「国家」と「人権」――サエキ・ケイシ氏の「概念整理」に「保守」思想の破綻を見る | 草莽崛起~阿蘇地☆曳人(あそち☆えいと)のブログ

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自虐史観を乗り越えて、「日本」のソ連化を阻止しよう!

近代市民社会(=資本主義社会)では、人に迷惑をかけない範囲内での自由な行動の決定は、私的個人による自己決定として排他的に行われています。そのために決定を下した当人の予想に反して、人様に迷惑をかけてしまう自体がしばしば生じるのです。

 

私的諸個人がそれぞれ独自に自己決定を下し、互いが相手の決定過程に口を挟むことは権利の侵害として原則的には認めていません。もちろん相手に一定の示唆を与えること、判断の材料を提供することは可能です。しかし、それをどこまで取り入れるかは決定者側の判断に委ねられています。つまり他人の迷惑を考慮に入れるといっても、どこまでそうするかは各自の勝手なのです。

 

対立が生じても非のある側が素直にそれを認めるなら、当事者間で問題を解決することができます。しかし、実際は、すんなり話の着くケースは稀です。そこで、第三者の裁定が必要となるのです。いろいろな裁定者が好き勝手に裁定をしていては、不公平が生じるので、最終的には、市民社会を構成するすべてのメンバーに対して“中立、公正な”裁定者が用意されるにいたります。この“公”的裁定者の存在が前提できれば、人々は安心して私利の追求に励みます。トラブルが生じたらその都度当事者間の交渉で解決をはかり、話がまとまらなければ裁定者に解決を委ねればよいと考えるからです。

 

さらに、私利私欲の衝突が、私的個人の生活を脅かす重大な事故となり、そしてこの事故の加害者に被害者の生活を補償する能力がないとき、あるいは、補償の責を追うべき加害者がそもそも見出せないとき、事故の犠牲者を救済すべき役割(“セーフティ・ネット”)が、この“公”的裁定者に期待されるようになります。この裁定者兼救済者が「国家」です。

 

ところが、「国家」が本当に“中立、公正な”活動をしてくれる保証は、どこにもありません。それどころか、“国家”は己の我欲(“国益”)を満たすために引き起こした帝国主義戦争に「*」諸個人の命を差し出せと要求するエゴイズムの権化なのです。だから、「私的」諸個人は、「国家」に強い反感を抱き、「国家」の行動を常に監視し、「国家」が予防的に「私的」決定過程へ介入することに強く反対するのはもちろんのこと、「国家」が事後的に行う仲裁についても、少しでも自己に不利益な面があれば何としても従うまいと決意しているのです。己の私的(=排他的)決定の権限を「国家」の介入から我が身を守る城壁、鎧としてますます強固なものにしようと狂奔しているのです。この辺りの事情を「国家」の決定にこそプライオリティを置くべきだと考える「国家エゴイスト」の側から証言してもらうとしましょう。

 

   近代の「市民社会」とは、個々人の私的財産、私 的自由の平等な確保を原則として成り立っている。 したがってあくまで社会の単位となるのは「私的」な権利や自由に関心をもつ個々人であり、それを 越えたものは本来存在しない。この前提からすれば、事実上、一切の政治的な意思決定は、個々人の意志を越えているという意味で、個人の自由を  制約するものであり、また権力の行使であるので、「市民社会」は常に国家を代表する政治的権力と対立することとなる。市民社会の民主主義とはこうして政治権力を行使するものへの否定的闘争という意味を帯びてこざるをえないのである。

  いうまでもなく、この前提からは「公共的なもの」は出てきはしない。仮に「公共的なもの」を、個々人の利害や好悪や立場を離れ、またそれを越えた「共通の関心」とすれば、自由な個々人の尊重から出発する市民社会論からは、厳密には「公共性」の観念はでてこないはずであろう。

(佐伯啓思「『国家』と『公共性』と『個人』…概念整理のために」『発言者』vol.59所収)

 

