平和を愛する世界人となるために

平和を愛する世界人となるために

文鮮明氏自叙伝『平和を愛する世界人として』に触発され、文鮮明氏のみ言を実践し、実現するために何かをしたいと思い立ち、このブログを立ち上げました。

いろいろな記事を投稿しつつ、自分の活動等を報告させていただきたいと思っております。

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宗教と迫害

今までの宗教の歴史を見てきたとき、次の時代を作るような力ある宗教が出てくると、その宗教または教祖は、必ずと言っていいほど迫害を受けてきました。

イエスキリスト然り、釈迦牟尼然り、日本では日蓮上人も迫害されました。

新しい真理をもたらした新しい宗教、そしてその教祖は、次の新しい時代を作る力があるだけに、既得権益を持った、その時代の中心宗教によって、必ず迫害されるようになっています。

逆に言えば、次の時代を作る力を持たない宗教であれば、全く脅威を感じませんから、決して迫害など受けることもないのです。


身近な分かりやすい例をあげると統一教会への迫害があります。

文先生の路程を見ると、日本において、韓国において、アメリカにおいて、行く先々で迫害を受け、生涯6度も牢獄に捕らえられてきました。

その迫害を行った張本人は、当時、既に既得権益持っていたキリスト教が中心でした。

自らの存在が脅かされかねないとして、文先生を脅威に感じ、ありとあらゆる手段を使って迫害を加えてきました。

それはあたかも2000年前、イエスキリストが受けた迫害と全く同じものでした。

そのイエスも、自らを迎えるべくして長い年月をかけ神様が用意された、神の選民たちによって迫害を受けてしまいました。

常に新しい真理が現れると、古い真理を信奉する人たちによって、迫害を受けるようになります。


このような構図を、私たちは原理を通じ、文先生のみ言を通じ、嫌というほど教育されてきました。

そして自分たちが立たされた立場を、迫害を受ける、新しい真理の側に置いて考えるのが癖となっていました。

しかし本当に、今の自分は迫害する側ではなく、迫害される側なのかどうかを考える必要があるのではないでしょうか?


その構図を今日の統一教会に当てはめて考えてみることにしましょう。

統一教会でも現在は、既得権益を得ている人たちと、新しい真理を語る人たちとに分かれています。

既得権益を守ろうとする人たちは情報を統制し、新しい真理に一般の教会員たちが触れることを阻止します。

それはあたかも戦前大日本帝国の大本営のようであり、ソ連共産主義下での共産国家群のようであり、現在の北朝鮮や中国と同じような情報統制を行っています。

自分たちの既得権益を守るのに汲々とするだけで、本来の世界平和だとか、神様の願いの創造本然の世界を一日も早く迎えたいだとかいう思いは感じられず、何のための信仰なのか方向性さえも失われてしまいました。

そこに神様は存在するのでしょうか?

神様の話自体聞かなくなって久しいような気がします。

自分たちの拠り所である教会組織を守るのに必死で、神様の願いに生きるだとか、文先生の願いに生きるだとかいう発想さえも失われてしまったように思われます。

献金のため摂理という言葉は今もよく使われますが、今の摂理とは何なのかわかっている人は誰もいないのではないでしょうか?

そのため、文先生の伝統を守ろう、文先生に帰ろうという亨進様の主張さえも、今の組織を守るためには異端として、非原理的存在と定義され、ありとあらゆる手段を使って攻撃されているように感じます。

何をそんなに恐れているのでしょうか?

何も持たずに教会を追い出され、アメリカの片田舎でひっそりと暮らしていた亨進様の言葉に、何をそんなに恐れを抱いているのでしょうか?

それはあたかも、絶対的な国際的、社会的基盤を持ちながらも、たった一人新しい真理のみ言葉を語り続けた文鮮明青年に恐れを抱き、ありもしないスキャンダルをねつ造し、国家権力に訴えることによって迫害を加えてきたキリスト教会の姿に酷似しています。


しかし今の時代は、正午定着の時代。正しいものは栄え、偽物は滅びる時代です。

本当に原理を理解し、文先生の勝利圏を絶対的に信じるならば、正しく生きるしかない時代です。

一生懸命に自己を正当化し、今得ている利権にしがみつこうとしている人たちは、正しい人たちからの攻撃がなかったとしても、時間とともに自然と滅びてしまうことでしょう。

生き延びるためにはただ一つ、正しいことをするだけです。

正しいことをしなかった場合、どんなにあがいても、滅びてしまうのは必然です。

自分たちの存在をかけ、あらん限りの自己正当をしても、結果を変えることはできません。

罪の上に罪を重ねるだけで、自分たちにとってプラスになることは何もありません。

それはカトリックとプロテスタントの関係よりも、厳格な結果が待ち受けていることでしょう。

カトリックはプロテスタントが現れても、今に至るまで連綿と続いていますが、今の統一教会、家庭連合は、本当に悔い改めない限り、神様の願いのままに生きようと生まれ変わらない限り、生き延びる道はありません。

それほど文先生の勝利圏によって、正しいものは栄え、偽りのものは滅びる時代に入ってしまっているのです。

そこに許しはありません。

神様を信じ、文先生をメシヤとして、真の父母様として信じるならば、文先生が命がけで戦い勝利してきた勝利圏を信じ、神様の願い、文先生の願いにこたえるための道を歩むしか道はないのです。


毎日訓読をし、祈祷をし、一生懸命に献金をしても、自らの生活に原理を取り入れ、原理的生活ができていなかったら、その信仰生活に何の意味があるのでしょうか?

特に私以上に原理を理解している人はいないとでもいうかのように、偉そうに原理を語り、我々を指導している、利権を謳歌している指導者たちには同情してしまいます。

彼らに待ち受ける永遠の世界は、どのような世界なのでしょうか?

