日米和親条約 墨夷応接録(森田健司著)を読んで | OH!江戸パパ

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日米和親条約はペリーの記録が通説となっています。日本側の応接係の林復斎の記録は一般的ではありませんが、墨夷応接録(ぼくいおうせつろく)として残っていて現代語訳もされています。今回は現代語訳 墨夷応接録 (森田健司著)の感想文です。

 

 

ペリーはアメリカでは実はさほど有名ではなく、むしろお兄さんのオリバー・ハザード・ペリーが米英戦争の英雄として有名です。またペリーは一般的には提督と言われますが当時は海軍に提督という階級はもともと無く海軍代将(コモドー)が正解です。「泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も眠れず」蒸気船はじつは2台であとの2台は帆船です。突然黒船が浦賀に現れたイメージがありますが日本は事前にオランダより、アメリカや諸外国が開国を求めていることやアメリカが日本に来ることはわかっていました。そのころはすでに現実的では無い異国船打払令は廃止され薪水給与令に代わっていました。時の政府は将軍徳川家慶から徳川家定。老中は阿部正弘。この頃の幕府は阿部正弘が取り仕切っていました。

 

外国船打払令・・1825年発令、異国船は見つけ次第砲撃して追い払う。

薪水給与令・・1842年発令、遭難した外国船に対して薪と水を与えて穏便に出国させる。これはアヘン戦争により清がイギリスに叩きのめされ、危機感を覚えたためである。

 

マシュー・カルブレイス・ペリー(1794年~1858年)海軍蒸気船の父、東インド艦隊司令長官、アメリカ合衆国ミラード・フィルモア大統領の親書を持って日本に来ます。2回目に来た時に日米和親条約が締結されるのですが、ペリーは1回目に来た時には要求の無かった通商についても言及します、日本側の代表(応接係)に論破されしぶしぶこの件は取り下げます。その後は開港・上陸港の数や自由行動範囲を広げてなしくずし的に通商を初めてしまおうと日本側代表に仕掛けてきますが満足するような成果はあげられませんでした。貿易・通商を開国とするならば、ペリーは開港には成功したが開国まではいかなったと言えるでしょう。

 

1853年7月8日・・浦賀入港

1853年7月14日・・久里浜上陸し親書を渡し1年後に再度来日すると予告

1854年2月13日・・予告より早く来日

1854年3月31日・・神奈川で日米和親条約を調印

 

日米和親条約の主な内容を簡単に・・

 

①永世不朽の和親

 

②下田、函館の開港、薪水、食料、石炭の提供

 

③漂流民の保護

 

④漂流民、渡航者の自由の確保、拘禁されないようにする。

 

⑤下田・函館の自由行動範囲(下田は小島から七里四方)

 

⑥その他の希望は合議の上に取り決める。

 

⑦下田・函館で必要な品物は金貨・銀貨・物々交換で調達することを許可する。

 

⑧薪水・食料・石炭その他欠乏品は現地の役人に頼む

 

⑨アメリカ人以外の外国人に今後許可した事は交渉無しでアメリカ人も許可する。

 

⑩アメリカ船は悪天候など緊急時を除き下田・函館以外には寄港しない。

 

⑪両国で必要性が認められた場合、アメリカは下田に役人を駐在させる。

 

⑫本条約を両国民は固く守る、調印より18ヶ月後に天皇が認証して批准する。

この日米和親条約の後に細部を調整して下田追加条約も締結される。

 

日米和親条約会議の模様

 

林復斎はペリーの話の矛盾点や、国法を盾に無理難題を押し付けるペリーを悉く退けています。ペリーは当初の要求には無かった貿易の話や、開港の場所を多く要求したり、自由行動ができる範囲を広範囲に広げようとします。これを貿易の話は当初に話が無かった為に今更すぐに検討できないと突っぱね、開港の場所は2港に抑え、自由行動の範囲も制限します。

その代わり薪水給与は許可し、漂流民の保護や埋葬では譲歩します。ほとんどが林復斎の日本側のペースで会談は進んでいます。日本側は従来の薪水給与令の延長線上である和親で話を無難にまとめ、ペリーにしては交渉は満足のいくものではなかったでしょう。異文化の壁を越えられなかったとも言えます。

 

ペリー滞在時のこぼれ話

 

★伊澤美作守が扇子をたたむとバーンと大きな音がしました。アメリカ人は驚愕して一斉に小銃に手をかけ臨戦態勢をとった。美作守は悠然と懐から眼鏡を出してアメリカ人が渡した名刺を読みだした。これは最初の面会時の様子です。双方かなりの緊張感の中でこれで緊張がほぐれたようです。

 