「サエキ・センセイ」の“名誉”のために申し添えますが、センセイが文中「この前提」とおっしゃっている引用冒頭の2文はセンセイ御自身の理解を述べたものではなく、「サヨク」の理解をまとめたものです(実際は、センセイもこの前提を共有なさっていることが後に明らかになります)。引用の後段については、既に僕が述べてきたことから明らかな様に、完全に間違っています。私的個人は、己らの私欲のぶつかり合いを何とか仲裁して欲しいという程度のことにすぎないにしても、何はともあれ「共通の関心」を持っているのであり、「公共的なもの」を要求せずに入られないのです。この「共通の関心」は個々人の利害を離れてはいないもののこれを超えたものであることは事実です。

 

「市民社会論」からは、「公共性」の観念は「出てこない」のではなく、必然的に出てこざるをえないのです。それにも拘わらず私的諸個人は、自らが“必要”とする「公共的なもの」に強い反感を抱いているのです。

 

私的決定を己の原則としながら、否、そうであるがゆえに、公的な裁定と救済を必要とし、なおかつ己の“必要”物に反感を抱き敵対する、このような私的諸個人の支離滅裂な振る舞いを僕は、「人権エゴイズム」と呼ぶのです。

 

市民社会における市民の振る舞いを客観的に眺めていると、あたかも“私の排他的決定権を認めよ、それが私の損失を引き起こす場合は私を救済せよ”という精神で行動しているように見えるというわけです。

 

人権エゴイストともに私的放埓の世界を享楽しながら、そのことに気づかない素振りをしている「国家エゴイズム」の野蛮な大衆的追従者どもが、自分のことを棚に上げて人権エゴイストを“国の世話になっておきながら、身勝手な奴らだ”と罵り、“現状に満足できないのであれば、どこへでも立ち去ればよい”と放言することができるのは、人権エゴイストは国家依存から抜け出せないという事実をその獣的嗅覚で鋭く嗅ぎ付けているからに他なりません。

 

ところが、人権エゴイストを非難する国家エゴイスト自身が、「市民社会論」の「前提」を否定することなどできず、むしろ、こっそり認めざるをえないのです。

 

『祖国のために死ぬ』ことが私的利害に反する ことは当然のことである。とすれば、ここで「国」  が要求する義務と、私的事情の間に深刻な葛藤が生じる。つまり、個人は、「公的」義務と「私的」利害の間に引き裂かれる。言い換えれば、一つの 社会に生きる個人はつねに二つの側面、「公的」側面と「私的」側面を持つことになる。しかもこの両者はしばしば対立する。[…中略…]国家(あるいはそれに代わる共同体)がなければ個人の生活などありえない。個人を一つの社会に結び付ける「公  共性(共通関心)」は、国家(あるいは共同体)と不可分だからである。と同時に、個人は決して国家や  共同体に回収しきれるものではない。個人はその徹底した「私性」によって国家の外にいるからであ  る。

  (佐伯啓思「『国家』と『公共性』と『個人』… 概念整理のために」『発言者』vol.59所収)

 

サエキセンセイは、まさに、個人は、個人のままでは孤立していてバラバラだと信じているのです。まさに一部の社会契約論者と全く同じように、《国家(あるいは共同体)》は、《個人を一つの社会に結び付ける「公共性(共通関心)」》と《不可分だ》だが、《個人はその徹底した「私性」によって国家の外にいる》と。だから、権力でつかねないと公共性を形成することができないのだと考えてしまうのです。

 

実際は、全く逆です。諸個人は、諸個人のままで常に公共性を、程度の差や社会的形態の違いこそあれ、何らかの共通関心を抱くことなしには生活できません。自然環境や他の人間たちから、自分を切り離して、その外に立って暮らすことのできる人間など存在しないのです。そんなものがありうると考えるのは、近代人の妄想です。そして、この妄想こそが人権エゴイズムの直接の源泉なのです。

 

このように、サエキセンセイは、リベラリズムに対抗して、自らの「保守」としての立場から、「概念整理」を試みたものの、その結果は、実質的に近代リベラリズム、人権エゴイズムにそうとは気づかないまま全面屈服するという情けない結果に終わってしまいましたとさ、チャンチャン(^^

 

No Commonality