ダンテは神曲の中で、地獄に行ったとき、足元を見ると多くの人間が地に埋まり、頭だけを地上に出していたと書いてありますが、その顔を見ると見たことのある人たちだったと言っています。

そこに埋まっていたのは、当時有名な教職者たちであったというのです。

多くの人々から尊敬を受け、素晴らしいみ言を語り、人々を指導し、良い生活をしていた教職者たちが霊界に行ったら、その霊界は地獄の底で、彼らは地に埋まり、頭だけを地に出している惨めな姿だったというのです。

生きている数十年は栄光の人生だったかもしれませんが、永遠の世界では、惨めな罪人として、誰にも顧みられない、地獄の底での生活が待っていたのです。

しかし彼らは、イエス様に直接に侍り、直接にイエス様を利用し、自らの利益を堪能した人たちではありませんでした。

もし彼らがイエス様に直接に侍り、直接イエス様を利用した人たちだったとしたら、その罪は幾倍にもなっていたことでしょう。

今日文先生に直接に侍り、侍ることで得るようになった利権を自分勝手に使った人たちは、どのような世界に行くようになるのでしょうか?

想像しただけで恐ろしくなってしまいます。

そのようなことを考えると、今現在文先生を利用し、自らの利権を守るのに汲々としている人たちには、同情するしかありません。

今の許しのない時代にあっては、誰が裁かなかったとしても、正しい人は栄え、正しくない人は滅びるしかありません。

時間の問題です。

もし少しでも、自分が迫害を加える側に立っているのではないかと思い当たる所がある場合、即刻悔い改め、正しい生き方を模索する以外、裁きを免れる道はありません。

今はまだ悔い改めることもできる時です。

自らを捨ててこそ浮かぶ瀬もあり、生きる道も見えてくるはずです。

原理は自らの生活の中で実践できなかったならば、どんなに学んだとしても、全く意味がありません。

自己否定、自己犠牲の道こそ、私たちが歩むべき道ではないでしょうか?

★選ばれし民 ⑤梨花女子大学事件

統一教会が設立された後、上記⑤にあるように1955年7月4日にも文先生は逮捕され収監されました。

この時も統一教会の勢いがすごく、それを脅威に感じたキリスト教系の大学、そして既成のキリスト教会が結託し、当局に訴え、文先生は逮捕されてしまいました。

この時の逮捕・拷問も、文先生がメシヤとして正々堂々と歩んでいるがゆえに、それに脅威を感じた既成教団が根も葉もないうわさを流すことでなされたもので、それもあたかも2000年前のイエス様を訴えたパリサイ人や律法学者たちと同じことを行ってしまいました。

この逮捕もいうまでもなく、韓国のキリスト教会からの迫害であり、韓民族によってなされたものでした。


★ダンベリー刑務所

1984年7月20日。脱税容疑でアメリカ、コネチカット州ダンベリー連邦刑務所に収監。

この時はそれまでの迫害とは違い、日本や韓民族は直接的には関わらない迫害でした。

アメリカに進出した統一教会は、勝共を掲げ、反共産主義を前面に出していた時期でしたから、アメリカ国内のリベラル勢力からの迫害という意味合いが強いものであったと思われます。

宗教の自由のあるアメリカですので、宗教的理由で訴えることができなかったため、脱税問題にすり替えて訴えを起こし、結局文先生を牢獄に送る結果となってしまいました。

しかしこの判決に異を唱えたのは、統一教会の人ばかりではありませんでした。

統一教会と同じような会計処理をしている一般のキリスト教会の人たちも、これは形を変えた宗教迫害だとして、統一教会と一緒になって闘うようになりました。

この時の迫害の中心はアメリカであり、文先生と一緒に牢獄に入ったのは日本人の神山先生でした。

このダンベリーの刑務所も、文先生がメシヤとして、再臨の主として歩まれたがゆえに受けた迫害の一つでした。



こうして改めて文先生が受けた6度にわたる獄中生活で、メシヤとしての文先生を迫害した張本人は韓国人であり、キリスト教の歴史と比較をしてみても、韓民族は最も罪深い民族ではなかったかという印象を持ってしまいます。

それでも選民としての位置を外されることなく、今日に至るまで選民としていられるのは、全て文先生の許しのおかげであり、自分たちが摂理の勝利に貢献したなどとは、決して思ってはいけない民族ではないでしょうか。

よく日本は、もともとサタン側のエバ国家であり、主の国韓国を36年にわたって支配した国として、あたかも歴史上最も罪深い国であるかのように教育を受けてきました。

それゆえエバ国の蕩減として、世界の摂理に責任を持たなければいけないとして、どの国の人よりも犠牲の道を歩まされてきました。

では、主の国を迫害した迫害と、再臨主である文先生を迫害した迫害と、どちらがより罪深いでしょうか?

