四万十市の坂本龍馬の居眠り堤跡看板 | 次世代に遺したい自然や史跡

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毎年WEB初公開となる無名伝承地や史跡、マイナーな景勝・奇勝を発表。戦争遺跡や鉄道関連、坂本龍馬等の偉人のマイナー伝承地も。学芸員資格を持つ元高知新聞主管講座講師が解説。

<実際の跡地ではないがファンは是非>

以前、坂本龍馬が16歳時の嘉永3年、四万十市・赤鉄橋の上流右岸の堤普請の現場監督補佐として着任していた際、堤にあった並松という松林で昼寝をしていたことや、そのもたれかかっていた松が後に「龍馬昼寝の松」と呼ばれるようになったことを何度か述べた。

 

また、2016年、そこより上流の入田にある桜づつみ公園内に、地元の龍馬会がこの伝承に関する看板を設置したことも紹介した。その看板を先日確認してきた。場所は並松(大正期まであった)跡よりかなり上流ではあるが、龍馬ファンにとっては、記念写真を撮りたくなるだろう。

が、道中、公園の方向を示す道標は皆無。道標がないということは、桜づつみ公園については、駐車場の関係なのか分からないが、花見時期は、地域住民以外は歓迎していないのかも知れない。但し、タクシーや公共交通機関利用者は歓迎されるものと思う。

 

 

アクセスの起点は赤鉄橋(四万十橋)西袂の交差点。ここを北に折れる。堤防下に見える広大な広場(古い住宅地図には「サッカー場」と記されている)の四万十川側が並松跡(龍馬昼寝の松跡)である。その北の「四万十キャンプ場」も並松跡に辛うじて含まれるかも知れない。

アクセスの解説に戻るが、車はすぐ堤防の西下の道路を進むことになる。この道路はやがて前方左に逸れ、すぐの三差路(変形四差路だったかも)を北西の狭い道路に右折する。

 

 

記憶にはないが、10数年前の住宅地図に於いては、角に碑のある四差路に到ると、ここも右折して西進する。すると現在、ほどなくして右手に仮設トイレが現れる。その横に駐車する。

本来の桜づつみ公園の駐車場とトイレはこのすぐ先にあるが、樋門工事により、使用禁止になっている。アクセスを文章で綴るとややこしくなるが、要は、四万十川の堤防の西に並行する道路を選んで進む、ということ。

 

 

樋門工事現場の西側の堤防に東屋が見えているが、この側に龍馬の看板がある。本来の桜づつみ公園の駐車場の北西に当たる。

看板の表側には、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」中に登場する、龍馬の現場監督補佐の模様を紹介し、裏側には、維新土佐勤皇史や昔の地元新聞に紹介された龍馬の現場監督補佐に関する記述を掲載している。

 

 

なぜかブログ内検索には10年以上前の記事はヒットし辛くなっているが、当ブログでは龍馬の現場監督補佐に関する記事は何度も投稿している。

看板では「龍馬の居眠り堤跡」としており、龍馬は松林の木陰で居眠りをしていた旨、記載しているが、当方が採集した伝承は、並松の中の特定の木にもたれかかり、昼寝をしていた、というもの。

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看板では維新土佐勤皇史の記述を引用し、龍馬は島某の補佐として具同村に出張してきた旨、記述しているが、この「島某」とは過去、説明したように、龍馬の父の友人、島文左衛門のこと。龍馬は島と共に着任の際、幡多郡奉行所に行ったであろうことも述べた。→坂本龍馬が訪れた幡多郡奉行所

 

尚、この時、龍馬は奉行所で樋口真吉と出会った旨、主張する者もいるが、前記の記事で解説したように、真吉が奉行所に勤務するのは嘉永7年からである。

 

 

残念ながら、中村(四万十市中心街)の各志士の邸宅跡等の写真は以前触れたように、SDが故障しており、殆ど見られなくなっている。

龍馬ファンなら是非、本当の並松跡と桜づつみ公園の看板を訪問されよ。

中村の各志士の史跡と合わせて巡りたい、という方は下のバナーを是非。

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