大洪水の前に マルクスと惑星の物質代謝 | 空想俳人日記

大洪水の前に マルクスと惑星の物質代謝

マルクス未完のプロジェクト、その遺志を継ぐ
異常気象、疫病の流行や戦争……世界が危機に瀕する今、私たちは誰も取り残すことなく、これらの問題を解決するための道筋を探さなくてはならない。資本主義の暴力性や破壊性を正確に認識し、その上で、資本主義とは異なる社会システムを構築すること。『資本論』を記したカール・マルクスの、生前未刊行のノートからエコロジーの思想を汲み取り分析する。ドイッチャー記念賞受賞作。スラヴォイ・ジジェクの解説も収録。

【目次】
第一部 経済学批判とエコロジー
 第一章 労働の疎外から自然の疎外へ
 第二章 物質代謝論の系譜学
第二部 『資本論』と物質代謝の亀裂
 第三章 物質代謝論としての『資本論』
 第四章 近代農業批判と抜粋ノート
第三部 晩期マルクスの物質代謝論へ
 第五章 エコロジーノートと物質代謝論の新地平
 第六章 利潤、弾力性、自然
 第七章 マルクスとエンゲルスの知的関係とエコロジー


 以上、角川ソフィア文庫サイトの解説から引用。
 この本は、2018年度ドイッチャー記念賞(Deutscher Memorial Prize)を日本人初、最年少受賞した作品の邦訳増補改訂版(2019年4月30日)の文庫化(2022年10月24日)であります。
 2019年4月30日の邦訳増補改訂版の紹介は、以下の通りです。

2018年度ドイッチャー記念賞(Deutscher Memorial Prize)を日本人初、最年少受賞。期待の俊英による受賞作邦訳増補改訂版。資本主義批判と環境批判の融合から生まれる持続可能なポスト・キャピタリズムへの思考、21世紀に不可欠な理論的参照軸として復権するマルクス研究。
マルクスのエコロジー論が経済学批判において体系的・包括的に論じられる重要なテーマであると明かし、またマルクス研究としてだけでなく、資本主義批判、環境問題のアクチュアルな理論として世界で大きな評価を獲得。
グローバルな活躍をみせる著者による日本初の単著です。

【スラヴォイ・ジジェク】
斎藤幸平のKarl Marx's Ecosocialism(『大洪水の前に』の英語版)は自然の中に埋め込まれた人間を考えるための最も一貫した最新の試みだ。

【 マイケル・ハート】
気候変動とグローバルな環境危機に対峙しようと決意するなら、資本の批判が必ずや中心的課題になることが今日ますますはっきりとするようになるなかで、より多くの研究者や活動家たちが環境問題にたいしてマルクス主義のアプローチを採用するようになっている。この素晴らしい本によって、斎藤幸平はエコロジカルな資本批判というプロジェクトのために多大な貢献を成し遂げているが、それは、マルクス自身が経済学批判をその生涯にわたる、体系的なエコロジカルな分析に結びつけていたことを示しているからである。この惑星を大洪水から救いたいなら、もう一度マルクスに立ち返り、マルクスを読み返さなくてはならない。


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 ここからが私のお話。
 とにかく、この本は、難しい。難しい、で思い出したのが、この間読んだ「100分de名著ル・ボン『群衆心理』」の著者武田さん曰く、「分かりやすいには気をつけよう」ですぞ。分かりやすいと、考えずに鵜呑みにしてしまう。
 そんなわけで、考え考え読むことにした。ただ、全般的に、これまでのマルクス研究かたちの誤った読み方をどんどん正していく文章なので、知らない方々の誤りがいっぱい出てきます。勿論聞いたことのない用語も出てくるせいもありますが、その誤りが、どうも難しさをより一層難しくしているのではないか、そう思います。


 が、ぶつくさ言ってず、まず、【第一部 経済学批判とエコロジー】から。
 その【第一章 労働の疎外から自然の疎外へ】で、「おおおお」というマルクスの言葉が突如出てきました。農奴や借地人と賃労働者の決定的な違いです。

