鳥取藩 幕末古文書 パレンバン号 | OH!江戸パパ

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江戸時代末期、突然ペリー率いる黒船が来航して国交を迫ったと思われていますが、かなり前から阿蘭陀より各国の動向を調べて報告されていました。オランダ国王ウィレム2世は天保15年7月軍船パレンバン号を遣わして文書による開国勧告をしています。ここに一通の古文書があります。どのようにして長崎から鳥取藩にパレンバン号の情報が伝搬したのかを調べたいと思います。古文書アプリ【みを】を駆使してわかる範囲で解読しました。アプリの誤訳も多いです。鳥取県のデジタルコレクション【家老日記】を閲覧すると天保15年7月の日記の中に大坂御留守居中野良助より別紙をもって報告があった記事があります。

 

 

「天保15年7月中 本国船長崎着船書付 河原田 松村三益」

 

解説・・河原田は地名で松村三益は鳥取藩士と思われます。この書を写本として写し保管していたのではないかと思います。報告書の原本の可能性もありますがわかりません。

当時は将軍は徳川家慶で老中は阿部正弘でした。1844年にオランダよりウィレム2世の親書を持ってパレンバン号は長崎に来港しました。鍋島直正は停泊中のパレンバン号に乗り込みオランダ人のもてなしを受けたり、軍船の装備や武器を視察しています。また同時に乗船した古川松根に軍船や乗組員の詳細な絵図や文章による記録を残しました。開明的な佐賀藩主により日本の近代化は薩摩や福岡より早く佐賀藩から始まりました。鍋島直正は、公武合体派、幕府、朝廷の呼びかけに病気を理由に応じず。最後の最後まで態度を決めず、不気味な存在となり肥前の妖怪と言われました。武装中立の挙句、鳥羽伏見の戦いの後にようやく動き戊辰戦争から新政府軍に参加しました。これには海防に関する先代藩主のしくじりが影響しているかと思います。(フェートン号事件)

 

本文の1ページ目です。右下あたりに由来らしき書き込みがあります。「国主 鳥取城主三十二万五千石 松平十三代因幡守慶行の臣 鳥取藩士松村▢▢治(旧名寛爾)▢久の長男 殿の寄贈ナリ・・」次に本文の内容を解読していきますがわからない文字が多く▢が多くなると思いますが前後の文字で推測してください。

 

「一、六月十二日に入津阿蘭陀船より申上げ候は国王より日本国王へ棒書▢御制事御為に相成り候義申上げ候別段本国船一艘仕出し七月二日迄に当港に入船仕候積り右船は商売に無く▢本国軍船▢▢斗乗組み出船仕船候段▢留地王かぴたん▢▢▢▢▢段申上げ候▢▢御奉行より長崎御番肥前守様始め近国御大名へ御掛合いに相成り候所早速国々早打ち参り御帰」

 

以上がこのページの解読文です、合っているかはわかりませんがアプリだけでここまでわかりました。意味は6月12日に入港したオランダ船から、オランダ国王より将軍へ政治に関する親書を持って、7月2日までにオランダ軍船がこの港に来港すると商館長から長崎奉行に報告があり長崎警護の佐賀藩鍋島直正始め近国の大名へ急報した。

 

3~4P目「御手当有之候処当月二日御也刻右船往進未の刻神崎へ碇降ろし但し神崎は長崎港入舟に▢壱面有りし▢繁▢し御▢▢」

「一、阿蘭陀本国辰年正月海より出し▢▢▢・・・七日出航帆日本へ七月二日入津但し七月二日迄に参り候の段申上げ候処丁度日限通り ▢船仕▢但し乗組人数三百弐拾人」

「一、右本国船長さ三拾七間巾拾七間表ヤリ▢シ▢▢マトシ紐(剱?)持人形是迄之船下て違軍船造大石火矢三拾六丁二段に備但し三貫目筒也斤目▢▢▢百斤余り此斤目是石火矢根形付有之長さ壱間余り抱ききり不申▢▢」

「一、弐貫目壱貫目筒弐百挺余紐(剱?)付鉄砲三百挺斧槍数不知備え船縁失清外回り鉄厚張内に絹大袋三重に押込有此厚さ三尺」

「一、帆木綿▢▢切幕長壱間半巾三尺船より外へ中に釣り三段掛け候様に拵え有之候」

「一、船上段大筒小筒釼付鉄砲槍斧▢玉葉飾立中段同断下段同断焔硝製揚底に兵▢▢▢▢積り有」

「端船大小共六艘外に葦船囲い有之候」

 

解説・・パレンバン号は7月2日に長崎入港します。乗組員は320人。船の装備やサイズが書かれています。全長約67mで巾は約31mとあります。武器では大石火矢36挺2段に備え、一貫目(3.75㎏の玉)二貫目の玉(7.5㎏の玉)の火砲が二百挺余り有り。剣付鉄砲が三百挺、斧槍数知れず。所々読めませんがかねての連絡通りに入港したパレンバン号の様子について詳しく書かれています。これらの情報はオランダ船より報告があったのか、乗り込んで調べたのかはわかりませんが長年の友好国でなければできません。

 

 

「一、船惣大将壱人使節壱人軍大将壱人その外兵糧係の大将分拾四人頭分は衣束片に金糸房付帯紐水主也外も帯紐」

「一、石火矢壱挺に五人掛り港引入繋祝儀早打放し見事出来候一切也合図笛に太鼓」

「一、此度右船礼儀志御検使御乗船之節目境方より遠見眼鏡を以て見る合図之笛吹太鼓持釼付鉄砲持両方へ▢検使御上がり太鼓をならし鉄砲の先紐を▢▢▢打かね小弓二つへ笛太鼓にて音楽有此合図居間出る対面の前に両人大剣を抜き船縁を廻り居▢御帰りの節も右同断丁寧成る事に候」

「一、玉茶武器頭義申候ゆへ▢▢▢▢候より肥前守様御出之上御預かり無候て湊へ引入相成七月七日に引入申候端船より出し▢へ替り替わりに上陸致し候」

「一、右船要害厳敷用言に打取候事出来▢申候船は本国に▢も三艘之内壱艘之軍船▢▢▢▢弐度出候▢船の中▢▢御座候」

「一、書翰之義は国王よりの義付江戸より御名代御出之上相渡し可申段申候依之江戸伺之上に▢▢居申候」

 

解説・・・

 

諸家御大名様方台場陣屋御備昼夜誠に見事に御座候二日より七日まで兵表に通り▢▢▢▢は隠し台場有之申候」

右の通荒に申上候いと居七月従長崎参り申候

 

解説・・諸家大名様方は台場陣屋において昼夜見事に警備して二日より七日まで・・・

 

解説・・解読中

オランダ国王ウィレム2世の日本を取り巻く諸外国の動向からの開国勧告の親書については幕府により黙殺されました。オランダは通商はあっても通信(国交)はない為、従来の国法に従い開国についての議論すらされませんでした。幕府の政治が硬直化していたと言わざるを得ません。その後は幕府の諸外国に対する対応が後手後手になり関税等の不平等条約を結ばされてしまいます。