草莽崛起~阿蘇地☆曳人(あそち☆えいと)のブログ

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自虐史観を乗り越えて、「日本」のソ連化を阻止しよう!

「士は武士なり。君下に武士を立てて衆人直耕の穀産を貪り、若し之れを抗む者あれば武士の大勢を以て之を捕縛す。是れ自然の天下を盗むが故に、他の己れを責めんことを恐れてなり」(安藤昌益)

 



「侍をして国中にあらしむべからず」(播磨土一揆)




「君民の共に重んずる所は社稷である。社稷を重ぜざる民は民ではない。社稷を重ぜざる君は君ではない。」

「君を主とするから、暴君政治の弊が起る。民を主とするから、賤民政治の弊が起る。」

「憲法即ちコンスチチューシヨンといふ語は、本質といふ意味である。國の本質は、社稷の外にはない」 (権藤成卿『自治民範』平凡社、一九二七年、二七八~二七九頁)。

 



【主たる素材】百木獏「マルクスの未来社会論を再考する」

 

 最初に断っておくと、百木さんのこの論文全体を取り上げたエントリーではありません。たった1ヵ所、以下の部分に関するものです。

マルクスの未来社会論が抱える困難は多岐にわたるが、実はこの「諸個人の全面的発達」、すなわち「アソシエーションのアソシエーション」を実現・実践しうる主体の登場こそが、最大の困難であると言うことができるのではないか。マルクスの描くアソシエーション社会に期待を寄せる論者の多くは(もちろんマルクス自身を含めて)、こうした「諸個人の全面的発達」を所与の前提としているが、おそらくはマルクスのアソシエーション論の最大の難関はそこに存するのである。

 まず、「諸個人の全面的発達」というのがそもそも胡散臭い。マルクス自身は、『資本論』第1部第13章では、諸個人の発達については「全面的」(allseitige)とは言っていません。「労働者の全面的可動性」(allseitige Beweglichkeit des Arbeiters. )で「全面的」を使い、諸個人の発達については、「全体的に発達した諸個人」( das total entwickelte Individuum)と「全体的」(total)を使っているのです。一見大した違いはないように思えるかもしれません。しかし、「全面的発達」と読み違えた瞬間に「一人一人の人間があらゆる方面に精通している」という無茶な話に見えてくることは避けられません。「全面的」なのは発達ではなく、「可動性」です。少々大袈裟な描き方ですが、「全面的」とは「多数の生産部面へ」という意味他なりません。そのことは、「全体的に発達した諸個人」の内容規定からもうかがい知ることができます。

さまざまな社会的機能を次々と取り換える全体的に発達した個人

必ずしも一人一人がすべてをこなすことが要求されているわけではありません。多様な機能を次々と行使するということです。確かに、その多様な機能を行使しうる能力が相互に孤立した各個人に属するものであるなら、これは超人だらけの世界ということになるでしょう。しかし、われわれは、ここでフォイエルバッハ・テーゼ6を想起すべきなのです。

人間的本質は個々の個人に内在する抽象物ではない。現実には、それは社会的な諸関係の総体なの である。

*ただし、この「総体」は、 Ensemble(アンサンブル)

全面的な能力を一人一人が例外なく備えなくても、相互補完的な関係の中でトータルな存在として社会的な能力を自分のものとして活用できるということです。単独者としてすべてをこなせる能力を一人一人が自分に内在させましょうという話では、全くありません。

諸個人は自己の主体性の発現過程たる労働の過程において,自己の現実化の媒介契機として自然とともに他の諸個人を不断に措定している(社会的労働!)。主体とは再三強調したように自己の諸前提を産出しつつ自己関係する自立的運動であるが,個人はこのような主体として,自己の前提たる他の諸個人を自己実現のための媒介形態として不断に措定しているのである。1個の個人において実在する同一の主体的自己媒介運動は,同様の自己媒介運動構造をもつ他の諸個人を前提するとともに自己のために措定している。(有井行夫「マルクスの社会システム把握と矛盾論・疎外論・物象化論」)