《《同様に占有地の耕作者たちも日雇労働者のあり方をしているのではなくて、彼らは彼ら自身、農奴のように主人の所有物であると同時に、主人に対して敬意を払い、臣従し義務を負う立場にあるのである。それゆえに主人の彼らに対する立場は直接的に政治的であるとともに、また和気あいあいとした側面を持っている。習俗、性格などは地所ごとに変わり、一定範囲の地所と一体のようにみえるのであるが、しかし後にはただもう人間の財布だけー彼の性格、彼の個性ではなくーが彼を地所へ関係させるようになる。》》

 そして、斎藤氏の解説です。

《封建制のもとでは、土地の耕作者は人格的自立性を承認されずに、むしろ否定されている。農奴が領主の所有する土地の付属物として扱われる所以である。この支配・従属関係は、近代市民社会における賃労働者の置かれている状況と決定的に異なっていることに注目してほしい。というのも、後者は直接的な政治的支配から解放され、自由で平等な法的主体である「人格」として承認されているからである。ただし、このことは賃労働者が農奴よりも自由で、快適な生活を享受していることを意味しない。むしろ、事態はその反対である。人格性の否定の結果、農奴は生産・再生産の客観的諸条件との統一を依然として維持していたのであり、そのために生存も保障されていたのである。》

 難しい用語の中に、この「和気あいあい」は、ほっと胸をなでおろさせてくれます。
 封建制のもとでの、この「和気あいあい」は、近代社会においては、失っているということです。それは、土地が完全に商品化され、「掛売り」の対象となることで、まったく異なった支配の形、資本の非人格的で、物象的な支配が生まれ、疎外された労働が完全な形で成立するからです。
 ようは、賃労働者は、生産物は自分のものでなく、生産という労働に対して、賃金が支払われるわけで、労働も商品化されているということでしょうか。そこには、「和気あいあい」はないと。近代社会の労働は、お金を稼ぐためであり、安い労働力が手に入れば、解雇されても仕方がない訳でしょう。確かに生存保証はありませんね。
 この後、マルクスの言葉には、この「和気あいあい」が何度も出てきます。かと言って、封建時代に戻ればいい、ではないですよ。そうではなく、近代社会における、「金の切れ目が縁の切れ目」ではないですが、いかに「和気あいあい」を蘇らせるか、なのでしょうねえ。

 そして、【第二章 物質代謝論の系譜学】
 ここで、マルクスは「物質代謝」という生理学概念を用いるようになります。有機体の摂取・吸収・排泄とのアナロジーで、生産・消費・廃棄といった社会的活動を分析するために用いられた、と斎藤氏は説明してくださってます。

《《生きて活動する人間たちと、彼らが自然とのあいだで行う物質代謝の自然的、非有機的諸条件との統一、だからまた彼らによる自然の取得は、説明を要するものでなく、あるいはどんな歴史的過程でもないのであって、説明を要するもの、歴史的過程の結果であるのは、人間的定住のこの非有機的諸条件とこの活動する定在とのあいだの分離、すなわち、賃労働と資本との関係においてはじめて完全なかたちで措定されるような分離である。》》

 こら!マルクス、分かりづらいぞ。

《人間と自然の物質代謝が「分離」を基礎としてしか生じないようになることでーつまり、労働過程が「賃労働と資本の関係へ転化してしまうことでー、その姿は全資本主義社会と比較して大きく変わってしまう。だからこそ、「本源的統一」に代わるこの近代に特有の「分離」こそが、経済学が「説明」しなくてはならない「歴史的過程の結果」と呼ばれるのである。後に見るように、『資本論』においても、近代社会における「分離」・「亀裂」がこの物質代謝概念によって分析され、さらには、共産主義の構想もこの物質代謝の意識的な修復・管理として定式化されるようになる。》

