竹内敬持(竹内式部)「天子御代々御学問足らず、御不徳」 | 草莽崛起~阿蘇地☆曳人(あそち☆えいと)のブログ

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《一七五八年、公家のあいだで儒学と神道を講じていた竹内式部が京都所司代の裁きを受け、京都からの追放処分を受けた。竹内式部は越後の医師の息子で、京都に出てきて、闇斎・絅斎系統の儒学と垂加神道を学び、徳大寺家に仕えた。教えを受けた徳大寺公城らは、当時の桃園天皇に対し、近習として進講した。その内容は、天皇や公家に為政者としての道徳的自覚を促そうとするものであった。天皇・公家が学問を積み、道徳的に向上していけば、天下の万民がその徳に服し、天皇に心を寄せるようになる。また将軍も天下の政統を「返上し」、公家の天下となるのは必定だと説いた。》(溝部 英章「日本政治史における急進主義の問題(二完)」、産大法学 44巻3号、2010.11)
 
敬持の講義の内容は、武家伝奏広橋兼胤の日記によれば次のようなものであったという。
 
《天子を至つて尊敬之儀、強(あなが)ちに申し講じ、右之通、日本に於(おい)て天子程貴(たつと)き御身柄はこれなく候に、将軍を貴と申す儀は人々も存知、天子を貴ぶを存ぜず候。子細ハ如何之儀ニ而これあるべき哉。是ハ天子御代々御学問足らず、御不徳。臣下関白已下(いか)何(いず)れも非器無才故之儀ニ候。天子より諸臣一等ニ学問を励み、五常之道備へ候ヘバ、天下之万民皆その徳に服して天子に心を寄せ、自然と将軍も天下之政統を返上せられ候様ニ相成り候儀ハ必定、実に掌を指す如く公家之天下ニ相成り候。》
 
天皇が将軍ほどには重んじられていない事実を指摘したうえで、それは、天皇自身に学が足りず、徳もないし、関白以下の臣下も無能だからだと容赦なく指弾する。しかし、天皇をはじめ公家が一堂に学を修め、徳を備えれば、民心は彼らに服し、ついには幕府も政権を返上するであろうという。
 
中段の「天子御代々御学問足らず、御不徳。臣下関白已下(いか)何(いず)れも非器無才」は、松陰の「今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし」にも通じる。もっとも敬持自身は、松陰のように「草莽崛起」を宣するには至らない。
 
しかし、敬持は、町医者の子である。門地門閥の障壁を超えて学才で身を立てた。ついに天皇の近習を門弟に持つまでになり、その学説は彼らを通じて天皇に進講されるまでになった。そして、その内容は、天皇もまた努力してそれに相応しい能力を身に着けなければ、その地位に値しないと喝破するものであった。
 
敬持が奉じた垂加神道は、朱子学の影響を強く受けている。いやむしろ神道の理論的裏付けとなるように朱子学を再解釈したものといったほうがよいかもしれない。そして、朱子学は、身分秩序の重要性を強調するものであったことは、よく知られているとおりである。敬持自身の信じるところも、当然君臣の別を重んじるものであったに違いない。本来、幕府よりも上になければならない朝廷の威徳が凋落していることを嘆いての直言が先の「天子御代々御学問足らず、御不徳」なのである。
 
ところが、こうした敬持の言動と来歴は、彼自身の自覚を超えて歴史に作用する。身分秩序を超え出てきた者が、天皇も努力しなければその地位にふさわしいものとなることはできないと主張し、朝廷内の身分秩序の固定化に不満を抱き始めていた少壮公家を感化する。それは、幕府との協調関係を維持して当該秩序を守りたい摂家らを恐怖させる。
 
宝暦事件は、天皇も含めた支配階級の統治権が天賦のものではないこと、当時の身分秩序が太古から続く自然的秩序などではないことが、次第に明らかにされていく歴史的過程の発端としてとらえることができるのである。