私はそれは、比較するまでもなく、文先生を迫害した方が、何倍も罪深いだろうと思います。

日本は確かに、主の国を迫害し、文先生までも牢獄に捕らえ、拷問まで加えました。

一方文先生を、メシヤであるがゆえに何度も何度も迫害を加えたのは韓民族であり、死の直前まで追いやった人物も韓国人でした。

しかし韓国人の中から、自分たちは再臨の主を何度も何度も迫害した、罪深い民族なんだという話を聞いたことがありません。

韓国人たちは、自分たちの罪深さは自覚せず、自分たちは選民なんだから、特別な存在なんだという思いを持っているということは常に感じさせられます。

こんなことは日本民族である私などが言うべき問題ではないのですが、このまま自分たちは選民であり、特別な存在だなどと考え、いつまでも傲慢不遜な態度で、些細な利権にしがみついているような一部の韓国人指導者たちのゆえに、大多数の善良で信仰的な、選民と呼ばれるにふさわしい韓国人食口たちまでも、同じような罠にはまってしまわないように、もう一度考えてほしい内容として書かせてもらっている内容なのです。

自分たちは選民だ、特別な存在なのだと思い、自己肯定の信仰をしていた場合、サタンは簡単にその心情の中に入り込んでしまいます。

私たちが信仰を全うするためには、自己否定の信仰を確立しなければ、正しい信仰を確立することはできません。

★選ばれし民 ④その他の獄中生活

次に②にある定州において収監された牢獄生活は、1945年の10月ですので、何故投獄されたのかはわかりませんが、その時は既に韓国は解放されていましたので、日本は文先生の投獄とは直接関わりがなかったと思われます。

また詳しい内容についても捜すことができないため、メシヤとして受けるべき迫害だったかどうかもわかりません。


次に③、④の獄中生活ですが、これらは文先生が1945年当時、本来神様が用意された再臨主を迎えるための摂理で、摂理的中心人物たちが全て自分たちの使命を果たすことができず、第一の摂理に失敗したために、僕の僕から、地獄の底から再出発するために通過せざるを得なくなったために起こった迫害でした。

その時文先生を迫害し、時には死の寸前にまで追いやった拷問は、ソ連統治下の平壌で、北朝鮮の人たちによってなされたものでした。

北朝鮮ではあったとしても、それは神の選民として用意された韓民族に外なりません。
つまり文先生を死の寸前にまで追いやった張本人は、韓民族の人たちだったのです。

さらに言えば、文先生がメシヤとして通過せざるをない蕩減路程において、文先生を直接に迫害し、時の権力者たちに訴えた人たちは、平壌のキリスト教関係者たちでした。

彼らは自分たちが築いた教会の基盤を、文先生によって奪われることを恐れ、当局に訴えることによって文先生は逮捕されました。

それはあたかも2000年前のイエス様を訴えた、当時の律法学者やパリサイ人たちと全く同じ過ちを犯してしまっているのです。

そうやって文先生を訴えた人たちが、本来ならば文先生を迎えるために神様が用意された韓民族のキリスト教関係者たちであったばかりでなく、文先生に拷問を加え、死の寸前にまで追いやった張本人もまた韓民族の人たちでした。

さらに言えば、神様が2000年間教育し、準備してこられたキリスト教の基盤の上に立って、再臨主を直接迎えるために準備された摂理的中心人物たちというのも、ほとんどは韓民族の人たちでした。

イエス様が降臨された当時、メシヤを迎えるために送られた、エリヤの使命を持った洗礼ヨハネと同じ使命を持った預言者たちも、1945年当時の摂理では韓民族の人たちだったということです。

洗礼ヨハネはイエスを証すことはできましたが、その後イエスに従うことができずに使命に失敗した結果、イエスは洗礼ヨハネをしてこのように言いました。
『あなたがたによく言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい。』マタイによる福音書11章11節

つまり摂理的中心人物がその摂理に失敗した時、『天国においては最も小さい者となってしまう』という表現で、最も罪深く、最も救いから遠いところに行ってしまうというようなことを私たちに教えてくれています。

文先生を迎えるために2000年の歴史をかけて神様が準備された摂理的中心人物たち、摂理的中心宗教、摂理的中心民族、全てが韓民族の人たちという、人類歴史上最大の恵みの立場に召された民族でしたが、それらの人たちは全て摂理に失敗してしまいました。

つまりそれらの人たちというのは、失敗した洗礼ヨハネと全く同じ立場に立ってしまっといえることでしょう。

同時にイエス様を迎えるために用意された、イスラエル民族と同じような立場に立ってしまいました。

それは選民としての栄光を受け得る立場ではありません。

洗礼ヨハネはどうでもいいことで首を切られ、その命を失いました。

またユダヤ民族は、イエスの十字架に対し自分たちが責任を持つとして、2000年間、自分の国も持てずに、流浪の民として、迫害の歴史を刻んできました。

イエスの再臨当時の摂理において、2000年前の洗礼ヨハネ、イスラエル民族と同じ道を行くべきは、日本民族なのでしょうか?それとも韓民族なのでしょうか?

★選ばれし民 ③最初の投獄

それではここで、上記①の収監生活を、もう少し細かく分析してみましょう。

実際上記①にある、京畿道警察部での日本の警察による拷問は、日本留学中に組織した独立運動で、同志だった友人に、共産主義者と密告されての逮捕だったと思われます。


文鮮明自叙伝 92Pより引用

『1944年の10月、新婚の家に突然日本の警察がやって来て、「早稲田大学の経済学部に通っていた誰それを知っているか」と尋ねるなり、答えも待たずに私を京畿道警察部に連行しました。共産主義者として引っ張られていった友人の口から、私の名前が出たことが理由でした。
警察に連行された私は、いきなり拷問を受けました。
「お前も共産党だろう?内地に留学して、そいつと同じ仕事をしただろう?・・・こんなところで犬死にしないように、共産党の奴らの名前を全部吐くことだな」』


この自叙伝の一節を見ても、この時の投獄、拷問は、太平洋戦争末期、日本の特高による、いわゆる“赤狩り”が行われていたその一環として、文先生にもその力が及んだものと思われます。

赤狩りとは摂理的に見ると、どんな意味があったのでしょうか?

