答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

跡まで見る人ありとは・・

2020年05月23日 | ちょっと考えたこと

母が死んで7つの月が過ぎたある日。

「もっと早うに来んといかんかったがやけど」

と申しわけなさそうな顔でわが家を訪れてくれたのは、母の友人であるAさんだ。

彼女が入院をしていたということは聞いていたので、「具合はどうですか?」とたずねると、やっとよくなってきたので来ることができたのだという。

そのあと、庭の手入れをしていた女房殿に声をかけ、しばし故人の話で泣いたり笑ったり。こんなご時世でもあるし、療養生活をしていたであろうその人をおもんばかってもあり、戸を開け放したうえで互いの距離をとり、マスク越しでの会話でだった。にもかかわらず、「他人の家で長居をしたらいかん」と、積もる話を切りあげて去ってゆく彼女を門口まで見送り、

「そしたらね」

「ありがとうございました」

とあいさつを交わしたあとに取ったわたしの態度がいけなかった。

くるりと踵をかえしてしまったのだ。

別のわたしが空から嘲り笑う。

「あーあ、またやったよ。それだからダメなんだよなオマエは。しっかりと見送るべきでしょ」

ふりかえって見ると女房殿は、そのうしろ姿をまだ見送っている。

 

なぜだかわたしは、このようなときだけではなく、さまざまな場面において、最後まで人を見送ることができない。

すぐに背中を向けてしまうのだ。

そしてたいていの場合それは、そうしようと考えて選択するのではなく、ついついそうしてしまうしそうなってしまう。

だからだろう。きちんと見送る人を目にすると、気持ちがいい。

そしてそのつど、「かくありたい」と思い真似てもみるのだが、いくら外見を気取り、いくらメッキを塗り重ねていようと、ふとしたときに人間の地金というやつはあらわれてしまう。

だとしても、そうとわかればわかった時点で体勢を元へ戻して、しっかりと身送ればよいのだが、思っていても身体がすぐには動かない。そして、「まぁええわ」となる。

まこと本性というやつはやっかいなものだ。

脱皮したつもりでも、元と同じ自分が繰り返し出てくる。

 

・・・・・・

跡まで見る人ありとは、いかでか知らん。かやうの事は、ただ、朝夕の心づかひによるべし。(『徒然草』第三十二段より)

(以下現代語訳)

うしろ姿を見届けられていることを、帰っていく人は気がついていないだろう。こういった行為は、ただ、日々の心がけからにじみ出るものである。

・・・・・・

 

あゝ、この出来の悪いオヤジに、「にじみ出る」が、やって来る日はあるのだろうか。

はてさて・・

 

 

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