三.
(なんか本当に喋り過ぎちゃったかな?)
先生どうするのだろうと花音は思った。もし自分が警察に捕まったら母はどう思うだろう。私のことを怖いと思うだろうか。なんかあの母はそれを聞いても動じないのではないか、そんな風に花音は感じる。死んだ母だったら絶対に笑った。あの人は自分が死ぬと分かっていても笑ったのだから。花音だったらどうだろ、自分がこれから死ぬって分かったらどうするんだろう?産みの母みたいに笑うだろうか。
(それはないか…)
なんかどうでもいい気がする。多分、泣きも笑いもしない。そういう感情はいざという時ほどでない気がする。やっぱり普通じゃないのかも知れない。もし花音が普通の母親に育てられていたら、普通の家庭に育てられていたとしたら変わっていたのだろうか。などと思って花音は思わず苦笑した。
(普通って…)
普通が何かなんて分からないと思っていたのに、普通だったらなんて思うのはおかしな話だ。
「ねえ、お母さん」
「どうかしたの、花音ちゃん」
「私ね、人を殺した事があるの」
そう言って花音が微笑むと母は一瞬、驚いた顔をしたがすぐに笑顔になった。信じてないのかな、と思った。そりゃあこんな話、すぐには信じないか。
「そうなの」
「驚かないの?」
「凄く驚いてるわよ」
「全然驚いてるように見えない。でも考えてみたらお母さんが驚いてるところってあんまり見た事ない気がする」
「あら、お母さんだって驚くことあるわよ。でもねえ…」
「私の言った事信じてない?人を殺したなんて」
「うーん。それもよく分からない。絶対にないとも言えない。お母さんは花音ちゃんじゃないから」
やっぱりこの母は普通と違う、なんて思う。
(あ、また普通だ)
そう思った瞬間に思わず笑みがこぼれた。
「もしかしたら警察に捕まるかもだよ。娘が警察に捕まったら困るでしょ?」
「そうね。それは困るわ。もう花音ちゃんと一緒にいられないのはすごく寂しいもの。花音ちゃんは私の大事な娘だから」
「もっと大変な事になるよ」
「大変な事って?」
「だって、殺人だよ。殺人犯の家族ってきっと生きにくいよ。私まだ高校生だし、そんな事が世間に知れたらきっと親は叩かれるよ」
「そう言われればそうかもね」
「今の時代、人を叩くのが趣味みたいな人いるから」
「花音ちゃんっていつも大人みたいなこと言うのね」
「私、もう高校生だよ」
「そうだったわね。いつまでもあなたがやってきたときの小学生のままのような気がして。でもあなたは私の娘よ。例え世界中の人があなたを非難して敵に回っても私は花音ちゃんの味方よ。それだけは変わらない」
「え…?」
今、一瞬、ドクンと心臓が波打ったような気がした。
「味方…?私の?」
「当たり前じゃない。母親なんだから」
事もなげにそう言ってのける母に胸がざわつくのを花音は感じた。
(何…?)
感じた事のない感情が胸の中で渦を巻いている。頭の中に幼い頃の光景がフラッシュバックする。母がいなくてお腹が空いて、心細くて部屋の片隅で膝を抱えて座っていた自分の姿。母に怒られてお風呂の冷水シャワーを浴びせられて泣いている自分の姿、いつも母のご機嫌を損ねないようにビクビクしていた事。ずっと心のどこかで他人の出来事のように思っていた。でもあれは紛れもなく花音自身なのだ。怖い、寂しい、苦しい――そんな感情は自分の中にはないと思っていた。本当にそんな感情はとっくに忘れていた。なのに今、あの時の不安が胸を過る。
「どうかしたの?」
「あ…ううん。何でもない…」
今のは何だったのだろう。心が揺れる。
「お母さんって凄いね」
「そう?じゃあ花音ちゃんはどんなお母さんになるのかしらね?」
「お母さん?私が…?」
自分が母親になる日が来るなんて考えた事がない。それこそまるで想像できない世界だ。
「それはないと思うな」
「あら、どうして?」
「私、お母さんには向いてないもん。多分、結婚もしないよ」
「どうして?私、花音ちゃんのお嫁さん姿を見てみたいなあ。花音ちゃんってスラッとしてて背も高いからきっとウエディングドレス似合うと思うわよ」
「全然想像できないよ」
「まあ、まだ高校生だものね。それに今時絶対に結婚しなければいけないなんて事もないし。お母さんもたまに後悔する事あるもの」
「お父さんと結婚した事?」
「それはないわ」
「じゃあ…」
と言いかけて花音は言葉を飲んだ。母の前の夫はあの山下岳だ。あ、でも待てよ、母はその前にも結婚経験があるはず。確か今の父とは三度目の結婚だと言っていたように思う。
(あれ、違ったかな?一度目は結婚してない事になっていたとか言ってたような…)
何だかややこしい、母の人生もそこそこ波乱に富んでいるように思う。母自身は全然気にしていないようだが。
「でもね、人生って何が起こっても何とかなるものだから」
「なんかお母さんが言うと深みあるよ」
「そう?お母さんなんて平凡なだけの人生だけどね」
そう思っているところがあなたの普通ではないところだよ、って花音は言いたくなる。そしてこの人が母親で良かったとまた思う。