その辺に関しては深く考えたことも、資料を調べたこともありませんので、正確なところはわかりませんが、直感だけで書いてみると、サタンの最後の発悪ともいえる共産主義勢力の伸展を防ごうとする、神の摂理だったのかもしれません。

もしそうだった場合、日本人による文先生の逮捕も、拷問を加えたという事実は否定できませんが、あながち再臨主に対する迫害とは意味の違うものだったのではないかとも取れるのです。

つまりサタンの勢力の伸展を防ぐための、神側の摂理を担って行われた“赤狩り”に、何故か文先生が引っかかってしまったとも取れるわけです。

何故そうなったのか?
それは日本で一緒だった友人の一人が、文先生を日本の特高に売ってしまったからでした。

想像するにその友人とは、日本で活動していた、地下独立運動の組織の一員だった可能性が高いのではないでしょうか?

そうであった場合、文先生の最初の獄中生活と拷問の原因を作ったのは韓国人であり、それはあたかもイエス様を売った、イスカリオテのユダのような立場になってしまう可能性もあります。

とは言ってもその友人は、日本の特高による執拗な拷問によって、無理やり言わされた自白でしょうから、イスカリオテのユダとは立場は全く違いますが、文先生を日本の特高に売ってしまったという事実は否定することができません。

文先生の6度の獄中生活の中で、唯一日本人が関与している最初の獄中生活は、韓国人の友人が、自らの意思ではなかったとしても、結果的に文先生を日本に売り渡してしまったために起こってしまった悲劇だったのです。

しかしそこで文先生に拷問を加えた日本人は、再臨主である文先生を拷問にかけたのではなく、共産主義者として密告された韓国人青年を、共産主義の進展を防ぐために行った拷問でもあったのです。

それはこれから世界を蹂躙しようという、共産主義の伸展を妨げるために行ったものでしたから、神側の摂理と考えることもできるものでした。

結論として、日本人が関わった文先生に対する唯一の投獄、拷問であった最初の獄中生活は、日本人の民族的な罪とは言い切れるものではなかったばかりか、韓国人がその原因を作ってしまった苦難だったのではないでしょうか?

★選ばれし民 ②文先生の獄中生活

韓国を摂理的中心国家として立てるために、神様は40年間日本をサタンの手に委ね、韓国を占領せしめました。

その40年間、日本からの迫害を受け、メシヤを迎えるための蕩減条件を立てることのできた韓国は、1920年に文先生を迎えることにより、6000年の歴史の結実体としてのメシヤを迎えることができました。

その結果韓国も、メシヤを迎えた中心国家として、選民国家としての位置を確立し、韓民族も選ばれし民、選民となることができました。

つまり韓国が選民国家となり、韓民族が選民となることができたのは、韓国の地に、韓民族の中にメシヤである文先生をお迎えすることができたからでした。


韓国が選民国家となり、文先生をお迎えするためには、蕩減の道を歩む必要があったために、40年間の日帝迫害時代が必要でした。

同じように文先生も生涯6度の獄中生活を経験し、苦難の路程を歩まれました。

しかし文先生の苦難の路程は、本来は必要のないものでした。

神様が用意された摂理に成功していたら、王の王として、苦難の路程を歩む必要はありませんでした。

文先生は残念ながら、第一次の摂理に失敗したため、蕩減の路程を歩まざるを得なくなり、6度の獄中生活も経験することになりました。


具体的に6度の獄中生活を挙げてみると、

①1944年10月  :京畿道警察部、共産主義者の疑いをかけられ、日本の警察による拷問。
   ~1945年2月 ⇒拷問を受けながらも、友人の名前を吐かずに解放

②1945年10月  :定州において収監され、過酷な牢獄生活。

③1946年 8月11日:北朝鮮平城の大同保安署、キリスト教指導者の反感と李承晩のスパイの容疑で拘束。
   ~11月21日(103日間)⇒半死半生の状態で解放。

④1948年 2月22日:キリスト教既成教団の嫉視と共産党当局の宗教抹殺政策により内務署拘束。
          5年刑の宣告で平城刑務所に収監。興南特別労務者収容所にて強制労働。
 1950年10月14日:国連軍の興南爆撃により2年8か月ぶりに解放。

⑤1955年 7月 4日:異端的信仰を理由にソウル中部警察署に拘束、西大門刑務所に収監・・・梨花女子大学事件。
    10月 4日:無罪放免

⑥1984年 7月20日:脱税容疑でアメリカ、コネチカット州ダンベリー連邦刑務所に収監。
 1985年 8月20日:完全出監。

このように6度も牢獄生活を経験された文先生でしたが、ここでもっと詳しく分析をしてみると、文先生がメシヤとして投獄されたのは4回であり、あとの2回は、別の理由で投獄されたということに気が付きます。

神様が用意された第一の摂理は、洗礼ヨハネ使命者であった金百文牧師が、文先生を不信することにより失敗に終わりました。

そのため文先生は、1946年の4月に金百文牧師の元を離れたのでした。

つまり上に示したように文先生の路程の中で、1946年4月以前の獄中生活は、メシヤとして受けるべき蕩減としての牢獄生活ではありませんでした。

それでは次回、文先生の牢獄生活をもっと詳しく分析してみましょう。

選ばれし民 ①韓国人の心霊基準


韓国及び韓国人の心霊基準

2015年11月2日、安倍首相は総理大臣となってから初めて、韓国の朴槿恵大統領とソウルの青瓦台で会談をしました。

日韓首脳の会談は実に、2012年5月以来、3年半ぶりのことでした。

この首脳会談に先立つ10月31日には、『韓国が日本との通貨スワップ再開を懇願』という記事も流れ、韓国経済がIMF介入時並みに後退し危機的状況に陥ったために、その現状を何とか打開しようと、徹底的に嫌ってきた日本に対し、手を差し伸べてほしいと、なりふり構わず接近してきたものでした。

