清水正  情念で綴る「江古田文学」クロニクル(連載11)

f:id:shimizumasashi:20181228105251j:plain

清水正の著作はアマゾンまたはヤフオクhttps://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208で購読してください。 https://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208 日芸生は江古田校舎購買部・丸善で入手出来ます。

 

清水正への講演依頼、清水正の著作の購読申込、課題レポートなどは下記のメールにご連絡ください。
shimizumasashi20@gmail.com

(人気ブログランキングに参加しています。よろしければクリックお願いします)
https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk
これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。
https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk

 

情念で綴る「江古田文学」クロニクル(連載11)

──または編集後記で回顧する第二次「江古田文学」(8号~28号)人間模様──

 清水正

 

 

 28号(平成7年10月)は「日本大学芸術学部文芸学科卒業制作」を組んだ

その理由は後回しにして、まずは編集後記の引用から始めたい。

 《■今から二十年以上も前の話である。わたしがティーチングアシスタントとして文芸学科の研究室に残った年のある日、当時助手であったK氏が熱っぽく「江古田文学」の話を始めた。わたしは当時「江古田文学」の存在すら知らなかったし、当時「江古田文学」は刊行されてもいなかった。つまり第一次「江古田文学」が休刊されてからすでに十七、八年もたっており、当時学部を卒業したばかりのわたしはその存在を知らなかったわけである。K氏は「江古田文学」の復刊を強く主張していた。「江古田文学」なくして文芸学科の存在意義はない、くらいの熱い主張だった。わたしはそんなものかな、ぐらいに軽く受け止めていた。

■それから三年もたたないうちにK氏は大学をやめていった。K氏は大学を去る何日か前に、わたしに二、三十通の手紙の束を手渡し「よろしく」と言った。その時のK氏の顔は忘れられない。その手紙とは「江古田文学」宛の投稿であった。注意してほしい。その時、「江古田文学」は未だ復刊されていなかったのだ。わたしはその投稿の手紙をしっかりと受け取った。》

 《■第二次「江古田文学」が復刊されない前からの寄稿者の寄稿はその後も間断なく続いた。わたしは十余年にわたって彼の原稿(詩)を読み続けた。本号で初めて彼の詩篇をとりあげることにした。彼の名は白井勇亀(ゆふ)氏、彼の寄稿をわたしに託したK氏とは此経啓助氏である。「江古田文学」が大波小波にもまれながらもどうにか航海を続けてこられたのも両氏に負うところが大きかった。記して感謝の意を表したいと思う。(一九九五年九月二十五日)》

 何かひとつのことをやり続けるということの中には、人知では計り知れない神秘的なことが介在しているように思う。「江古田文学」ひとつとってみても、それを強く感じる。第一次「江古田文学」がどういう経緯で誕生したかは詳らかにしないが、小沢信男の文章などによれば、編集経理ともに学生(和田明)が握っていたらしいから、学科側が積極的に関わっていたようには思えない。

 小沢信男は「江古田今昔物語」(本誌15号)の中で次のようにも書いていた。

「当時の江古田は、駅も島型のプラットホームが一つあるきりの小駅で、周辺の家並をぬけると畑がひろがっていた。芸術学部は本館が木造二階建てで、夏にはでこぼこの土の校庭に草が茂った。殆ど田舎の小学校なみだった。

ただし、正門を入って左には、映画科のためのスタジオがある。右手の講堂は演劇科の本拠である。音楽科の教室からはピアノがひびき。写真科の暗室には赤ランプがともり。秘術科の教室の窓が閉まって煙突から煙がでているのはヌードモデルが来ている証拠で、つまり他の学科はそれぞれ面白そうなのに、文芸科だけが居場所もない。夏草にふてくされて寝そべっているよりなかったが、そのかわりに『江古田文学』があったのである」と。

