まずホドロフスキーの監督作品であること。それが前提で観てしまう。特に最近「DUNE」を観ているとなおさら。もちろん、全く白紙で観る観客もいるだろうけど、もはや自分はそういう状態には戻れないので、“あの”ホドロフスキーの新作として観る。そうすると、一見突拍子もない描写、例えば幼い自分の横に現在の自分が立ち、「お前はやがて私になるのだ」と語る場面などがスッスッと抵抗無く心に入ってきて(しかも「これは“野いちご”っぽいよね」などと邪念を感じることもなく)、すごく分かりやすい。こういう立場に自分を持ってきたホドロフスキーがまずすごい。すごくてズルい。うらやましい。

 そうなると、母親の台詞のみが全編歌であっても、当然のように体の一部が欠損した人々が出てきて情け容赦なく蹴り飛ばされても、性器丸出しでも一切ボカシが入らなくても(これは上映会場であるUPLINK独自のレイティングだが)、「ホドロフスキーの映画なら何が起きてもおかしくない」と思えてしまう。ちょっと思考停止気味だが、それが心地よいなら文句を言う筋合いでもない。

 それにしても、突然大きな波が少年を襲い、打ち上げられた大量の魚に鳥が群がるシーンあたりから妙なノスタルジアに襲われて、なんとホドロフスキーの映画で泣きそうになってしまった。ラストの立て看板、ボートで死神の後ろに姿を隠す監督自身にも心を揺すぶられる。よくよく注意すると、感動の源はどこかパクリっぽい音楽にもあるようだが、これがまた家族総動員で映画を作るアレハンドロ・ホドロフスキー監督らしく、息子アダンが作曲を担当している。この自己完結。

 「ホドロフスキーのアマルコルド」という評価をどこかで見かけた。「アマルコルド」とはフェリーニ監督が自分の少年期の思い出をおそらくは大幅に脚色して、しかし万人の胸に懐かしさを掻き立てるような描写で映像化した作品。確かにそれに似たところがある。母親がフェリーニが好みそうな豊満な大女であったり、ファシズムの描写があったり(ただし「アマルコルド」の主人公はまだその後の歴史的な経緯など知らず、ムッソリーニ万歳の立場)、サーカスや道化師の登場など。しかし、今更フェリーニとの類似を取り沙汰することもない。ホドロフスキーの代表作である「エル・トポ」(1969)自体が「世にも怪奇な物語」(1967)のフェリーニ担当の一挿話「悪魔の首飾り」で語られる「荒野に現れるキリストをガンマンとして描いた冒涜的とも言える西部劇」の実現にしか思えないからだ。ラストシーンなどは、フェリーニというより、生前「エル・トポ」を賞賛していた寺山修司の映画や舞台のようだ。フランク・ハーバートのあまりにも有名な原作がありながら、「読んでいないけど映画化を決めた」「原作はレイプしてもいい」などと悪ぶるホドロフスキーにネタ元がどうこう言っても始まらないだろう。仮に盗作をしたとしても、それはホドロフスキーの烙印が明確に押された、まったく独自の作品になってしまうだろう。例えとしては変だが、絵の下手くそなおばさんが修復したキリストの画みたいなもんだ。

 初めはオールバックの髪型で共産国の独裁者然として現れる父のハイメ(これまた監督の息子のブロンティス)が、後半大統領暗殺に失敗し、どんどんヒッピーやキリストのような姿になっていくが、その顔がどこかで見た俳優にそっくりな気がして、でもそれが誰なのか思い出せず、気になって仕方なかった。なんとなくモンティパイソンでマイケル・ペイリンが演じたイッツマンみたいでもあり、でもやはり別の人を思い出させるようであり…。般若心経(映画を観ている時には気がつかなかったが「ギャーテー、ギャーテー、ハラギャーテー」と確かに唱えている)を幼いアレハンドロに教える半裸の行者(これも息子のクリストバル。いったい何人息子=監督の分身がいるんだ!)が「プロスペローの本」に出演した舞踏家マイケル・クラークを思わせたりとか、観る者にとっても、まさに記憶の宝箱、オモチャの缶詰。記憶していることこそが「リアル」だとしたら、現実は脇に置いて、これはまさに「リアリティのダンス」。観客は映像に身を任せ、観終わったらとっとと忘れてもいい。そういう映画だ。

 ただし、恒例のグロテスクな描写は当然のように出てくるので、苦手な人は受け付けないだろう。それにしても、母親のクールベが描く裸婦のようなたるみきった身体や、その身体を息子と二人、靴墨で塗りたくり、夜の闇に溶け込む場面の詩的な美しさはどうだ。思い出がポロポロと蘇るように、映画のあんなシーンやこんなシーンが、書きながらも次々に浮かんでくる。




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