ウイリアム・アルメイダ・クレーン(前半) |     クレーン謙公式ブログ

ウイリアム・アルメイダ・クレーン(前半)


どこも出かけずに、祖先の足取りを追って想像で旅をする、3(前半)。

今回は、前回と前々回に書いた、ホセ・デ・アルメイダの孫、そしてトーマス・オーエン・クレーンの長男である、ウィリアム・アルメイダ・クレーン(1833年~1903年)の足取りを追って、開港したばかりの横浜を訪れてみようと思います。
長いので前半と後半に分けて、書きます。
以下「ウイリアム」と書くこの人物は、僕の高高祖父にあたります。

ーーウイリアムに関しては、横浜居留地会の斎藤さんのお力添えもあり、とても詳しく、その人物像を知る事となりました。クレーン家を代表して、斎藤さんに厚く御礼を申し上げます。

先祖を色々と調べていて、実はというと、このウイリアムに一番シンパシーを感じました。
というのは、資料から伺えるウイリアムの活動から、明らかにこの人物は芸術家肌だと感じたからです。
それに、とても多才で色々手広く手がけているにも関わらず、何一つとして歴史に名を残していません。
経歴を追うだけでも、『たのむ、リベンジしてくれ!』と言われてる気がしてならないので、今このようにして僕が書いている訳です。

それでは、分かっている事だけでも、なるべく簡潔に書いてみようと思います。
ーーウイリアムはシンガポールで1833年8月4日、イギリス人のトーマスを父に、ポルトガル人のマリアンナを母にして生を受けます。
蛇足ではありますが、ミドルネームに母方の旧姓『アルメイダ』とついている事が、僕にはとても重要に思えます。

これは想像の範疇ではありますが、ウイリアムはアルメイダ家に幼い頃にとても世話になったのだと思います。
当時アルメイダ家は、とても裕福だったでしょうし、祖父のホセからすれば、初孫ですから。
もしかしたら本当はウイリアムをアルメイダ姓にして、跡取りにしたかったのかもしれません。

ーー当時、アルメイダ家はシンガポールの社交界の中心地でした。
アルメイダ家の邸宅では、毎週のようにパーティーが開かれていたそうです。
ホセ・デ・アルメイダはこの頃にはポルトガルとスペインから爵位を受けており、マレー地区のポルトガル総領事を任されていました。
パーティーでは毎回、コンサートが催されていました。
そのコンサートで誰が演奏していたかというと、なんとアルメイダ一家なのです。
どうやら、アルメイダ家はみんな楽器が弾けて、おまけに歌まで歌っていました。
ーーその当時の水彩画も残されています。

最初にアップした画像は、エドワード・ホッジス・クリー(1814〜1901)という医師により1844年9月26日に描かれています。

氏による当時の水彩画は数多く残されており、医師にも関わらず見事な腕前です。

絵の中でピアノを弾いている若い女性は、ウイリアムの母、マリアンナかもしれません。そばにいる子供は、もしかしたら幼い頃のウイリアムなのかも……(1844年、ウイリアムは11歳でした)。

皆の肌は黒く描かれているのですが、恐らくはこれがイギリス人から見たポルトガル人の印象だったのでしょう。

ウイリアムは幼少の頃、このような環境で過ごしていました。
ーー僕が思うに、その頃の原体験が後々のウイリアムの活動を支えていたような気がします。

先へと進みましょうーー
いつ、ウイリアムがシンガポールを出たのかはっきりしませんが、1864年、日本でいう安政6年、開港間もない横浜へとやってきました。
それ以前には上海に住んでいた、という記録もありますから、恐らくはこの年に開設された上海~横浜間のP&O汽船会社の船に乗ったのでしょう。

P&O汽船会社は1822年イギリスで設立された船会社で、今でもあります。
今年の春先、ずっとトップニュースになっていた『ダイヤモンド・プリンセス号』はP&O社の船です。つまり、P&O社は156年も前から、横浜とは、とても縁が深かった訳です。
さて、ウイリアムが乗船していた船の名前までは特定できませんでしたが、同時代/同会社の汽船の写真を見てみますと、マストはありますが、船体は完全に鋼鉄製。背の高い煙突が伸びているのが特長です。