 ありがとう、斎藤先生。
 あと、この章は、いかにマルクスが「物質代謝」に傾倒していったかの系譜学の要素が強く、多くの学者の名前やその影響について書かれてて、余り深読みできてないが、マルクスが「哲学と訣別」したことが書かれていることに注目した。つまり、他の「物質代謝論」を展開する学者が、論理や啓蒙だけで、それでは世の中は変われへん、と言っているのですよ。行動・実践が大事だと。あれです、実存主義のサルトルの「アンガージュマン」を思い出しましたねえ。


 物質代謝については、【第二部 『資本論』と物質代謝の亀裂】が重要かと。第二部へ行きま~す。
 【第三章 物質代謝論としての『資本論』】から。
 マルクスは近代社会の転倒を「人格の物象化」と呼んでいます。

《《生産者たちによっては、彼らの私的労働の社会的関連は、そのあるがままのものとして、すなわち、人と人とが彼らの労働において取り結ぶ直接的的に社会的な関係としてではなく、むしろ、人と人の物象的関係および、物証と物象との社会的関係として現れるのである。

《客体的世界における転倒のために、私的生産者の社会的関係が直接的に人格的な関係としては
現れず、物証的な関係として現れる。こうして「労働の社会的性格」は労働生産物の価値関係」に、「労働の時間的継続」は「労働生産物の価値量」に、そして「生産者の社会的関係」は「労働生産物の交換関係」に転倒して、物と物の関係として現れるのである。》
 いや、これより,次のが分かりやすいですわ。
《例えば、資本家は競争によって強制されて、衛生・安全・環境保全設備なども含めた「余分な」コストを削減しようとし、労働力を可能な限り絞り出して、抽象的人間的労働を生産物に対象化させようとし、生産の持続可能性など考えずに、より多くを生産・販売しようとする。労働者の側も競争のもとで、失業すれば生活が立ち行かなくなるという恐れに駆り立てられて、資本家の命令に従い、労働条件の悪化にも耐え忍ぶような態度を取るようになる。こうした態度は客観的転倒を拡大的に再生産し、人々の貨幣や商品への依存度をますます高めていく。》

 あ、そうそう。「使用価値」「価値」「剰余価値」、この3つの価値に要注意!
 それと、「労働日」章と「大工業」章は、重要ですよ。

《資本主義的生産がこのような「残酷で信じがたいほどの」労働日の延長を求めるのは、それが剰余労働・剰余価値の絶対的拡大にとってのもっとも直接的な方法であるだけでなく、不変資本の道徳的摩耗を避け、機械を再稼働するための追加時間や費用を節約するためでもある。》
《資本家階級の支配は単に生産手段排他的所有だけではなく、労働者たちの持っている技能や経験に裏打ちされた知や洞察力を資本のもとへと集中し、労働における「構想」と「実行」を分離することに基づいている。生産に関わる技術学や知の独占に根付いた資本の支配は労働過程のより深い次元にまで食い込んでいるのである。大工業のもとで、労働者たちは機械の付属品として、その運動に合わせて生産するのはもちろんだが、さらには、自立的な生産に不可欠な基盤である知や技術学へのアクセスが遮断されているために、労働者の主体性が根本から否定されている。》

 そして、この章で、初めて、この本のタイトルである「大洪水」という言葉が登場してますね。

《「大洪水よ、我が亡きあとに来たれ!」これこそが「資本の人格化」である資本家にとってのスローガンであり、「資本は、社会によって強制されるのでなければ、労働者の健康と寿命にたいし、なんら顧慮も払わないのである」》

 そう。この世界の新自由主義のもとに剰余価値を受けている1%の人間が仲間の人間どころか、すべての生物、そして、地球という母なる惑星を滅ぼそうとしているのです!

