村上玄一を読む (連載1) 清水正

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かつて執筆した村上玄一論を何回かに分けて連載する。大学時代の思い出に関しては「情念で綴る「江古田文学」クロニクル」で書いたことと重複する部分もある。

 

村上玄一を読む (連載1)

清水正

 

 村上玄一とわたしは昭和四十三年四月に日本大学芸術学部文芸学科に入学した。わたし は文学クラブに入った。大学に入学してしばらくすると世に言う学生運動が盛んとなり、 日芸も芸闘委の連中が活発に運動していた。文学クラブの先輩たちの大半がこの芸闘委に 所属していた。最初の新入生歓迎会が江古田の飲み屋で行われたとき、先輩連中が政治の 話ばかりしていたので、酔ったわたしが「いいかげん、文学の話をしようじゃないか」と 言った覚えがある。

 わたしはすでに政治的活動には何の期待も抱いていなかった。一年、浪人している間、 わたしはもっぱらドストエフスキーを読んでいたので、地下生活者の言葉「バカばかりが 活動家になれるのだ」が身に染みていた。

 当時の日芸の学生はサイケデリック衣装を身につけている者が多かった。右足緑、左足 赤のズボンを穿いているような者もいた。部室で後輩をつかまえては三十円の立ち食いそ ばをたかっていた一年先輩の男は、自分を中原中也の生まれ変わりと信じていた自称天才 詩人であった。この男とはしばらく江古田のダンボール工場で一緒に働いたが、当時四十 三キロの痩身であったわたしのあばら骨をつくづく見ながら「おまえを見ていると俺は生きる自信がわいてくる」などと言っていた。

 当時、三浦朱門がゼミの担当であった。一回しか授業をしなかったのでその講義内容は すべて覚えている。闘争が烈しくなっていよいよ授業ができなくなった。ある日、江古田 の飲み屋で三浦朱門、進藤純孝それに学生有志が集まって、要するに「今後どうするか」 をめぐって話し合いがもたれた。当時三浦朱門は教授で進藤純孝は非常勤講師であった。 三浦朱門は酒ではなくもっぱらジュースを飲んでいた。席上、わたしがドストエフスキー の話ばかりしていたので、三浦朱門は「そんなにドストエフスキーに関心があるなら資料 室にドストエフスキー全集を揃えましょう」と言った。わたしはその言葉を本気にしてい たが、三浦朱門はそれから一年も経たぬうちに赤塚行雄助教授と『さらば日本大学』とい う本を出して去っていった。

 紛争後一年も経つと、学生運動に参加していた連中の姿は江古田から消えた。文学クラ ブで一緒だった同級生の一人は、「鬼瓦」という短編小説一つを機関紙に発表しただけで 大学を去っていった。彼は確か三浪して文芸に入ってきた男だったが、紛争後、大学側の 学生証提示の要求を拒んで結局、除籍処分になった。

 わたしは大学に入ってからも相変わらずドストエフスキーを読み続け、書き続けていた 。一年の終わりに『ドストエフスキー体験』という本を自費出版した。当時は詩を精力的 に書いていた山形敬介といつも一緒だった。が、酒はほとんど飲まなかった。もっぱら喫 茶店でだべっていた。

 当時、文芸学科にジャーナリズム研究会という学内サークルがあった。このメンバーの 者が、当時執行部で学監をしていた進藤純孝に頼んで教室を借りることにしたのである。 教室借用は研究室の責任者(学科主任)が学生に申請書を出させてきちんと管理しなけれ ばならないのだが、当時の文芸学科研究室の管理は全くルーズであった。いつの間にか、 文芸棟三階の二教室がジャーナリズム研究会と現代詩研究会の部室となり、四階の学生室 が学内サークルの部室と化してしまった。

 後に(わたしが文芸学科の研究室に残ったばかりの頃)現代詩研究会の連中は三階、四 階の廊下の壁に色ペンキで何やら好き勝手なことを書きまくっていた。管財課の職員が白 ペンキで塗り潰す。また現代詩研の連中が書く。そんなことを何回か繰り返しているので 、文芸棟の壁は薄く剥がしていくと面白いものが出てくるだろう。この現代詩研究会の連 中は黒ヘルとか呼ばれていたが、ある日、黒ヘルの大将が、とつぜん学内に闖入してきた 革マルの連中に鉄パイプで襲撃され病院送りになった。以来、もっぱら文芸棟の壁を発表 舞台にしていた現代詩研究会は自然消滅することになった。

 さて、村上玄一は当時何をしていたかというと、どうやらジャーナリズム研究会(通称 ジャー研)に所属していたらしい。と言うのも、何しろ、同じ年に文芸学科に入学し、同 じ年に卒業した、いわば同期の桜であるにもかかわらず、わたしは在学中、彼とただの一 回も顔を合わせたことがなかったのである。彼が、野坂昭如について雑誌「えこた」に記 事を載せていたことは知っていたが、彼本人とはどういうわけか会うことがなかった。

 ジャー研に所属していた村上玄一以外の同級生はそのほとんど全員を知っているが、み なそれぞれに曲者顔をしていた。彼らに限らず、どういうわけかわたしの年代(昭和二十 四年生まれ)にはクセのある者が多いような気がする。