ウイリアム・アルメイダ・クレーン(中編) |     クレーン謙公式ブログ

ウイリアム・アルメイダ・クレーン(中編)

 

 

 

ーー銀行に勤めたり、写真スタジオを共同経営した後のウイリアムの足取りを追います。
彼の資料を色々と見ていますと、ウイリアムの音楽に対する情熱やこだわりが浮かび上がってきます。
明治の初めには、彼の職業は『ピアノ調律師』であると書かれています。
銀行を辞め、写真事業に失敗したウイリアムはピアノ調律師へと転身したようです。
明治3~4年の居留地人口は、400名ほど。イギリスとフランスの軍人をカウントすれば、もっと多かったとは思います。

ーーしかしこの頃、日本にどれだけの数のピアノがあったのか、見当がつきませんが、どう考えても数える程でしょう。
……現代では、一台のピアノを調律して謝礼が1万5000円ほどらしいです。
果たして、あの時代に『ピアノ調律師』という仕事が職業として成り立つのか疑問ですが、もしやウイリアムには蓄えがあったのか、あるいはシンガポールの実家から仕送りがあったのかもしれません。
横浜では、すでに幕末に英仏軍の楽団によるコンサートが催されていて、西欧音楽は比較的早くこの地に根ざしてはいました。
つまり、幕末にはすでに横浜ではクラシックのコンサートが催されており、居住者たちの楽しみとなっていたのです。

ーー資料の中のウイリアムの人脈を見ていると、実に音楽関係の知人が多い。音楽が彼の生きがいであった事が窺えます。
写真機も扱っていたぐらいですから、もしやウイアムは元々メカの構造には詳しかったのかもしれません。

 

1871年(明治4)、居留地/クライスト・チャーチのパイプオルガン設置をウイリアムを依頼され、その組み立てをしています(これは日本では最初のパイプオルガンです)。
発注した部品をを輸入して、組み立てたとのだと思われますが、しかし、それでも大変な労力だったでしょうーーパイプオルガンの構造も理解してなければいけませんし……。

アップしたパイプオルガンの写真がそうですが、一緒に写った講壇と比較するとその大きさが分かります。

同年開催された、このパイプオルガンによる演奏会の曲目が残されています。

 

C.サン=サーンス:交響曲第3番 ハ短調 作品78「オルガン付き」より第2楽章 第2部
J.S.バッハ:フーガ ト短調 BWV 578
F.メンデルスゾーン:オルガンソナタ第2番 ハ短調 作品65-2
W.ボルコム:ゴスペルプレリュード「主、われを愛す」
O.メシアン:「主の降誕」より「羊飼いたち」
L.ヴィエルヌ:オルガン交響曲第6番 ロ短調 作品59より 第5楽章「終曲」

 

パイプオルガンの規模を考えますと、さぞかし荘厳な演奏会だった事でしょう。

残念なら、当時作られたパイプオルガンは現存していません。
関東大震災で教会もオルガンも破壊されて、教会は数年後に新しいデザインで建て直されました。

さて、音楽と楽器に関する活動と並行して、ウイリアムにはもうひとつ熱を上げていた活動があったので、それも記しておきたいと思います。
ーーウイリアムは、とても活動的なフリーメーソンの会員でした。
フリメーソン』といえば、虚実入り混じった情報が世に溢れかえっており、また歴史も長く、調べ出すと大変なのですが、ここを書いておかないと先に進まないので、観念して書きます。
ーーフリーメーソンの起源は定かではないのですが、約400年の歴史がある友愛結社で、内部で門外不出の儀式も行われるので『秘密結社』とも呼ばれます。
そして、『秘密結社』と呼ばれる事から様々な憶測や噂が、フリーメーソンに付きまとってきました。

一番最初に書いた投稿のように(ポルトガルの自由主義革命はフリーメーソンのメンバーが主導しました)政治運動など、かつてフリーメーソンが歴史の変革期に、ある一定の役割を果たしたのは確かです。
フリーメーソンは「自由」「博愛」「平等」を基本理念としているのですが、実はこれは元々フリーメーソンの標語ではなく、17世紀から18世紀にかけてヨーロッパで広まった『啓蒙思想』からその考えを取り入れてます。

啓蒙思想とは、簡単に書くと『理性で世を変革しよう』という運動の事です。
当時ヨーロッパでは王族や教会の力がとても強く、人々は古い教義やしきたりに縛られていました。
啓蒙主義は、王制や宗派の影響力から脱するべく、近代的な思想や科学主義を取り入れた社会運動へと発展します。
これが後の『自由主義(リベラリズム)』の起源で、フランス革命やアメリカ独立に大いに影響を与えました。

ーー「自由」「博愛」「平等」はフランス共和国の標語でもありますが、その考えのルーツは啓蒙思想にあります。
このような歴史背景を追っていきますと、同標語を掲げていたフリーメーソンは、進歩主義的な考えを抱く人々にとって居心地のよいサロンであったのが窺えます。
実際、フリーメーソンへの入会は宗教や宗派は問わないので、当時の保守勢力である教会などからは敵視され、実際に敵対もしていました。
ーー『フリーメーソンは陰謀組織である』という考えはこの頃の保守派の教会が言い始めた事で、それを後にナチスドイツが取り入れ、ユダヤ人と同じように迫害しました(ナチスは『フリーメーソンはユダヤ人の陰謀組織だ!』という根も葉もない説で、フリーメーソンを収容所へ送り多くが殺害されました。恐るべき事に、今でもインターネットをサーチすると、このトンデモ説で溢れかえっています)。