 以上。さ、【第四章 近代農業批判と抜粋ノート】に行きますか。
 ここでは、マルクスが近代農業に関してはどうか、それが語られております。『資本論』だけでは見えてこないので、斎藤氏は、抜粋ノートを用いて解説されてます。
 農業に関しては、マルクスは当初、他の農業系科学者の影響を受け、極めて楽観的な意見でした、ところが、北アメリカで起きている深刻な問題を、そんな科学者が、掌を反すように、批判に出たことで、マルクスも変わりました。
 収穫した後の土地に肥料を与えないと、その土地は荒廃する。なのに、北アメリカでは、収穫後に肥料を与えるよりも、ほかっておいて、新たに西へ開墾した方が楽だ。そのことに、科学者たちも、一挙に掠奪農業として批判に回ります。これを受けて、マルクスも同様ですが、他の科学者と違って、彼は、先の資本主義の経済の中での賃労働者と同じだ、気づきます。
 資本主義の中での農業経営は、目先の収穫を求めるばかり、大地への恩返しもせずに、いつか大地を疲弊させます。それに気づいたマルクスは、農業においても、その土地の所有、占有問題で、農業に携わる資本家を批判します。当然です。土地は、大地であり、地球です。占有や借地しても所有してはいけません。それは、所有が土地を疲弊させるからです。
 ちょこっとだけ、引用しますね。

《アメリカの掠奪農業は全資本主義的野蛮さの産物ではなく、むしろ資本主義的発展の産物なのである。》

《《大土地所有は労働力を、最後の地域ー労働力の自然発生的なエネルギーがそこに避難し、それが諸国民の生命力の再生のための予備ファンドとしてそこで蓄えられる最後の地域ーである農村そのものにおいても破壊する。両者、すなわち大工業と工業的に経営される農業とが手を取り合う。両者をはじめに区別するのが、前者がむしろ労働力、それゆえ人間の自然力を荒廃させ破滅させることであれば、その後の進展においては、両者は手を取り合う。というのは、工業システムは農村でも労働者たちを衰弱させ、工業と商業のほうは農業に土地を疲弊させる諸手段を与えるからである。》》

《マルクスは、この破壊的な過程が資本主義の発展とともに世界的規模で進行するようになることを警告している。》

 南アフリカの沿岸部で採掘できる海鳥の糞や死骸などの堆積物「グアノ」の肥料としての使用や、そのグアノの枯渇の問題を中心に語られているのですが、結構なボリュームなので、この本を買って読んでくださいませ。

 あと、欄外説明にも注目!

《歴史的にみれば、地力疲弊の問題はハーバー・ボッシュ法によってアンモニアの大量生産が可能となり、窒素肥料の生産量が飛躍的に増大することによって「解決」されたといえる。だが、化学肥料への過度の依存は土地を硬化させ、排水性や保湿性を失わせるばかりでなく、害虫による被害を増大させることにもなる。また土壌に残った窒素化合物が環境中に流出することで赤潮を引き起こしたり、硝酸態窒素が環境汚染の原因となったりと、別の環境問題が生じている。なぜならば物質代謝の「亀裂」は修繕されることがなく、せいぜい別の問題へと「移転」されているに過ぎないからだ。同様の亀裂と移転をめぐる問題は、化石燃料やレアメタルといった採掘産業にも当てはまるだろう。価値が人間と自然の物質代謝を考慮することができない以上、持続可能な生産の実現は常に大きな困難に直面する。その限りで、マルクスの価値論と物質代謝論の融合は、資本主義という掠奪のシステムを批判するための方法論的基礎を提供しているのである。》


 そして、【第三部 晩期マルクスの物質代謝論へ】です。これは、斎藤氏が関わるプロジェクトなので、日頃の私たちには分からない内容ですねえ。
 でも、理解、一生懸命しちゃおうっと。

【第五章 エコロジーノートと物質代謝論の新地平】
 前章【第四章 近代農業批判と抜粋ノート】では、農業科学者リービッヒの「掠奪農業」批判から影響を受け、『資本論』にも反映されているのですが、その後、残念ながら『資本論』は未完に終わってるんですよね。
 で、ここでは、リービッヒという人に対して、新たにフラースという人の研究がされておることが語られております。マルクスの抜粋ノートや草稿、自家用本への欄外書き込みから斎藤氏は、その解説をしてくれております。
 リービッヒもフラースも、古代栄えた文明、メソポタミアやエジプト、ギリシャなどの今の荒廃に対し、リービッヒは、肥沃な大地を疲弊させた説を唱えているのに対し、フラースは森林伐採による気候変動と砂漠化を唱えておられます。マルクスは、リービッヒを認めつつも、このフラースの考え方に傾倒していくわけですな。