 ここで有井氏が述べているのは、諸個人の一般的な在り方であって、特殊資本主義的な在り方でもなく、資本主義を乗り越えた自由な個体性としての在り方でもありません。

 では、資本主義において上記のような一般的個人は、どのような特殊歴史的な規定を帯びるのでしょうか。それはこうだと思われます。実際には、「自己の現実化の媒介契機として自然とともに他の諸個人を不断に措定している」にもかかわらず、全くその自覚がないまま、結果的に、排他的な諸個人として互いに私利私欲のために「自己の前提たる他の諸個人を自己実現のための媒介形態として不断に措定している」のが、物象的依存関係(資本主義)における諸個人です。

 それに対して、未来社会の諸個人は、自分たちの相互媒介性に無自覚な故に互いに排他的にふるまう状況を克服した個人、自覚的な協力関係の中で「さまざまな社会的機能を次々と取り換える全体的に発達した個人」なのです。

 そして、このような個人は、確かに未来社会の成立にとって不可欠の前提条件ですが、しかし、それ自身の根拠を欠いた「所与の前提」、マルクスの願望の産物などではありません。

近代工業は、生産の技術的基礎とともに労働者の機能や労働過程の社会的結合をも絶えず変革する。したがってまた、それは社会のなかでの分業に絶えず変革し、大量の資本と労働力の大群とを、一つの生産部門から他の生産部門へと絶えまなく投げ出し投げ入れる。したがって、大工業の本性は、労働を転換、機能を流動、労働者の全面的可動性を必然的にする。

むしろ、それは、資本主義それ自体が生み出した「労働者の全面的可動性」をいわば逆手に取ったものなのです。大工業の資本主義的な形態は、労働する諸個人に多面的な機能の担い手となり、資本の都合に応じてその機能を代わる代わる果たすことを強制します。資本の勝手な都合によって、あの部面からこの部面へと追い回される不安定な生活の中で否応なく身につけさせられた多面的機能を、個々バラバラにではなく、トータルに、つまりアソシエイトした主体として、発揮することが資本主義乗り越えのカギです。勿論、それでもなお、全面的に可動的な労働者から「全体的に発達した諸個人」への転化は、確かに困難を伴うでしょう。しかし、百木氏のように、「全体的に発達した諸個人」を、無前提に出現することが根拠もなく期待されているに過ぎないものと見てしまえば、この転化の困難さや障害が具体的にどのような内容を持つのかすら理解できないことになるでしょう。そして、実際に百木氏はそれを理解していないのです。

 

 

 

莽崛起(The Rising Multitude)
You created these problems
And you don't know what to do
You know you can solve them
1.自己と対象は、どちらも対象的自然。自己は、自己意識である以前に有機的身体、対象は非有機的身体。
 
2.マルクス労働論の主たる問題意識は、観察者の立場の批判におかれていた。
 
3.システム原理としての本質的矛盾は、労働の矛盾、すなわち疎外された労働である。
 
4.対象を自己の非有機的身体として組織化することは労働によってのみ可能となる。自己意識にそれはできない。
+++++++++++++++有井行夫「労働に即する社会把握の復権のために」(大谷編『21世紀とマルクス』桜井書店、2007年所収)
 
 
自己意識としての自己意識の立場、すなわち観察者の立場とは、自己の問題意識に相関させて対象を恣意的に設定したり、解消したりすることに終始する態度を言う。
 
実践的に対象を捉えるものではなく、対象をその本質に即して把握する代わりに、対象に自己認識を投影して終わる。
 
「主客二元論の克服」が提唱される場合、ほとんどは、無自覚的であれ、自覚的であれ「主体(主観)」が「客体(客観)」を包摂する構図で「克服」がなされることになっている。
 
直観的には「正しく」見えても、具体的な産出物、成果に乏しいのが実情だ。
 
対象に即して正しいのは、有機的身体(人間的自然、実在的な自己)による非有機的自然(環境的自然)の包摂である他の人間諸個体や非有機的身体としての環境的自然(人工物を含む)を自己の身体を媒介させること、すなわち労働実践の一つ一つが主客二元論の克服なのである。
 
そして、この実践は、ハイエクのいうノモスへの配慮そのもの、設計的人為ならざる自生的秩序に従うことに他ならない。
 
※ピンポイントですが、内容的には重大な変更をしたので旧稿は破棄します。
 
イメージ 1
 
自生的秩序の思想家、安藤昌益先生の自然真営道
 
 マルクスが社会形成の主体に据えるのは、人間一般としての労働する諸個人である。但し、それは抽象概念としての人間一般ではなく、人間の一般性を担う現実の生きた個人である。この人間の一般性は、人間を生命一般から区別する種差であり、人類一般に通有される契機である。これこそがマルクスの類的本質であり、その内容は、人間固有の生命活動としての労働である。
 