悲劇的な事に、その時のナチスの主張を日本の軍部も取り入れ、日本国内のフリーメーソンも戦時中に迫害をされています。

第二次世界大戦を境にして、当時あったロッジは全て解体されてしまいます。

ーーと上記に書いたような過去は、実はあまり一般に知られていません。
『ユダヤ人陰謀説』や『フリーメーソン陰謀説』は大方はナチスドイツが作りあげた壮大なフィクションと言ってもよく、都市伝説の説は実はナチスドイツが唱えていた説を、それとは知らずに取り入れています。

しかし確かに、フリーメーソンのロッジには改革派、反王制派、革命家、反教会派、などが多くいたものですから、それらの人々が実際に革命に加わったりした過去はあったでしょう。

ですけど、フリーメーソンは都市伝説などで語られるように、指示系統があるピラミッド型の組織ではありません。ーー『陰謀組織』はまず前提として、その組織がピラミッド型の組織である必要があります(イメージとしてアニメ『エヴァンゲリオン』に出てくる、なんとか機関みたいなヤツですね)。

フリメーソンは、実際にはライオンズクラブのような社交クラブに近く(実際、ライオンズクラブのルーツはフリーメーソンなのです)、上が決定した事案を下の者たちが実行に移すというようなタイプの組織ではありません。
より正確に書くとフリーメーソンは『啓蒙思想』と『自由主義』をその内部に温存していた会員制のクラブのようなものでしょう。
……一応ここを書いておかないと先に進まないので、簡単に記しておきました(誤解も解いておきたいですし)。

ーー明治維新の3年前に遡る1865年9月27日、横浜でフリーメーソンのメンバーによる会合が開かれています(p187参照)。
会合には7人が出席しており、その中にウイリアム・アルメイダ・クレーンもいます。
そして翌年の1866年、日本初のフリーメーソンのロッジ『横浜ロッジ No.1092』が設立されました。
これ以降、ウイリアムは精力的にフリーメーソンの活動を行っており、最盛期には合計4っつのロッジで役員を務めている事から、当時のフリーメーソンの中心的人物だと見ていいでしょう。

その時のメンバーにジョン・レディ・ブラックというスコットランド人がいるのですが、彼とウイリアムは音楽仲間でもありました。
僕が知るかぎりでは、この人物がウイリアムの周囲では最重要かと思われますので、少し彼の事を書いておきます(インターネットでも調べられますので、ご興味のある方は是非)。
その人生があまりに面白いです。

ジョン・レディ・ブラックは1826年にスコットランド生まれました。
様々なビジネスを手がけ、事業が失敗した後に、オーストラリアでどういう訳か歌手となります。
歌手となったブラックは、流浪の旅へと出てインドや中国でコンサートを開催しながらしばらく過ごしています。
(この時代でワールドツアーを行なっていたというのが、驚きです)
ーーどうやら、ブラックはスコットランド民謡などを歌っていて、それで人気が出たようです。

香港と上海でコンサートを開催した後、ブラックは1864年、横浜でもコンサートを開きます。
当人は日本に長居をするつもりはなかったようなのですが、以降11年間を日本で過ごします。ーーそしてブラックはある大きな影響を日本に残す事になります。
ーーただしそれは『音楽』ではなく、『ジャーナリズム』と『出版事業』です。
ブラックは日本に来てからジャーナリストへと転身して、共同経営を開始した新聞の紙面で徳川幕府を批判するような、ーーまたそれとは逆に、援護をするような社説を執筆します。

その反骨精神のスタンスは明治政府になっても変わる事はなく、時には政府と衝突もしました。
ーーあまり指摘がされてはいないのですが、ブラックのこの『自由主義的思想(リベラリズム)』はフリーメーソンの中で影響を受け、育んだとも見れます。
封建的な政治に物申すーーこのような社説は後の新聞社説のルーツであると言われ、ゆえにジョン・レディ・ブラックは日本ジャーナリズムの先駆者と評されています。

啓蒙思想と自由主義(リベラル)はフリーメーソンの基本理念でしょうから、そう考えますと実はフリメーソンはこのような形で日本のジャーナリズムに影響を与えたのかもしれませんーーただし、これは完全に僕の仮説ですので、もしこれが僕の思い込みであれば、どうぞご指摘をお願いしますーー。

(ところで、僕の高高祖父のウイリアムはコンサートの告知などを、数々の告知広告をブラックが発行していた新聞に掲載しており、そのお陰でウイリアムの足取りや活動を大分知る事ができました。
ーーウイリアムはブラックと幾度か一緒にコンサートをやっているので、二人はきっと音楽で意気投合したのでしょう。ウイリアムは楽器だけではなく、歌も歌っていたようで、曲目を見るとオペラ曲が好みであるのが分かります)