《フラースは、時折、悲観的な一般化を行うのだった。「草原や森林にもつともはっきりと見られる自然の装飾にとっての最大の敵は、商業と産業を伴った耕作である」
 それに対し、マルクスは、フラースと異なり、人間と自然の持続可能な関係性を構築しようとする。それは将来社会において、アソシエイトした生産者たちが、人間と自然の物質代謝を意識的に制御することで実現されなくてはならない。》

 さすが、悲観主義で終わらない、じゃ、どうすればええんじゃ、それに応える実践者マルクスがおりますねえ。そして、ここには、斎藤氏の提唱する「脱成長」も窺えますぞ。

《1868年以降の研究にもかかわらず、マルクスは『資本論』を完成させることができず、抜粋の成果を草稿に反映させることもほとんどできなかった。だが、1868年のノートには、リービッヒとフラースの論争をきっかけとしたマルクスの問題関心の深化が記録されているだけでなく、1870年代の数多くの抜粋ノートにも、これまで十分に注目されてこなかった「資本主義とエコロジー」という未知の領域がさらに広がっているのである。そのさらなる解明こそが21世紀のマルクス研究にとっての重要な課題となるだろう。》

 まるで、この本を完結するような斎藤氏のお言葉ですが、いや、まだ続きますよ。
 続いては、【第六章 利潤、弾力性、自然】です。

 くどいようですが、『資本論』第2部、第3部は未完であり、その完成形は誰も知らない、わけです。
 ただ、斎藤氏も関わるプロジェクトMEGA第2部門における『資本論』草稿の刊行が2012年に完了したことで、『資本論』の「作者」マルクスと「編集者」エンゲルスの違いを批判的に検討可能になった、そう斎藤氏は語ってられます。
 そして、そんな中、草稿とノートで注目し批判も浴びてるものに、「利潤率」があります。資本家が剰余価値をたくさん得ようとすると、利潤率が低下する、だそうですが。計算式もあります。

大洪水の前に マルクスと惑星の物質代謝04

 これ、よく分かりましぇ~ん。気持ち的には分かるのですが、どんな数字を入れるの?
 ただ、斎藤氏が解説で、うまくフォローしてくれてます。

《まず資本は労働日を延長することで絶対的剰余価値の生産を行うことができるし、機械化を通じて労働強度を高めることもできるだろう。また、生産力の増大は労働力の価値を下げ、相対的剰余価値の生産を可能にする。さらに、生産力の増大は不変資本を廉価にし、資本の有機的構成を下げる。相対的過剰人口の創出も、労働者間の競争を高めることで、労働力の価格を下げ、剰余価値率を上昇させる機能を持つ。》

 これなら分かるよねえ。
 そして、弾力性は、まあ、いいかあ、であります。一番酷いのは、労働者の労働時間と賃金で、いかようにも弾力性ある資本主義が実現される。

 それに対し、自然は、人間みたいに対応してくれません。自然の緩やかな速度があるのです。資本家は労働者に無理を言って、なんとか剰余価値を稼ごうとしますが、自然は、「おねげえしますだ、自然様」と言っても、速度は変えられません。だいたい、自然の速度を変えようとする人間のほうが驕り高ぶりなんです。
 そんなマルクスの『資本論』は未完で書かれていないことが、ここには、草稿とノートで考察され、マルクス批判をする間違い、マルクスを明日の糧にすべきだと書かれています。
 自然に対して、どれだけ配慮してたかが見えてきました。『資本論』は、決してエコロジーをないがしろにしてません。むしろ、先見の明で、エコロジーを無視する資本家に釘を刺しています。