通貨スワップに関しても、もともと韓国のために日本が支援をするような意味合いが強かったものですが、延長の話が出たときは、韓国国内では反日的な風潮が強く、朴政権自体も反日を前面に出して政策を進めてきたために、韓国の方から必要ないと言い出した問題でした。


そんな韓国の最近の振る舞いは、選民国家として、心霊の高い民族の姿からはかけ離れ、堕落性の強い民族としか思えないものでした。

表現を変えると、先進国というのも恥ずかしい、まさに今仲良くしている、中国と同じような民族性を示していました。

うまく分析することができるものでしたら、韓流ドラマに見る、例えばチャングムとか、ホジュンとかのような人格的に優れた主人公たちと、その敵役である人たちとの人物比較、人間性の違いを具体的に上げ、今の国家としての韓国の姿とを比較してみたいものです。

結論だけを言えば今の韓国の姿は、残念ながら人格的な主人公たちの香りは全くせず、その敵役の人たちと同じような性格を感じさせる国家でしかありません。

それは今の教会にも当てはまることではありますが、あれだけ素晴らしい韓流ドラマを制作しながらも、そこで表現されている主人公たちのような、人格的な国家に何故なることができないのでしょうか?


私たち教会員が知る韓国人たちは、自分たちは選民であり、韓国は選民国家だということに胡坐をかき、選民として、選民国家として、果たすべき責任を何ら果たそうとはしていないように感じられます。

それどころか、伝統的両班思想に毒され、教会幹部は自分たちを両班と考え、特に日本などは奴婢であるかの如くに考え、扱ってきているようにさえ感じるものでした。



統一教会では教会に入ると、韓国はメシヤを迎えるべくして、歴史的に神様が用意された選民国家であり、一方の日本は、サタン側のエバ国家であったということが強調され、徹底的な否定教育がほどかされます。

私はもともとは日本が選民国家であり、日本人が選民ではないかと思ってきた人間ですから、そんな教会での教育を受けても、そのギャップを埋めるのには相当な時間を必要としました。

しかしようやく韓国を選民国家として、韓民族を選民として受け入れることができるようになった時に韓国に行くことになり、韓国人たちと直接に接することができるようになりました。

為に生きる教育を受けて、日本で為に生きる実践をしようと努力してきた私にとって、韓国で見る韓国人はもちろん、韓国人食口たちも、自分勝手で、他人を押しのけてでも自分の利益を守るのに必死で、為に生きる精神の片りんも見えない人も多く、驚いたことを覚えています。

もちろんみんながみんなそうだというのではありません。
中には私たちが逆立ちしてもかなわないような、素晴らしい人格者たちも多くいました。

教会で韓国人は選民であるという教育を受け、無条件素晴らしい人たちだと思いこもうとしていたのでしたが、実際の韓国人の姿を見たとき、その自己中心的で身勝手な人たちを、心霊が高いとは感じることができませんでした。

選民である韓国人は、心霊的にも高く、無条件素晴らしい人たちなんだと考えようとすると、実際の姿を理解することはできなかったのですが、心霊が低いと考えると、全てが納得できるものとなりました。

つまり選民ではあったとしても、必ずしも心霊が高いわけではないのだということを理解すると、全てが納得できるようになったのです。

選民とは、再臨の主を迎えるために、サタン分立の為の蕩減条件を立てた民族であり、他国を一度も侵略したことのない善なる民族だというのは間違いはないのでしょうが、だからと言って無条件、心霊も高いということにはならないということです。

そのように理解すると、教会において立派な位置にあったとしても、原理的な行動のできない人たちがいるということも、十分理解することができるのです。

口先では立派な原理を語れても、実際の生き方は原理とは違っているということも十分にありうることだということが理解できるようになるのです。

絶対的信仰2  独生女1


日本の教会では公式には発表されていないみたいですが、お母様が自らを『独り娘』として語られたみ言葉について、簡単にまとめようと思います。


私がまとめるまでもなく、何人かの方々が紹介していますので、今更の感はありますが、絶対的信仰という観点で、私なりの感想を付け加えたいと思います。



お父様が聖和されてより、教会ではお父様とお母様とは一体であるということを強調してきました。


なんといっても統一教会は、お父様が再臨のメシヤであるという一点で生まれた宗教であり、お父様が聖和された今では、お父様の絶対性を引き継ぐ存在がなければ、まとまりもつかなくなるからです。


そういった意味では、お母様が全権を引き継ぐということは、至極当然の流れであるように思われます。



しかし今の統一教会の現状は、統一教会ではなく分裂教会でしかなく、お父様とお母様が完全に一体だといっても、簡単にまとまるものではありません。


だからこそお父様に代わる絶対的存在が必要なことも事実です。


だからなのかどうかは分かりませんが、お母様は我々日本人食口には公表されてはいないと思いますが、とんでもない宣言をなされていました。



少し長くなりますが、2014年7月1日の訓読会でお母様が語られたみ言を転載いたします。


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2014年7月1日 真のお母様訓読会のみ言 
http://yonemoto.blog63.fc2.com/blog-entry-493.html


■ところで、独り娘がいるでしょうか、いないでしょうか? 