……この時代は日本だけではなく、世界的にも大変動の時代でした。
アメリカでは南北戦争が三年目に突入しており、前年にリンカーン大統領は奴隷開放宣言をしました。同年、ロンドンでは世界初の地下鉄が開通しています。
日本では1864年の4月、新撰組による『池田屋事件』が起こっています。
と、このように見るだけでも、人類の文化や価値観が変化していこうとする節目であったのが窺えます。

ーーウィリアムはこの年、横浜に入港した時に何を見たのでしょうか?
その時の様子を想像で再現しますーー

ーー強い海風が吹く中、ウイリアムは狭い船室から出て、左舷方向に青々とした山々が望める甲板の上を歩きました。
ウイリアムは生まれてから、ずっと南国育ちなので、頰に当たる海風をとても冷たく感じていたでしょう。
想像していたよりも、豊かな自然が広がるその景色に見とれていると、その山々の中にはるかに大きな山がそびえ立っているのに気付きました。
その山の頂上には、真っ白な雪がかぶさっており、とても神々しい感じがします。

ーー「……あの山はね、この国の霊山なのだよ」
とふいに、ウイリアムの隣に居たイングランドの商人が言いました。
ウイリアムは当時31歳。その商人もウイリアムと同い年ぐらいでした。
商人の方へ振り向くと、その腰には最新式の拳銃がぶら下がっています。

「どうして、拳銃なんかを持っているのかね ? 」

商人は、ウイリアムの方へと振り向き答えます。

「知らないのかね?この国の騎士は我らを敵視していて、一昨年も我らが同胞人が騎士に斬り殺されている。……昨年は英国公使館も焼き討ちにあっている。今やこの国では身を守る為、拳銃の所持は当然なのさ」

1862年9月14日、現在でいう横浜市鶴見区で、後に『生麦事件』と呼ばれる事件が起きました。
横浜居留地に在住していた4人のイギリス人が、観光の為、馬に乗り川崎大師に向かう途中、
江戸から薩摩へと帰っていく大名行列に遭遇します。
当時の習わしとして、大名行列の前では人々はひれ伏さねばなりません。

武士の間では攘夷論(じょういろん)、つまり外国人排除の運動が盛んになっている時期で、外国人を敵視する人々もいたのでしょう。
言いつけを守らなかったのか、その時何が起こったのかよく分かりませんが、4人のイギリス人は大名行列の藩士に襲撃され、一人は死に、二人が負傷しました。

これがきっかけとなり、1863年、英国と薩摩藩との間で戦闘が起こりました。
7隻の英国軍が、鹿児島を攻撃して、町の10分の1を焼いてしまいます。
一方、英国軍側も63人が戦死しています。

ーーこのような状況を見るかぎり、当時の横浜は英国籍の者にとって決して安全ではなかった筈です。
どうして、このような時期を選んでウイリアムは日本へやってきたのか実に不思議です。
単に血が騒いだのかもしれませんが……。

ーーさて、ウイリアム等を乗せたP&O社の汽船は、真っ黒な煙を吐き出しながら、駿河湾を進んでいきます。
やがて、行く手の波間に、日本風とも西欧風ともとれる建物が立ち並ぶ港町が見えてきました。
当時、横浜居留地には、攘夷派(じょういは)の襲撃から居住者を守るという名目で、イギリス軍とフランス軍が駐屯していました。
波止場の周囲には、両軍の軍船が多く停泊しており、この当時の切迫感を表していた事でしょうーー。
アメリカは当時、南北戦争の真っ最中だったので、港を見回してみますと、アメリカよりもヨーロッパ系の船舶が目立ちます。
この年アメリカは、海外での出来事に関わる程の余裕は全くありませんでした。
……波止場が目視できる距離にまで近づくと、海鳥の声が響き渡り、海風の中に魚を干したような匂いが混じってきます。
ウイリアムにとって、この音と匂いには馴染みがありました。幼い頃より、ウイリアムはシンガポールの港で日々、聞いていた音、嗅いでいた匂いだからです。