《森林伐採との関連で言えば、マルクスはM・L・ムニエ『フランスの農業』を1865年に読んでいる。『資本論』第3部草稿で利用された箇所では、マルクスがとりわけムニエの土地価格の説明に関心を持っていたかのように見えるが、それだけではない。ムニエはアルプス山脈やピレネー山脈での過度の放牧や森林伐採が地域の気候を変えてしまい、さらには禿山になったせいで洪水が増え、土壌の養分が洗い流されることで地域の農業や生活に破壊的影響がもたらされた事実を指摘しており、該当箇所をマルクスは抜粋していた。》

 おお、「洪水」という言葉、ここにも出てきました。

《同時期に、マルクスの関心は畜産へも拡大していった。1865・66年に、マルクスはレオンス・ド・ラヴェルニュ著『イングランド・スコットランド・アイルランドの農村経済』(1855年)を読んだが、この作品はフランスと比較した際のイングランドの農業の優越性を熱心に説いている。その実例として、ラヴェルニュはイングランドの畜産家ロバート・ベイクウェルが生み出した飼育方法を挙げている。それは「選択の体系」に基づくものでであり、交配と選択によって、羊が早く育ち、より多くの肉をつけることを可能にするというものであった。
 マルクスはこの「改良」についての一連の文章を抜粋した後に、極めて否定的なコメントをつけている。「早熟、全般的に弱々しく、骨の欠如、たくさんの脂肪と肉の発達など。これらすべては人工的な産物である。反吐が出る!」》

 おおお、「反吐!」だげな。すごい。そうそう、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』を思い出しましたねえ。
 この章で、マルクスのエコ社会主義が資本の立場からでなく、持続可能で自由な人間的発展の立場から展開されていることが、よく分かります。
 それなのに、晩年のマルクスは無限の価値増殖への衝動から生じる様々な矛盾を批判し、人間の苦悩を払拭しようとしているのに、彼の意図は理解されず、無視されている。
 これいかん、ことです。私は、勝手に、マルクス批判してる人が、こういう本を読まずに、上っ面だけ『資本論』を読んで、しかも、資本主義社会からの恩恵も受けているのだから、マルクスは21世紀には役に立たない19世紀の思想でしかない、そう言ってるとしか思えませんなあ。
 だいたい、研究家の普遍的態度は、一度凄いと思われる思想を世に出すと、後でまた違っていたと思っても、翻すことができないんですね。マルクスのように、絶えず勉強し、考え方を更新することができない人が多いんですなあ。
 マルクスは、この章で、自らの考え方を絶えず多くの著作を読んで吸収し、新たな学問展開しています。そういうことについていけない、凝り固まった考え方も更新しない研究家が多いから、「マルクスは19世紀で終わり」と言いたいのでしょうが、いかんせん、斎藤氏は、いやいや違うよ、生きてるよ、今一番、生きてるよ、大切な未来をマルクスは語ってる、言っているんです。
 だから、マルクスを批判した人は、この本を読めば、自分の過ちが分かります。 

 では、最後の最終章【第七章 マルクスとエンゲルスの知的関係とエコロジー】に参りましょう。

 そうです。ここで、マルクスとエンゲルスの共著が何だったのか、果たして同じ意見だったのだろうか、です。『共産党宣言』も『資本論』も、共著です。
 でも、この本には、マルクスが作者で、エンゲルスが編集者、そう書かれていますね。
 もしそうなれば、未完の『資本論』、第2部、第3部も実現してませんが、第1部のマルクスの草稿にありながらも、マルクスの死後、エンゲルスによって、その草稿が『資本論』に入れられなかった、可能性がある。実は、これは、既に、第6章と、おそらく第5章でも、あったと推測されます。
 マルクスは、資本主義がもたらす弊害を晩年までもいろいろ研究していたにもかかわらず、エンゲルスは早く出版したいがために、マルクスの草稿の不確かな部分を削除した、そうこの章で推測できます。
 なので、世の中でのマルクス批判は、『共産党宣言』と未完の『資本論』だけで語られておるのです。しかも、ソ連の社会主義や中国の社会主義が、マルクスの共産主義の理想か、という全くお門違いのことを言い出す人たちもいます。
 いいですか、マルクスが理想とした、社会をアソシエイトしていく協働社会コミューンを実現している国家は今は何処にもありません。ロシアも中国も、資本主義国家を国の独占に置き換えた官僚資本主義、しかも独占的官僚資本主義という、封建制度ともいえる社会国家です。マルクスが望んだ社会主義国家とは全く違います。
 エンゲルスは、言い方悪いですが、最後までマルクスが考えていた右往左往している考え方、草稿を無視して、『資本論』を刊行してしまった、それによる、マルクスの読み違いを多くもたらしている、これは間違いないでしょう。
 この最終章で、重要なことが多く語られておりますが、それを知りたければ、「この本、買って読んでね」です。でも、それでも、ここに書きたいことがあります。