 神様の創造は、アダムでしたか?アダムとエバです。独り娘もいたのです。そのような摂理歴史がありました。原理で、天が選択した中心人物が責任を果たせない時は位置を変えます。イスラエルを通して独り娘を送ってくださいません。全知全能の神様は失敗することができません。独り娘を育ててこられました。サタンが世の中の王になったので、サタン世界ではあるが王権を通して探されるのです。 

ここに座っている真の母は、「6千年ぶりに誕生した独り娘です。証拠がちゃんとあります」 

 私が生まれた時、サタンが私のことも殺そうとしました。サタンが「お前が生まれたので、私が死にそうだ。だからお前を殺してやる」と言いました。天は韓民族を通して摂理歴史を6千年間導いてこられました。なぜ大韓民国、韓国という「韓」が偉大になるのでしょうか。摂理歴史においてアジアの主人は韓王朝です。東夷族です。私たちは韓民族です。聖別して育ててこられたのです。 
 この韓族を通して天は、皆さんが知っているように本来、天子を送ろうとしたのですが、趙漢俊(チョ・ハンジュン)お祖父さんの銅銭3銭が引っかかって天子ではなく天女を送るとおっしゃいました。これは伝説ではなく、事実です。キリスト教的に…韓国にキリスト教が入ってきて定着してからまだ何年も経ってない時です。解放と共に平壌を中心とした神霊運動が展開されていました。 キリスト教では雲に乗って来る再臨主を待っていたのですが、 金聖道(キム・ソンド)、許孝彬(ホ・ホビン)といった人たちは肉身を持って来るメシヤを迎える準備をしました。ここに、李浩彬(イ・ホビン)牧師の主礼で私が誕生した歴史があります。 

 イスラエル民族を通して独り子を送るまで聖別してこられた選民の歴史があります。「血統転換」、私は胎中にいる時からそうなのです。皆さんがこのことを信じなければなりません。 
 そのため、私を中心とした三代は平壌がエデンの宮になると信じていました。それが、私が6歳の時です。しかし解放と同時に北の情勢は共産化されていっていました。38度線が引かれていました。それでも信仰的に平壌を去ることができませんでした。主が来られるので。 
 その時にお父様は啓示を受けて北に行かれました。ところでその時、私の母方の叔父が早稲田で薬学を勉強していました。故郷に戻ってこなければならない人が、南韓で軍隊に入隊するという電報が来ました。それで、お祖母さん、洪順愛大母、私の3代が独り娘なのですが、避難しに来たのではなく、叔父に会いに南に来たのです。驚くことにこれも「摂理」でした。 

 その時、許孝彬氏がお父様と同じ大同保安署に入ってきたのを知られて、「すべてを否定して出なさい」というメモを、お父様が許孝彬氏に伝えたのですが、それが発覚してお父様がたいへんな困難を経られました。ところがその時、その許孝彬の母親になられる方で、娘が監獄に入ったために娘の代わりに霊的な役事を引き受けていたお婆さんがいらっしゃいました。その方が私を呼んで祝祷をしたのです。 
 その許孝彬の集団は、肉体を持ってくる再臨メシヤを迎えられる実質的な準備をする団体でした。それが私を祝福したのです。 

 南下して38度線が引かれて戻ることができず、その2年後に6.25動乱が起こりました。その時も私の人生は天の保護の下にありました。日本が最後の戦いのために韓国からすべての鉄、祭祀に使う道具まで持って行きました。ところがそれらの物が、私が生まれる頃になってなぜ入ってきたのかというのです。それをどう説明することができますか? 

お父様の歴史は、イエス様の使命を引き継いだその時、その瞬間がお父様が独り子となられた資格です分かりますか?そのことを分からなければなりません。 

これまでの2千年歴史は、独り娘を探してこられた歴史です。 

 今、キリスト教が私たちのことを異端だと言いますが、彼らのほうが異端なのです。私たちはイエス様自身なのに、そうではないですか?この歴史的な秘密を私が教えてあげました。真の父母は、このように苦労なさって6千年間の時を過ごして天がご苦労にご苦労を重ねて探し立てられた独り娘です。皆さん、分かりましたか?知らなかったでしょう? 

 そのため、私でなければならないのです。皆さんは私に出会って幸運です。天一国は二人が一つになって成す国です。1960年はそれこそ天の娘が喜ぶ日であり、万物が喜ぶ日です。神様が待ちに待ったその一瞬でした。 


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何度も何度も読み返し、このみ言の意味するところを考えてみてください。


統一教会の歴史を変えるような驚くべき内容が、お母様の宣言となっています。


簡単にまとめると、お父様がメシヤとなられたのは、15歳のとき、イエス様から啓示を受けて、メシヤの使命を相続したときであるのにたいし、お母様は胎中にいたときから聖別された、神の独り娘であったということです。


つまりお父様の絶対性は、後天的なものだったのに対し、お母様の絶対性は先天的なものであり、お母様こそが神様が歴史を通し捜し求めてこられた唯一無二の存在だったということではないでしょうか?



絶対的信仰③  独生女・・・お母様のみ言②に続く。



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絶対的信仰①  メシヤ


私は統一教会の食口では珍しく、原理を聞く前からメシヤを捜し求めていました。



私の人生は、『ノストラダムスの大予言』と出会うことで大きく変わりました。


生来単純で、何でも信じやすい性格をしていたため、ノストラダムスの大予言を信じ、1999年までに自分の人生は終わってしまうと思い込み、残された人生をどのように生きるべきかを真剣に考えるようになりました。


予言を研究するために聖書を読むようになり、終末になると偽メシヤも現れるが、再臨の主が降臨されるということを知りました。


その後『真光』という新興宗教にはまり、信仰の世界を知るようになりました。


その『真光』という宗教は、人類の終末期、弥勒メシヤが降臨し、新しい神主文明が始まるとして、新時代を作る種人(たねびと)を作るのを使命とする宗教でした。



『ノストラダムスの大予言』と出会うことにより、終末時代について学び、神様のことを学び、そして終末に降臨するという再臨主、メシヤのことを学ぶようになり、最終的には終末時代に生きる者として、人生をかけて再臨の主を捜し求めなければいけないと思うようになっていました。


