3つのリベラリズム――その3:ネオリベラリズム[続きの(1)] | 草莽崛起~阿蘇地☆曳人(あそち☆えいと)のブログ

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自虐史観を乗り越えて、「日本」のソ連化を阻止しよう!

「個人」と「自由」

ネオリベラリズムは、個人を、自然や社会から切り離された孤立的存在とみている。そのような個人にとっての自由は、自分の領分に他人が入り込むことを退けることとされる。互いに依存と介入を極力避けることのできる社会が、ネオリベラリズムが「理想」とする「自立」的な個人からなる「自由社会」である。自立というなら足場が必要で、市場だけでなく自然や社会もまさにそうした足場である。しかも市場自体が自然や社会の他の領域によって支えられている。だが、ネオリベラリズムは続稿以下で見るように自然や社会の市場以外の領域を事実上無視している。

 

さらに、ネオリベラリズムは、競争的個人主義としての特徴を持つ。すべての個人が《“労働力または雇用可能性を開発する企業家”と》1なって,自分自身に《投資することで絶えず自分の競争力(職業的能力)の向上を目指す企業単位になるように要請される》2 。企業に収益をもたらす能力を各個人が競って鍛錬することで社会の活力が向上するという考えである。だが、その一方で《能力主義的競争の結果がもたらす不平等は是認され,分配の不平等を是正することは,能力主義的競争を妨げるものとして拒まれる》3 。かくして《政治的権利としての民主主義および人権の理念が後退し,市場原理主義にもとづく個人間競争の自由・平等の理念が浮上する》4

 

3つのリベラリズムは、共通して私的所有が個人の自立の根拠だと考えている。だが、ソーシャル・リベラリズムは、この考えに立ちつつも、所有の著しい不均衡を放置すれば結局、個人の自由は侵食されるとみて、そのような不均衡は是正すべきであると考える。この点でソーシャル・リベラリズムは、古典的リベラリズム及びネオリベラリズムとは対照的である。古典的リベラリズムとネオリベラリズムは、自由な競争の結果、所有に著しい不均衡が生じても是認されるという考えでは一致している。ただし、ネオリベラリズムの場合、実際には、個人の自由よりも資本の自由が優先される点で古典的リベラリズムとは違っている。

(つづく)

 

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1.若森章孝「新自由主義と国家介入の再定義」千葉大学経済研究第27巻第2・3号(2012年12月)。
2.同上。
3.同上。
4.同上。
 
平和の少女、立ち上がる…

 

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