《《自由の国は、必要な外的な合目的性に迫られて労働することがなくなるところで、はじめて始まるのである。つまり、それは、当然のこととして、本来の物質的生産の領域のかなたにあるのである。じゆうはこの領域のなかではただ次のことにありうるだけである。すなわち、社会化した人間、アソシエイトした生産者たちが素朴な力としての自分たちと自然との物質代謝によって制御されることをやめて、この物質代謝を合理的に規制し、自分たちの共同的制御のもとに置くということ、つまり、力の最小の消費によって、自分たちの人間本性に最もふさわしく最も適合した条件のもとでこの物質代謝を行うということである。しかし、これはやはりまだ必然性の国である。この国のかなたで、自己目的として認められる人間の力の発展が、真の自由の国が始まるのであるが、しかし、それはただその土台としてのあの必然性の国のうえにのみ花を開くことができるのである。労働日の短縮が土台である。》》

 おおお。

《エンゲルスは自然の諸法則を認識し、それを外界に対して意識的に適用する必要性を解き、法則の認識を通じた自然の支配を「自由の国」とみなしたのだった。だが、ここでのマルクスの力点は明らかに異なっている。マルクスは、際限なき資本の価値増殖による物質代謝の攪乱に直面した生産者たちが問題解決のためにアソシエイトし、自然の「素朴な力」を意識的な管理のもとにおくことを、持続可能な生産にとっての必要条件とみなしていた。自然との物質代謝の意識的な管理なしには、人間そのものの生存が脅かされるからである。しかし、そのような意識的な制御によって実現されるのは、「やはりまだ必然性の国である」。アソシエーションにもとづく新しい社会は自由な個性の発展を実現するとされるが、それは労働の自由を超えたところにあるのだ。労働は生存に必要不可欠であるが、それは人間の活動の一契機にすぎない。「マルクスは資本主義のもとで発展した生産力能を基盤として労働の自由を実現するならば、拡大された自由時間において労働の自由を超えた、真の自由が可能になると考えた」のである(佐々木)。
 マルクスにとっての「自由」は、自然科学の発展に基づく自然との物質代謝の意識的な制御に制限されるものではなく、芸術や音楽などの創作活動に従事し、友情や愛情を育み、読書やスポーツなどの趣味に興じることを含む。それに対して、自然の弁証法にこだわったエンゲルスは、超歴史的な自然そのものにおける諸法則の認識に基づく人間の振る舞いを重視することになり、自然の「支配」がそのままに「自由の国」の実現であると考えた。こうした見方が「自由の国」の内容を狭隘にし、マルクスによって強調される将来社会における「個性」の全面的な発展という契機がエンゲルスにおいては弱められ、むしろ、「必然性に従うことで実現される自由」というヘーゲル的な自由観が前面に押し出されることになったのである。」

 おおお、この解説の通り、静的・受動的・悲観的なエンゲルスに対し、マルクスは、いかに動的・能動的・進歩的であることか。

 以上で、おしまいです。
 そして、「あとがき」の最後にある宮澤賢治の言葉.