そんなときに出会ったのが原理研究会であり、統一教会であり、文先生でした。


聖書によれば、再臨主が現れる前に、より強い力を持った偽メシヤが現れるとありますので、最初は文先生を偽メシヤではないかと思いました。


原理は何回聞いてもよく分かりませんでしたが、ただ物凄いことを言っているということだけは分かりました。


しかし私が原理を聞く観点は、文先生がメシヤか否かのただ一点だけでした。


そのような話を教会の責任者の方にしたとき、2日間時間をとってくれれば、その辺の内容に関して教えてくれるということになり、私たった一人のために、特別に創造原理、堕落論、復帰原理、そして主の路程の講義をしてくださり、初めて文先生の路程について学ばせていただきました。


その時の反応は、確かに文先生はイエス様やお釈迦様と比べても、勝るとも劣らない人物だというがわかったということでした。


そこで私は、60%くらいはメシヤかもしれないと言っていました。


その後アメリカ研修旅行、国際指導者セミナーに参加する機会を与えられ、2度目の主の路程を聞きました。


そのときはさらに確信が深まり、80%くらいはメシヤではないかと思うようになっていました。


その後3ヶ月ほど経ち、7日修練会に参加し、3度目の主の路程を聞きました。


そこで更に確信は増し、90%くらいはメシヤとして受け入れられると言いました。


7日修に引き続き21修に参加し、4度目の主の路程で、私は最初から最後まで正座して聞きながら、95%はメシヤと思うと答えるようになりました。


しかし最後まで、どうしても最後の5%を埋めることはできませんでした。


それは文先生はメシヤとして間違いがなかったとしても、文先生をメシヤかどうか判断しなければいけない私に、メシヤとして判断するだけの能力がないということに気がついたからでした。


あたかも幼稚園児に、大学生並みの学問を教えても、理解できないのと同じです。



そのことに気がついた私は、どのようにしても最後の5%を埋めることはできないのですから、最後の5%は賭けることにしました。


掛けることで最後の5%を埋め、無理やり100%受け入れることにしたのです。



100%受け入れるということは、文先生を一点も疑うことなく、完全に信じるということです。


しかし当時原理を何度聞いても、絶対に受け入れられない内容がいくつかありました。


例えば輪廻転生などは絶対真実であり、いくつも実証例のある輪廻転生を否定するなど到底考えられませんでした。


しかし私のような取るに足らない者の考えと、自分がメシヤとして100%受け入れた文先生の考えでは、どちらが正しいだろうかと考えた場合、もちろん文先生のほうが正しいに決まっているわけですから、自分の考えを100%文先生に合わせることにしました。


その時から今日に至るまで、一度も文先生を疑ったことはありません。


一般常識では受け入れ難い内容があったとしても、それらも全て私の考えが及ばないだけで、そこには神様と文先生にしか分からない原理があるのだと理解し、どんなことでも受け入れるようになりました。


つまり文先生を、自分の小さな秤で判断しないということです。


そのような文先生に対する絶対的信仰の世界を、亨進様の説教の中に発見することができると同時に、お母様のみ言に対する絶対的信仰の世界を、今の教会の中に発見することができないということを、次回から書いてみようと思います。


許 浚 (ホジュン)


2014年の暮れから2015年の初めまで、テレビ東京で、『伝説の心医 ホジュン』が放送されました。


韓国で以前製作されたホジュンから、約14年ぶりにリメイクされたこの物語、内容的にはほとんど前作と一緒で、とても感動的な作品に作られていました。



ホジュンは教訓の宝庫でもあり、見ているとところどころに、多くの原理的教訓を発見できました。


・恩讐を真の愛で屈服させる世界。

・アベルがカインを屈服し一体化する姿。

・人格者ホジュン以上に素晴らしい、妻ダヒの理想的な良妻賢母の姿。

・母子協助。

・師匠とのたった一つの約束を、生涯かけて、命がけで守ろうとする世界。



ホジュンを見ていると、お父様の姿がダブルことさえあるほどです。



そんなホジュンを見て、一つ心に引っかかった部分がありました。


それは、ホジュンが仕えていた王様が、寿命を迎え亡くなったときの話です。


朝鮮王朝時代の韓流ドラマによくある、ドロドロした権力闘争のくだりでした。



王様を支えていた中心勢力が、順当に世子(皇太子)を国王に擁立しようとしていたのに対し、反対勢力はまだ幼い王妃の子供を擁立し、自分達の影響力を大きくしようとしていました。


そんな時、弱りつつあった王様の病状が突然悪化し、意識不明に陥りました。


王様ははっきりと後継者を指名していなかったため、一時的に意識が戻ったとき、反対勢力が主治医であったホジュンの静止を振り除け、王様に謁見しました。


王様は反対勢力たちにはっきりと、「次の国王は世子にする」と言い、王様の勅令を出されましたが、その場にいたのが反対勢力の2人と、ホジュンと医女の4人だったため、二人を黙らせ、王様の勅令を握りつぶそうとしました。


ホジュンと医女は政治的なことには関わろうとしなかったため、その策略がうまくいきそうになりましたが、最後にはホジュンが真実を告げたため、結局その策略は失敗に終わりました。




最近の亨進様の説教を読むと、われわれには知りえなかった驚くべき内容が多く含まれています。


果たして亨進様は、このようなことで嘘をつくだろうか?


