母が死んで7つの月が過ぎたある日。
「もっと早うに来んといかんかったがやけど」
と申しわけなさそうな顔でわが家を訪れてくれたのは、母の友人であるAさんだ。
彼女が入院をしていたということは聞いていたので、「具合はどうですか?」とたずねると、やっとよくなってきたので来ることができたのだという。
そのあと、庭の手入れをしていた女房殿に声をかけ、しばし故人の話で泣いたり笑ったり。こんなご時世でもあるし、療養生活をしていたであろうその人をおもんばかってもあり、戸を開け放したうえで互いの距離をとり、マスク越しでの会話でだった。にもかかわらず、「他人の家で長居をしたらいかん」と、積もる話を切りあげて去ってゆく彼女を門口まで見送り、
「そしたらね」
「ありがとうございました」
とあいさつを交わしたあとに取ったわたしの態度がいけなかった。
くるりと踵をかえしてしまったのだ。
別のわたしが空から嘲り笑う。
「あーあ、またやったよ。それだからダメなんだよなオマエは。しっかりと見送るべきでしょ」
ふりかえって見ると女房殿は、そのうしろ姿をまだ見送っている。
なぜだかわたしは、このようなときだけではなく、さまざまな場面において、最後まで人を見送ることができない。
すぐに背中を向けてしまうのだ。
そしてたいていの場合それは、そうしようと考えて選択するのではなく、ついついそうしてしまうしそうなってしまう。
だからだろう。きちんと見送る人を目にすると、気持ちがいい。
そしてそのつど、「かくありたい」と思い真似てもみるのだが、いくら外見を気取り、いくらメッキを塗り重ねていようと、ふとしたときに人間の地金というやつはあらわれてしまう。
だとしても、そうとわかればわかった時点で体勢を元へ戻して、しっかりと身送ればよいのだが、思っていても身体がすぐには動かない。そして、「まぁええわ」となる。
まこと本性というやつはやっかいなものだ。
脱皮したつもりでも、元と同じ自分が繰り返し出てくる。
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跡まで見る人ありとは、いかでか知らん。かやうの事は、ただ、朝夕の心づかひによるべし。(『徒然草』第三十二段より)
(以下現代語訳)
うしろ姿を見届けられていることを、帰っていく人は気がついていないだろう。こういった行為は、ただ、日々の心がけからにじみ出るものである。
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あゝ、この出来の悪いオヤジに、「にじみ出る」が、やって来る日はあるのだろうか。
はてさて・・