《「新たな時代のマルクスよ/これらの盲目な衝動から動く世界を/素晴らしく美しい構成に変へよ」》

 驚きました。思わず、拍手です。

 そして、この文庫本には、単行本にない、ジジェクさんの解説があります。ジジェクと言えば、「別冊NHK100分de名著パンデミックを超えて」で斎藤幸平氏が「グローバル資本主義の限界(ジジェク『パンデミック』『パンデミック2』を読む)で、素晴らしいお話を拝聴した方です。
 ただ、この解説の内容については、あえて、触れないでおきましょう。ちょっと本書の内容を吟味する脳味噌とは違う脳味噌が必要になり、混乱を招くかもしれませんので。知りたい方は、本文庫をお買い求めください。

ーーーーーーーーーーー

 さて、私たち、今を生きている人たちは、資本主義しか知りません。そして、共産主義というと、旧ソ連(今のロシアもそうですが)や中国(かつての毛沢東の時代でなく今も)だと思う人が絶対多数だと思います。でも、マルクスが描いた共産主義は、いまだ、何処の国にも存在しません。ロシアも中国も、資本主義に対して、官僚主義、しかも独裁的官僚主義国家なのです。マルクスの理論を利用して、レーニンからスターリンへ。それがロシアであり、中国です。これは国が官僚が、国民を支配するために、マルクスの共産党宣言に倣っただけであり、今マルクスが生きていれば、ここに、描かれた彼の考え方からすれば、彼は、ソ連も中国も、最も最悪の国家として批判し続けるでしょう。
 資本主義からどう変革するか、一番の理想は自治体レベルでコミューンを形成することだと思います。いきなり資本家を解体することはできません。地域で生産と消費のシステムを導入し地域とともに生きるコミューンを形成する。コープですね。そして、英オックスフォード大学の経済学者ケイト・ラワース氏が2011年に提唱した、成長しなくても繫栄できるドーナツ経済を目指す。
 ひょっとすると、先に上げた『ル・ボン群衆心理』に書かれてるパリ・コミューンは、その走りかもしれません。そして、今、バルセロナがそうかもしれません。

 振り返りですが、実は、高校時代に『共産党宣言』を読んで、なんとなく、かぶれそうになったら、周りになんと、「類は友を呼ぶ」のか、「赤旗とってよ」とか「歌声喫茶に来てヨ(行きましたが)」、そんな民主青年同盟の人が結構いました。それはそれで、いいのですが、私は当時、マルクスよりもサルトルにカブレ始めてたので、マルクスとは決別しました。というよりも、民青の人たちと話してても、どうもピンと来ない。自分の考え、あるのかな、洗脳されているだけじゃないのかな、日本共産党に。そう思えて仕方がなかったのです。いわゆるル・ボンの「群衆心理」に冒された人たち(?)ではなかろうか(ごめんなさいね)。

 この本を読んで、そういう私のスタンスが間違ってはいなかった。確信しました。マルクスも共産党宣をしながら、その時の考え方からどんどん変わっていきます。
 たえず研究し、新たな視座に立って、自分の生き方を試行錯誤する。そんな途中で、マルクスの『資本論』は未完に終わっただけです。
 マルクスは凄い人で、当時、脚光も浴びながらも、多くの人に叩かれたと思います。あれです。「出る釘は打たれる」です。いつの時も、自分が何もできないと、出てくる釘を打つ人がたくさんいます。可哀そうな人たちです。だから、逆に打たれる人は、ありがとう、生きている証拠です。
 周りには専門馬鹿が多いのでしょう。「マルクスは、生涯にかけて、哲学、経済学、歴史学、政治学のみならず、自然科学までも学ぼうとした」のであり、我々も、そんなマルクスのように、明日へ道を模索し歩んでいかねばなりません。 
 そんなマルクスに対する、間違いを正しながら、マルクスが明日の世界を滅ばない方へ導いてくれるかもしれない、それが、この本です。
 難しかったあ。でも、一生懸命、理解しました。斎藤氏の多くの著作を読んでおいたから、理解する難しさを軽減してもくれました。
 ありがとうございました。読破できたこと、感謝です。


大洪水の前に マルクスと惑星の物質代謝 posted by (C)shisyun


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