全ての生物は、必ず身体組織の外に広がる外在的諸条件(自然環境や他の人間)との間で何らかの物質や情報のやり取りをしながら自己の生命を維持しているのである。このとき外在的諸条件は、当該有機体の生命過程の諸契機(非有機的身体)として、この有機体の生命活動に適合するよう生命過程に組み込まれている。すべての生命体が、それぞれが置かれた条件に応じて、自己保存や繁殖という目的に適した運動形態を獲得している(生命活動の合目的性)。
 
水鳥が水かきを持つのは、捕食対象や生息領域という環境条件の下で自己保存と繁殖という目的に適合的な有機的身体を獲得したということに他ならない。しかし、水鳥はその身体形成の運動を合目的的には為し得ていても、決して目的意識的には為し得ていない。それは、無自覚的な運動にとどまっている。
 
外在的諸条件(自然環境や他の人間)に対する人間諸個人の関係も、外在的諸条件と生命一般の合目的的関係であることには変わりはない。しかし、人間の場合には、自己の有機的身体と非有機的身体との間の物質代謝という合目的的な過程を「意識(精神)」によって媒介している。人間は、合目的的運動を対自化してとらえ、自覚的に制御するのである。それにより、人間は、有機的身体が他の生物のように、生息環境や捕食対象に限定的に対応せず、物質代謝の諸対象(物質的生存条件)に対してより普遍的にふるまうことができる。遭遇する様々な対象の固有の性質に応じてそれらに対し自由に対応することができるのである。
 
このようにとらえられた主体概念とその運動から近代社会の日常的発生過程(共時的synchronic発生過程)を展開することがマルクスのいう概念的把握である。したがって、概念的に把握された近代社会とその運動様式は、人間的本質としての労働の特殊歴史的な媒介関係と媒介様式以外の何物でもない。
 
それでは、そのようにして明らかにされた疎外された労働の概念とは、どのようなものであろうか。
 
マルクスは、疎外された労働を構成する4契機として、(1)労働主体の、労働対象に対する矛盾した関係、(2)労働主体の、労働という行為・活動それ自体に対する矛盾した関係、(3)労働主体の、彼の労働能力に対する矛盾した関係、(4)労働主体の、他の人間に対する矛盾した関係を挙げる。
 
なお、(1)における対象とは、労働の物質的条件としての非有機的身体であり、人間にとっての物質的環境の一切である。また、(4)における他の人間とは、労働の社会的条件である社会的諸関係である。
 
この4契機のうち、最も基底的な契機は、第3契機の能力の疎外 である。物質的環境、自己の活動それ自体、社会的諸関係の3者に対して普遍的にふるまいうる能力が疎外された結果、物質的環境、活動、社会的諸関係という3者に対して矛盾した関係に陥るのだからである。
 
「疎外された労働」とは、「国民経済学的事実」と指摘されていることからもわかるように、端的に賃労働のことである。賃労働が類的能力(Gattungsvermögen)の譲渡であることから、この能力の展開および媒介の諸形態である、対象(手段と成果)、活動、社会の疎外が生じるのである。
 
「ミル評註」では、主体は私的所有者であり、それに即して「疎外された労働」も、「営利労働」(私的労働)として捉えなおされている。私的所有者の直接的な関心の対象は商品としての生産物である。しかし、その生産物も、それ自体は享受の対象でなく、営利すなわち貨幣の取得を達成するための手段にすぎない。もちろん、この生産物を生産する労働も、それが私的所有者自身の労働であるかどうかに関係なく、私的所有者の享受の対象ではなくなる。活動としての労働も、対象としての生産物も疎外され、社会的諸関係は、私的所有に対する私的所有の関係に、すなわち相互に排他的な対象支配行為が、貨幣という外在的事物に媒介される関係となっている。
 
こうして,社会形成の主体とその現時点での疎外されたあり方が明らかにされた。疎外は生産過程における疎外(疎外された労働)と流通過程における疎外(営利労働)として把握された。この現時点での在り方を基準にして過去の社会形態と将来の社会形態,それぞれの特性が照らし出されることになる。