さて、ブラックは1870年(明治3年)当時としては画期的な発行物を世に出します。
それは『ザ・ファー・イースト』と名付けられた写真週間新聞です。
現在で言えば、写真週刊誌のようなもので、フォト・ジャーナリズムの先駆けと言っていいでしょう。
廃刊されるまで合計570点もの写真が掲載され、当時の文化や歴史を知る上での貴重な資料となっています。

続けて1872年(明治5年)、ブラックは『日新真実誌』という日本語の新聞を発行します(今までブラックが関わった新聞は英語でした。おそらくブラックは日本語で発行する事により、直接日本社会に物申す機会を窺っていたのでしょう)。
ブラックはここでも、公然と政府/権力批判を繰り広げ、結果的に『日新真実誌』は、近代新聞のルーツと言えるような新聞になりました。
一説によれば1874年(明治7年)に起こった言論の自由や集会の自由を求める『自由民権運動』は、日新真実誌で展開していた社説をベースにしている、とも言われます。
ブラックは明らかに、メディアの力を使って日本を変革しようとしていましたーー。

しかし、やはりと言うかブラックは明治政府から目をつけられてしまいます。
この新聞がきっかけとなり、外国人による日本語新聞の発行が禁止されてしまいました。
ーーそしてブラックは日本の新聞事業から撤退をしたのでした。
ブラックに関する記述が長くなってしまいましたが、当時の横浜居留地と日本社会との関わりを知る上では最も適したケースであり、またフリーメーソンの活動の一端を知る上でも重要かと思われましたので、書きました。

フリーメーソンに関しては『陰謀説』が今でもとても根強いのですが、フリーメーソンが当時の進歩主義者や自由主義者たちのサロンであった、と考えると色々と辻褄は合います。
煙は確かに上がってはいたのですが、その『火元』の正体が正確に伝わっていないのです。
……なんだか誰の話が主題なのか分からなくなってしまいましたが、ウイリアムに話を戻します。

ウイリアムはブラックのように、政治的な発言や活動などの記録は見つかっていません。
フリーメーソンの中ではウイリアムは『オルガニスト』という役職に就いたり、フリーメーソン主催のコンサートに参加をしている、という記録が残されているだけなので、やはり音楽が本当に好きだったのでしょう。

明治8年 10月23日、ウイリアムは日本人女性、村瀬トモと結婚をします。
当時ウイリアムは42歳、村瀬トモ28歳。
明治前期国際結婚の研究』という論文によれば、この結婚は国内11例目の国際結婚です。
この女性に関する資料は名前と一枚の写真が残されているのみで、あとは何一つとして分かりません。
どこで知り合ったのかも、どのような身分であったのかも、まるで分かりませんーー結婚後にElzaというミドルネームがついているので、教会で洗礼名を受けたのかもしれません。

 

論文を読んでみますと、ウイリアムは国際結婚の条約を改善するため、英国公使に働きかけていたようで、確認できるかぎりは、これが唯一の氏による政治的な運動です(p129〜p130)。

ーーこの時に一緒に公使に動きかけていた、ヘンリー・A・クレーンはウイリアムの弟です。

何年に来日したか定かではありませんが、ヘンリーも翌年の明治9年、柴崎カネという日本人女性と結婚しています(p163)。

 

つまり、同時期に兄弟は日本人と結婚している訳なのですが、どうしてこのような経緯に至ったのかは全く謎ですーー単に二人ともその女性を好きになったからなのかもしれませんが・・・・

その後、ヘンリーは妻カネを連れシンガポールへ帰り、父の貿易事業を引き継ぎました。

 

ーー二人はその後シンガポールにて子孫を残しましたが、現在ではシンガポールでは『クレーン』姓は消滅しています。

ヘンリーと柴崎カネの、ひ孫の一人は政治家になりました。

彼の名はエドマンド・バーカー(1920〜2001)。

エドマンドはシンガポールの人民行動党の議員で、シンガポールが1965年マレーシアから分離独立する際にはエドマンドが調印

 

 

を行っています。

シンガポール独立の調印を日本人の末裔が行っていたのを、日本人は恐らく誰も知らないでしょう……

ところで氏の『バーカー』という苗字は改名した名前です。

元々はドイツ系の苗字だったのですが、シンガポールは昔イギリス領だったので差別を恐れ、戦中にイギリス名に改名しましたーーもしかすると日本人の血を引く、という事も当時は隠していたかもしれません。

 

 

 

 

ウイリアムに話を戻します。

1877年、明治10年ウイリアムと村瀬トモとの最初の息子、セオフィラスが生まれます。
ーーセオフィラスは僕の高祖父にあたります。
当時の資料を見て、状況を考えるかぎり横浜には他に日本人/白人との間の子供はいなかったでしょう。いたとしても、おそらく数えるほどです。
そして、けっきょくはこの地に定住を始めたクレーン家は、その後150年にもわたり日本に住み続けます。

ーーフリーメーソンなどの話題で長くなってしましました。
次回、ウイリアムの残りの半生を書きます。