 〈文芸科だけが居場所もない〉――他の学科がなんらかの施設を必要とするのに対し、文学はいわばペン一本あれば事足りる。が、とは言っても同じ授業料(具体的にはわからないが)を払って〈居場所〉がないのはどう考えても悔しい。創作意欲、発表意欲にあふれた学生なら自分たちの雑誌、それも単なる学内誌にとどまらず、市販して広く世に問おうと欲するのは当然である。和田明のような学生が中心となって大学側にも働きかけて第一次「江古田文学」は創刊になったのだろう。小沢たちが卒業した後は助手の赤塚行雄が編集を担当したということであるから、以後39・40号で休刊するまで編集・経理主体は全面的に学科側が担ったことになる。

 ちなみに31号(昭和34年7月)の編集後記に「◎今月号より実習として四年生が編集に当ることとなった。江古田文学は文芸学科全学生のための実習雑誌であることを改めて明記して置く。従って作品の投稿は勿論、卒業するまでに文芸学科学生は、一度はこの編集にタッチする機会があるわけである。これを機会に江古田文学に対する関心が更に一層高まればと思っている」とある。

 最後に編集人らしき〈鹿児島浩人〉と署名があるが、この人が学生なのかどうかはわからない。しかし彼がここで「江古田文学」を〈文芸学科全学生のための実習誌〉と敢えて記していることは、「江古田文学」の編集・運営にあたっての学生側と学科側との間に何らかの齟齬が生じていたことも推察できる。31号から八、九号を出しただけで第一次「江古田文学」が休眠せざるを得なかった大きな理由の一つに編集・運営権をめぐるのっぴきならない葛藤が両者の間にくすぶっていた可能性もある。

 38号から半年ぶりに刊行された39・40合併号の「江古田文学」(昭和36年11月)の執筆陣は主任教授の神保光太郎をはじめとして三浦朱門、進藤純孝、瀬沼茂樹赤塚行雄など大学側の教師たちによって占められ、また次号からは進藤純孝が編集を担当することが予告された。こういった大学側の教師主導の布陣に、それまで「江古田文学」に深く関わってきた学生たち、つまり「江古田文学」を〈文芸学科全学生のための実習誌〉として再確認していた学生たちの不満が爆発して、二十年の休眠を強いられたのかもしれない。

 ざっと第一次「江古田文学」の歴史をたどってみても、文芸学科に入ってきた創作意欲にあふれた学生たちの「江古田文学」に対する思い入れは生々しく伝わってくる。次期編集長を予告された進藤純孝は、実にそれから二十年も経った昭和56年11月に発行人として「江古田文学」の復刊を果たすことになる。

助手として大学に残った此経啓助は不在の「江古田文学」に投稿し続けた〈白井勇亀〉の詩作品の束を保存し、それをわたしに託してインドへと旅立っていった。

〈白井勇亀〉が何者なのかさっぱり分からなかったが、彼はその後も「江古田文学」に投稿し続けてきた。わたしは編集長最後の号で〈白井勇亀〉の作品一篇を掲載することに決めていた。不在の「江古田文学」に投稿し続けたこの人の〈執念〉に畏怖の念さえ覚えていたからである。

 先日(平成31年のある日)、三浦朱門赤塚行雄著『さらば日本大学』(昭和44年8月)を読んでいると、「旗を見上げて泣いた中退者(赤塚)」の中に次のような文章があった。

 占拠された校舎の中には、実際に在校生だけでなく中退者や卒業生が何人かまざっていた。就職事務再開の申し入れのために入って行った時に、私が教室をのぞくと、白井君がソファーに坐っており、私の方をみて、ちょっとてれた様にニヤッと笑った。   白井君は、京都の詩人、白井喜之助の息子で、写真学科を二、三年前に卒業していた。在校中、ドイツ語を教えたことがあるのだが、いつも後の方にすわっていて、あまり熱心ではなかったが、学部祭などになると前衛的な企画を立てるので、ちょっと面白い奴だなと思っていた。  