★ペリーの恫喝・・会談が決裂した場合、戦争の用意をしている。近海に軍艦50隻、カリフォルニアに50隻、20日以内に百隻集結させる。なにかと言うと江戸に乗り込むぞ!と脅してかかります。日本側が江戸に乗り込まれるのを一番恐れているのを熟知しています。実際に江戸に行けば戦争になり交渉どころではなくなり一番困るのはペリーです。

 

★ペリーは貿易の話を持ち出すと前回来た時に話が無かったと林復斎に突っぱねられる。あきらめの悪いペリーは清国とアメリカの条約の冊子を一度読んで参考にしてほしいと手渡す。まるで使えないセールスマンが契約交渉に失敗してカタログだけでも読んでくださいと泣きを入れる場面のようです。これ以降は開港地や自由行動範囲の拡大に心血をそそぐ。これにより通商では無く和親で治めることに日本は成功した。

 

★伊豆韮山代官、江川太郎左衛門が60人を引き連れて応接所の警護をしたいと申し出る。交渉が決裂した場合は江戸で戦争が起こる可能性がある為に、自分たちが討ち死にしても江戸警護優先してほしい為に断る。応接係や警護の者は全員死も覚悟していました。

 

★アメリカ人従軍牧師が上陸して寺見物をした後に江戸へ行こうとした。ペリーが大砲を四発ほど発射して呼び戻した。これは後日寺に漢文の聖書が置いてあったとひと悶着があったがこの牧師ではないかと思います。この牧師は宣教師のような事がしたかったのではないでしょうか。

 

★米をアメリカ人に渡す際に相撲取りに担がせた、余興として稽古相撲を見せた。ペリーには相撲は不評で醜悪なものを見せられたように報告している。

 

★条約に使った筆をポートマンが欲しがった。筆一本を差し出すと躍り上がって喜んだ。筆自体が珍しくてほしかったのか?条約を結んだ記念品としてほしかったのか、かなりの喜んでた様子だ。

 

★どうしても江戸に行きたいペリーは大師河原沖に至り遠眼鏡で江戸を見て部下にも見せ江戸を見た事にした。

 

★下田追加条約時のこぼれ話・・ペリーはワシントン石塔に日本国の石を欲しいと要求したので、海岸の石を進呈した。

 

★朝夕の祝砲で漁ができないと苦情がきてる祝砲は止めてほしいと通達すると祝砲は発射されなくなった。

 

★林復斎は密航者を阻止したことでペリーにお礼を述べている。吉田寅次郎と金子重之輔がアメリカに連れて行ってくれと頼んだが断った。ペリーが明治まで生き残っていたらどう思っただろうか、ペリーは後日この二人を知識欲のある日本人として評価している。

 

★アメリカ人士官が下田の波止場で武士に指輪を盗まれる。指輪を見せてほしいと言うのではずして見せるとそのまま逃げて行った。

 

★アメリカ人が上陸した際に鳥を撃った事を林復斎が詰問したところペリーは周囲に聞いて困っていた。どうも顔を赤らめているベントが犯人と分かったようだ。ペリーは些細な事を取り上げ詰問されては即答できないと逆切れする。

 

★今度はアメリカ人が酩酊して羽織を借用し持ち去る事件が起きる。指輪の件もあり厳しく追及できないでいると、そのうちに返却されていた。

 

★ペリーより函館上陸を強要され勘定の松村正郎と支配勘定の力石勝之助が断るとペリーの息子が身分が低い物は引っ込めと口をはさんだ。その後、結局は無許可で函館に上陸した事が露見する。ペリーは無許可で上陸したのが露見するのは早すぎる蒸気船が作られているのかと言うと林復斎は飛脚がいる話をするとペリーは大きく息をして意気消沈した。

 

★アメリカ人が聖書を寺院に置いていき、林復斎が国法により焼き捨てると言うとペリーは立腹して焼き捨てた場合は江戸に談判に行くと言う。この聖書は前述の牧師が徘徊した時の物ではないかと推測します。キリスト教禁止令は長く続き明治になっても継続します。私は大学でほとんどが優を取り成績優秀だったのに、必須科目のキリスト教学の論文でほんの一行ほど奇跡の部分に疑惑を抱いていると少し書き足したら不可になり留年しました。おかげで就職難の時代に多大なハンデとなりました。

 

★アメリカ船の下級士官たちが酒店に行き自分達で栓を抜き酩酊状態になった。さすが西部劇の国です。

 

★ペリー艦隊の日本人漂流民(サムパッチ)に帰国の意思を尋ねると頑なに断った。日本人の役人を恐れて話すこともできずひれ伏していた。

 

井伊直弼の開国・・1858年大老に就任すると将軍継嗣問題を終わらせ、すぐに無許可で勅許無しでタウンゼント・ハリスと日米修好通商条約を締結する。