私には亨進様は、このようなことで事実を捏造し、自分に都合のよいように語るような人間には思えません。


亨進様が語ることが真実なら、今統一教会は、存亡の危機を迎えているといっても過言ではないでしょう。




亨進様の主張の一つ、お父様の後継者は亨進様であり、それを天使長達が策略を練り、お母様をうまく騙して、國進様、亨進様を追い出すことに成功したということは、まさしくホジュンの中の、王位継承の際、反対勢力が使った作戦と一緒だと言わざるを得ません。


亨進様が言われるとおり、2010年にお父様が書かれた宣言文には、


「万王の王はお一人の神様、真の父母様もお一人の父母、
万世帯の民も一つの血統の国民であり、一つの天国の子女である。
天宙平和統一本部も絶対唯一の本部だ。その代身者・相続者は文亨進である。
その外の人は、異端者・爆破者である。以上の内容は、真の父母様の宣言文である 文鮮明印」


と書かれていました。


この文章は私だけではなく、食口なら誰もが目にしたものではないでしょうか。


亨進様の戴冠式のビデオは見ていませんでしたが、文先生が聖和される前は、私は亨進様が後継者として立たれるものだと思っていましたし、私の周りの人たちの多くも同じように考えていました。


それがいつの間にか、お母様だけが唯一絶対の立場で、全てを主管されている姿に、多少の違和感を感じながらも、それもまたある意味、当然の流れのようにも感じていました。


というのも、お母様が國進様、亨進様と一体となって、教会を守られると思っていたため、お母様が主管されること自体は、当然のことと思っていました。



しかし現実は、お母様の独裁になっていました。


しかも國進様、亨進様の消息はわからずに、いつの間にか表舞台から消えてしまっており、その消息を聞いてもなかなかはっきりしたことはわからずじまいでした。


それがまさか、教会から事実上追い出されていたなどとは、思いもよりませんでした。



たぶん亨進様の性格から言って、教会内での権力争いも、既得権益などにも興味はないのではないでしょうか。


ですから、自分だけのことを考えれば、今のサンクチュアリ教会での牧会生活に、何の不満も持たないのではないでしょか?


しかし文先生から全てを託された身だとすれば、無責任に今の状態を放置することもできないことでしょう。


文先生が生涯をかけて築き上げた統一運動の基盤を、みすみす悪の勢力に手渡すことなど、到底許されることではありません。


またその中で、エンドレスの献金に苦しめられ、疲弊していく日本の食口の現状を知ると同時に、その献金を自らのものとして、私腹を肥やしていく天使長たちの実態を知るときに、文先生から後を託されたものとして、その責任を放棄することなどできるはずもありません。


ですから時機を見て、今回のように立ち上がるということも、必然的成り行きということができるでしょう。



これはあくまでもホジュンを見て、今の統一教会にも同じようなことが起こっているのではないかという邪推を展開しているに過ぎませんが、分析すればするほど、あながち間違ってもいないのではないかと考えてしまいます。



ドラマでは勧善懲悪が基本ですから、最後には善が勝つのが当たり前ですが、今の統一教会は天使長達の思いのままに動かされているような気がします。


果たして統一教会では、悪を駆逐し、善を立てることはできるのでしょうか?





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日韓トンネル


1981年11月、韓国のソウルで開催された、第10回「科学の統一に関する国際会議」において文鮮明先生は、人類一家族実現の基盤にするために全世界を高速道路で結び、経済や文化交流を促進するとした「国際ハイウェイプロジェクト」なるものを提唱しました。


そして、その「国際ハイウェイ」の最初の起点となるものとして、「日韓トンネル」の建設を提案したのです。


その日韓トンネルについて今日は考えてみます。


日韓トンネルの意義についてはいろいろと言われてはいるのですが、ここでは最近連載していた日韓関係という観点から考えてみます。


文先生が言われるように、日本と韓国というのは、エバ国とアダム国の関係があります。


つまり韓国が夫で、日本が妻のような関係にあるのが日本と韓国であるというのです。


実際日本人の性格を考えると、女性的な性格ですし、韓国人の性格は男性的な性格です。


また日本の自然は、雨が多いこともあり、緑が多く、山もゆったりした、緑の多い山が多く、女性的な潤いを感じるのに対して、韓国の山や自然は、岩肌の崖の切り立ったような、男性的な印象のする自然が多く、対照的な姿をしています。


そして決定的なのは、文鮮明先生が言われるように、韓半島は男性性器をイメージさせ、日本列島は女性性器をイメージさせるように、日本と韓国は一体となるように運命づけられているような印象を受けます。


そんなことをイメージすると、日韓トンネルというのは、何を象徴するようになるでしょうか?


想像力のたくましい私は、男性性器を象徴する韓半島と、女性性器を象徴する日本を結びつける日韓トンネルの完成は、まさしく男女の結婚を意味するように思えます。


日韓トンネルを通じて、人の交流が行われると、それはすなわち日本と韓国の間でDNAが交流しているかのごとき印象を受けるのです。



日韓の暗い歴史は、神が願われた国と国との一体化のための歴史でありました。


そして摂理的中心人物である文鮮明先生が、自分の人生をかけて、恩讐を愛する道を開拓し、切り開いてきた新しい日韓関係であり、その結論が日韓トンネルだったのではないかとさえ思えるのです。


原理講論61Pを見ても、「アダムとエバが完成されてた夫婦として一体となったその位置が、まさに、愛の主体であられる神と、美の対象である人間とが一体化して、創造目的を完成した善の中心となる位置なのである。


ここにおいて、はじめて父母なる神は、子女として完成された人間に臨在されて、永遠に安息されるようになるのである。・・・」


とあるように、日韓が一体化したその位置が、まさしく神が臨在し、永遠に安息される、創造目的を完成した善の中心となるのです。


つまりその位置こそが、日韓トンネルであると言えるのではないでしょうか?


もしそうだとするならば、私たちももっと日韓トンネルに対し意識を持ち、その実現に向けてもっと必死にならなければいけないのではないでしょうか。


まさしく神が臨在し、永遠に安息される、創造目的を完成した善の中心こそが日韓トンネルなのですから。




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