 私は授業の後で、この男と一度だけしゃべったことがあるのだが、父親の話をすると、どういうわけだかてれて、黙ってしまう。もしかしたら、父親の血筋を引いて詩も書いているかも知れないと思ったのだが、「えゝ、まあ……」といって下をむいてしまった。

  おそらく、白井君がつくったものだったと思うのだが、何年か前の学部祭のパンフレットはケッサクだった。黒地の上に銀色で、日大芸術学部祭と浮きでており、表紙いっぱいに、大きな卵型の柔軟な物体が、一種独特なエネルギーをはらんで写し出されている。

 「どうですか、これ、赤塚先生。」

 「おう、ちょっといいね。」

  学生課職員の中川君は、エヘヘと笑い、

 「先生よくみてくださいよ。」

  という。一種独特なエネルギーをふくんだ、大きな卵型の物体というのは、実はよくみると、男根、亀頭なのだ。

  学生課では、早速、刷り上がったパンフレットを全部、回収してしまったらしいのだが、――これが彼らのいう出版の自由への弾圧になるのだろう――ちょっとおしいような気がしたものであった。(129~130)

 

 読んでいて、ごく自然に詩人・白井喜之助の息子で、写真学科卒の〈白井君〉が、謎の詩の投稿者〈白井勇亀〉と結びついた。わたしが彼の寄稿の束を預かってから、実に四十四年の歳月が経っている。

 わたしは本誌28号の編集後記で復刊「江古田文学」8号から27号までの特集を振り返り「ドストエフスキー宮沢賢治といったすでに評価の定まった文学者ばかりではなく、山本陽子、清水義介といった日芸出身者、大川宣純といった無名の詩人の掘り起こしに力をいれてきたことがはっきりする。わたしは編集をしながら、時折『江古田文学』は彷徨える文学の魂の憑坐(よりまし)になっているのではないかと思ったこともある」と書いた。

 謎の寄稿者〈白井勇亀〉の封筒の裏にはいつも〇〇病院と記されていた。精神の危機の中で書かれた詩の数々は不在の「江古田文学」に送られ続け、そして遂に本誌でその一篇が日の目を見たことになった。以降、投稿はぴったりと止んだ。

   次になぜ「日本大学芸術学部文芸学科卒業制作」を特集にしたかを説明しよう。復刊創刊号の表2に「近来卒業論文、卒業制作のなかにはかなり出来のいい作品がみられるようになった。これを卒業のための評価対象として終わらせてしまうのはまことに残念で、それらの作品に発表の場を与えて、広く文芸界にその評価を問う機会をもたらすことは、当然学科に課せられた責務の一つであろう。しかも卒業生のなかには、詩文の創作を営みながらもマスコミに乗れず、折角の才能を埋もらせている人も少しとしない。こうした人達に時流に左右されぬ発表の舞台を確保し、彼らの芸文を育成してゆくこともまた学科の忘れてはならない責務であろう」(「江古田文学」編集部)と書かれている。

 当初、第二次「江古田文学」は文芸学科の学生および卒業生の作品発表の舞台として復刊された。これが「江古田文学」の核である。この出発点を改めて文芸学科の学生にしっかりと認識してもらいたいということで卒業制作を特集したのである。なお、大学・学部・学科の表記にあたって、わたしは一字も省略しなかった。

 本28号をもってわたしは編集担当を降り、29号からは助手の上田薫にバトンタッチした。今年で100号を迎えるにあたって、上田は今は文芸学科主任となり江古田文学会会長の任にある。わたしは一執筆者として「江古田文学」に参加し続けようと思っている。わたしにとって江古田は〈江古田ケ原戦場〉であり、煩悶し求道し創造する〈日芸魂の聖地〉でる。「江古田文学」は〈わが闘争の舞台〉であり、〈わが魂の故郷〉である。(文中、敬称は略させていただいた)。  二〇一九年二月十三日。