帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載15) 師匠と弟子

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近況報告

先日、泰葉の歌がすばらしいと聞いたので、今日の昼に動画で探して聞いてみた。泰葉は林家三平(初代) の娘で、春風亭小朝との離婚騒動でマスコミを騒がせたことがある。今回、初めて泰葉の歌を聞いて、その声の美しさとピアノのうまさにも感動した。純粋というものは他人にも本人にも厄介なもので、時に世間的な騒動の引き金にもなったりするのだろうが、泰葉の歌は素直に心に響いてくる。世俗に染まらぬ、厄介な純粋を抱え込んだ泰葉の歌はほんものだ。わたしは韓国の歌が好きでよく聞くが、彼らの歌声は魂に響く力を持っている。日韓断交を主張し続ける桜井誠氏の動画もよく観ているが、芸能や芸術、文学は魂の発露であり、それが本物であれば国家、民族、宗教、言語をも超えて交じり合うことができる。政治、経済上の問題で主張すべきことはしっかりと主張しなければならないが、それらを超えた魂の交流を何よりも大切にしなければならない。泰葉さんの動画を下に貼り付けておきますので是非ご覧ください。

 https://www.youtube.com/watch?v=FdNs79yHPNQ

帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載15)

師匠と弟子

清水正

 柳宗悦は次のように書いている。

「マルコ」は西暦六十五年乃至七十年頃、即ちイエス磔刑せられた時から三十五年乃至四十年の後に書かれたと云はれる。マルコとは恐らく受難週の折イエスに接した「マルコと称ふるヨハネ」の事であらう。彼はパウロの最初の伝導に伴つた人であり、且つ多くの聖徒が屡ゞ彼の家に集つたと云はれる。「ペテロ前書」末に現はれるマルコを同一人とすれば、彼が後に親交をペトロとも結んだ事が推量される。故にマルコの記事は受難週のイエスに就ては直接の知識により、初年のイエスの事は主としてペトロにその材料を得たのであらう。その他目撃者の証言や、イエルサレム教会の伝説や、普通‘Logia’として知られる所詮マタイの聖語集或は又今日‘Q’と呼ばれる古記録、及びパウロの書翰等によつて編纂されたものである。此福音書は他の福音書に比して長さ最も短く文字簡潔である。寧ろ教訓や教理よりもイエスの行動を主に画いたのである。最も古く書かれ且つ直接の目撃、又は目撃者からの間接の材料によつたと云ふ事は、此福音書が歴史的に最も依拠するに足りると云ふ事を示してゐる。故に今日イエス伝を綴るに際しては厳密に「マルコ」にのみ依らねばならぬとさへ屡ゞ主張される。(483~484)

 

 マルコに限らず福音書の記者及び書かれた年代を特定することは困難を極める。これを正確に知ろうとすればするほど迷宮深くへと迷い込むことになる。なにごともあきらめが肝心、自分ができる範囲で充足するほかはない。

 マルコはイエスの弟子であったのか。しかしマルコは十二使徒の一人であったわけではない。特別の弟子ではなくても、イエスと行動を共にすることがあったのか。それともマルコは生きていたときのイエスを全く知らず、イエスに関する情報はペテロなどから得ていたのか。いずれにしてもはっきりした事は何一つわからない。あるのはマルコによって書かれたと云われる福音書だけである。従って、わたしはマルコ福音書を文学作品を対象にする時と同じ姿勢で批評するしかない。わたしが持っている唯一の武器が批評である。

 先に柳宗悦の奇蹟に関する論文を引用した。柳宗悦は実によく関係文献にあたり、奇蹟について言及している。それは優等生の書いたレポートのように、百点満点で百五十点をあげたいような実によくできた論文である。わたしが最初に読んだ柳宗悦の宗教に関する著作は『信と美』(昭和十八年十月 生活文化研究會)で、この本を読んでいる最中ずっとわたしは柳宗悦は敬虔なキリスト者だと思っていた。キリスト信仰とはこれ以外にはないという模範解答のような論文で、しかもそこには愛と情熱もたっぷりと込められていた。しかし、後で柳宗悦の年譜を見ると、彼がキリスト者になったことは一度もなかった。わたしは驚いた。キリスト者でない者が、キリスト信仰の模範解答を執筆しているのだ。やはりこれはおかしい、と思うのが普通であろう。そこでわたしは柳宗悦の「奇蹟について」の論文はキリスト者でない一知識人の論文として冷静に読み進めた。

 わたしと柳宗悦の違いを一つあげれば、わたしにあって彼にないのはドストエフスキーがデカブリストの妻フォン・ヴィージナに宛てて書き記した〈不信と懐疑〉である。柳宗悦にはドストエフスキーの人神論者に共通して見られる「わが魂の震え」をもってする、神に対する不信と懐疑の声がない。柳宗悦にはイエスの起こした奇蹟に対する生々しい驚き、不信、懐疑がないのだ。イエスと行動を共にしていた弟子ですら、イエスを理解できず、いつも裏切り続けている。優等生柳宗悦には、弟子たちの裏切りの内実に身を寄せることはできないだろう。イエスの苛立ち、弟子たちの無知と傲慢と卑小卑劣に、優等生柳宗悦の論文の言語は食い込んでいけないのだ。キリストを信じるということはどういうことかを、完璧に書き記すことのできる柳宗悦、だが彼はキリスト教に入信することはなかった。これは欺瞞ではないのか。柳宗悦がこの自らの欺瞞に徹底して照明を与え、自己検証しないのであれば、彼の言葉は文学の言葉とはならないのである。

 

 

 ドストエフスキー文学に関心のあるひとはぜひご覧ください。

清水正先生大勤労感謝祭」の記念講演会の録画です。

https://www.youtube.com/watch?v=_a6TPEBWvmw&t=1s

 

www.youtube.com

 

 「池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

https://www.youtube.com/watch?v=bKlpsJTBPhc

 

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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube

 

 https://www.youtube.com/watch?v=KuHtXhOqA5g&t=901s

https://www.youtube.com/watch?v=b7TWOEW1yV4