かつては漁師しか居なかった地に横浜港は作られ、そして1859年から外国貿易が始まりました。
ウイリアムが来日した1864年には、居留地の人口は300名ほど。
正確な数字は分かりませんが、人口を遥かに上回る数の軍人も居たと見られます。
ーーこの年、イギリス/フランス/オランダ/アメリカの連合軍艦隊が、横浜を出て下関の長州藩を攻撃しています。
当時、攘夷派だった長州藩が、海峡を封鎖してアメリカ商船を砲撃したので、開国後退を危惧したイギリス駐日公使オールコックが、攻撃を命じたようです。

この戦いで、長州藩は連合軍の最新兵器の前で敗退、これ以降、長州藩は反幕へと転じ倒幕運動へと突き進みます。
この年、坂本龍馬(当時30歳)は薩摩藩の西郷隆盛と面会をしており、翌々年、薩摩藩と長州藩は倒幕の為、軍事同盟を結びます。
世界だけではなく、日本も急激に変化をしている渦中にウイリアムは横浜港を降り立ちました。

ーー年表だけを見ていますと、とてもきな臭く感じますけど、恐らくは一攫千金を狙う外国人商人と、新しい文化や技術を見たい日本人の熱気で、港は溢れていた事でしょう。
スペインではこの年、世界初の全長14メートル潜水艦が処女航海をしており、ヨーロッパ、アメリカなどでは、モールス信号を送受信する電信網が整備され始めていました。
ロシアでは、この年にドストエフスキーの『地下室の手記』が出版されています。

この年、ウイリアムが横浜に到着して何をやっていたか分かりませんが、翌年の1985年にはパーカー&クレーンという会社を立ち上げて、写真家として活動をしています。
ーー残念ながら、ウイリアムの撮影した写真は見つかっていませんが、パーカーの撮った写真は現存しています(甲冑を着た武士の写真で「Samurai」というタイトル、1864年に撮影されています。武士が立っている所が洋風カーペットなのが、とてもアンバランスな印象を与える写真です)。
彼のフルネームはチャールズ・パーカー

 

 

と言い、1863年までは香港と上海で写真家として活動をしているので、もしかしたらウイリアムは上海でパーカーと知り合ったのかもしれません。
パーカーは1863年に横浜でこのような新聞広告を出しています。

『香港にて写真館をやっていたパーカー、風景写真&紳士淑女のポートレート/撮影承ります。
事務所は、横浜ホテルのちょうど反対側。
撮影した写真は、当日の10時から4時までの間でお渡しします。
横浜の波止場、メインストリート、クリケット場などの風景写真も販売しています。
鹿児島での戦闘、軍船のパノラマなどの写真も販売しています』

ーー当時、写真機はとても高価で珍しかったでしょうから、『写真でいっぱつ当ててやろう!』とウイリアムは思ったのかもしれません。
当時はテレビもラジオもありませんから、戦闘の最前線まで軍人に同行し、撮影して好奇心を溢れる人々に、それらの写真を披露するのも流行だったのでしょう。
当時の他の写真家による写真を見ますと、軍隊の写真だけではなく、打ち首になったサムライの生首の写真まであります。

ウイリアムとパーカーは共同経営を開始して、兵庫や大阪まで撮影旅行に行ったようなのですが、
残念ながら、それらの写真は見つかっていません。震災、戦争などで消失したのかもしれません。

パーカーは、駐屯軍とコネがあったにも関わらず、当時人気が出始めた写真家のベアトにその地位を奪われていきます。
その年にうちに、二人のコンビは解消され、翌年1866年にはウィリアムは Bank of Western India という銀行に勤め始めています。

この銀行は日本に進出した初めての銀行です。

ウイリアムはその後、1868年まで同銀行で勤めているのが確認ができます。

ーーその前年1867年に坂本龍馬は京都で暗殺されますが、倒幕派は天皇から直に倒幕の許可を得る事が出来、本格的な活動を開始。
1868年『鳥羽伏見の戦い』では幕府軍は倒幕軍に敗退、同年の『無血開城』へと至ります。
そして新政府により、元号が『明治』と改元され、江戸が新たな皇居として制定。世は明治となりました。
次回はウイリアムの別の側面を掘り下げてみます。
ーーウイリアムが愛していた『音楽』にまつわるエピーソードです。

長い文章、ここまでお読みいただき、ありがとうございます。