダ

 

 

とビジネスパートナーになります。
二人は農業経営を開始して、シンガポールの未開拓の土地を農地へと変えていきました。
二人はコットンを輸入して、コットンとココナッツの栽培を始めます。
当時はポルトガルの労働者が農地で働いていたそうですので、比較的初期にはシンガポールにはポルトガルの移民がすでに多く住み着いていたのでしょう。

ヨーロッパ人が様々な国々と混血になった末裔の事を、シンガポールでは『ユーロアジアン』と呼んでいます。中国、インド、アラブ系、日本、フィリピン、ベトナム、マレー、インドネシア、そしてヨーロッパ。
これらが少なくとも4つか5つ入り混じった混血はシンガポールにはたくさん居ます。
そしてユーロアジアンは、ポルトガル人を祖先に持つのが多いのが特長です。
現在では、かつてのコットン農場は『カットン地区』

 

 

と呼ばれようになり、おとぎの国のような家が立ち並ぶ観光スポットになっています。

ーー1828年、政略結婚なのか、あるいは本当に恋愛なのか分かりませんが、
トーマスはホセ・デ・アルメイダの長女、マリアンナと結婚をします。
記録が間違っていなければ、マリアンナは当時15歳。トーマスは当時30歳なので、歳が倍離れている事になります(当時としては何も珍しくはないのかもしれませんが)。

二人はその後、合計14人の子供を儲けます。
その後のトーマスの記録はそれほど残っていませんが、ラッフルズが設立した学校Raffles Institutionの理事を務めているという記述がありました(この学校は今でも現存しています)。
1842年、トーマスは兄弟をシンガポールに呼び寄せ、Crane Brothersという会社を設立して、貿易事業などを始めており、どうやらある程度の規模の会社へと成長したようです。
その時の名残が、シンガポール海峡に面した町に残っています。
小さな通りですが、この町にCrane Roadという名の道路があります。
写真で見るかぎりは、なんの変哲も無い住宅街の通りです。

トーマスの14人の子のうちの二人、ウイリアムとヘンリーは、何年かは正確には分かりませんが、成人し、シンガポールを出て日本へと向かいました。
ーー日本では、まだ幕末で、横浜が開港をした頃の事です。
開港をしたばかりなので、二人はそこでビジネスチャンスを掴もうとしていたのかもしれません。
この二人に関しては、また次回に書こうと思います。

トーマスは、どういう訳かシンガポールを出て1869年の12月29日に70歳にロンドンで死去しています。家族の誰かがロンドンに呼び寄せたのかもしれませんが、はっきりした理由は分かりません。
いずれにしましても、若い頃に乗った船が沈没してから、その後の人生をトーマスは殆どをアジアで過ごしています。
もしかしたら、彼は故郷で死を迎えたかったのかもしれません。

このようにトーマスの人生を追っていくと、プレスリーも歌っていたLast Farewell

 

 

という曲を思い出します。
この歌は、どこか南国の島国に思いを馳せて作られたと言われています。詩を読むと、その相手とは特定の女性とも、または国とも取れるような詩です。
ーーー最後に、その日本語訳を掲載して終わりにしようと思います。



船が港で就航の準備をしている
故郷のイングランドへ向け、明日船は出る
太陽が降り注ぐ、あなたの国を出て
雨と霧に包まれた私の国へと

私は明日その船に乗るでしょう
この別れで心は涙でいっぱいですが

あなたは美しいから、私はあなたを心から愛しています
話し言葉が伝えることができるよりも、もっと
あなたは美しいから、私はあなたを心から愛しています
話し言葉が伝えることができるよりも、ずっと