存在のないこどもたち | うさこの旅日記&育児日記~4人家族になりました~

存在のないこどもたち

金曜日の午前中。私の夏休み最後の日。来週月曜日からまた勉強を頑張るよー。
ということで、映画をレンタルして見ることにした。
 
存在のない子供たちという映画。

結果、辛すぎた。

そして1日たってもまだ悲しくてやりきれない気持ち。先日はオタク君と「チェルノブイリ」を見たのだけど、これまた悲しくなってズドーンと気持ちが落ち込んだ。冬に見なくてよかったな。

 

ここでいきなり「存在のない子供達」のあらすじ。あらすじというかネタバレです。

 

主人公はおそらく12歳と思われるゼインという男の子。中東のスラム街に住んでいる。「僕を産んだ罪」で両親を訴えるところから映画は始まり、過去の回想へつながっていく。なぜ年齢がはっきりしないかというと、両親が出生届を出さなかったから。後にゼインは傷害罪で逮捕されるのだが、その時の歯の様子から医師が「おそらく12歳ではないか」と判断した。

 

ゼインは学校へ行っておらずたくさんの兄弟のために働いている。11歳の妹のサハルを特に可愛がっていたが、ある日サハルは、アサードという男と強制結婚させられてしまう。怒ったゼインは家出をして、遊園地で仕事を探す。そこでアフリカからの不法移民のラヒルというシングルマザーと知り合って、ラヒルの赤ちゃんのヨナスのベビーシッターをする代わりに家に泊めてもらうことになる。

そうこうするうちに、ラヒルが不法滞在で逮捕されてしまい、ゼインは赤ちゃんと2人ぼっちになる。なんとか1人で赤ちゃんを育てていくのだが、1人で育てることに限界がきて、アスプロという男に400ドルで赤ちゃんを売ってしまう。で、このアスプロはとんでもない悪党なのです。

 

その頃、悪党アスプロがトルコかスウェーデンへ移住できるように手配してくれるというので、それに必要な出生証明を自宅に取りに戻る。(スウェーデンに行けば良い生活ができる、、、と夢見ているゼインが切ない。)

そこで、強制結婚させられた妹のサハルが死亡していたことを知る。怒ったゼインはサハルの結婚相手であるアサードを刺して逮捕される。

 

という話。

 

 

まー見ていられなかった。(みたけど。)

気がついたら両手を胸の前で組んで「やだ!」「やめて!」「あーもう!」「ヤダヤダヤダ」「だめー」「なんで!」「ひどい!」とかブツブツ言いながら見ていた。辛すぎますわ。

 

とにかくみんな絶望的に貧乏。なのに子沢山。平日の昼間に子供が働いていても、街の人は一向に気にしていない。子供が学校へ行かないのもOK.赤ちゃんの足首に縄をつけてどっか行かないようにしていたり。ゼインも妹のためとはいえナチュラルに万引きするし。赤ちゃんを人身売買しようとする男もまぁイラつく。

 

ドキュメンタリーを見ているかのような臨場感だった。すべての役がリアルすぎて。

それもそのはず、役者のほとんどが実際に過酷な人生を生き抜いてきており、ゼインは実際のシリア難民で、シングルマザーのラヒルは映画の撮影中に実際に不法移民で逮捕されてるそうだ。詳しくはこちら。

 

あと赤ちゃん役のヨナスが、まーた良い表情をするのだね。自分が売られたことも知らずにゼインとお別れするときのあの表情よ。こんな赤ちゃん見たことないわ。

 

そして主人公のゼインの目。悲しみを通り越して諦めたかのような目。スウェーデンの電車の中とかでこんな目をした人いるなぁって思ったけど、彼らもとても悲しいものを見てきたのかな、とこれは完全に妄想だけどそう思った。

 

そして恒例の「私はなんて恵まれているのだろうか?」といういつもの感想にたどり着く。

優しい家族、友達、お金持ちではないけどお金に困ったりはしていないし、もちろん今日食べるものがないなんてこともない。お風呂にも毎日入れるし、清潔な洋服もある。お金が払えなくて水道が止まるなんてこともない。学校へ行かないで路上で物売りをしたなんてこともない。誰かに殴られたこともない。

 

スウェーデンに来るまでは、みんな努力するべき、良い生活をするのは自己責任だと思っていた。今のこの生活があるのは、私が頑張ったから、頑張って勉強して、仕事を一生懸命やって、ズルしないで努力したからだと思い上がってた。

しかし、スウェーデンに来て実際に難民の人と話したり、母国の経済や政治が絶望的にひどくて引っ越してきたり、自分の力ではどうしようもない社会情勢や生まれた環境に振り回されて生きている、そんな人達と話をしてみて自己責任では片付けられないなと思い始めた。(日本にいてニュースで難民の情報を得るのと、目の前の人から実際に起こった話を聞くのでは心に刺さるものが全然違う。)

 

なぜなら、私が学校でちゃんと席に座って先生の話をじっと聴くことができるのは、そう教えられたからだし、勉強してできなかったところは復習して次に間違えないようにすることができるのは、そう教えられたからだし、計画を立てて勉強すること、ノートの取り方、人のものを盗まないこと、友達と仲良くすること、嘘をつかないこと、仕事を真面目にすること、人に優しくすることなどなどは、私のアイデアや私の力というよりもそうやって教育されたからなわけで。

そもそも努力の仕方だって、人から教わったものだし。私は何もしてないし、教えられたことをやっただけ。

 

そもそも今日を生きることに必死な人たちは、マナーだの努力だの言ってられないよね。子供なのに学校すら行けてないのだから。私だって彼らと同じ境遇にいたら、ナチュラルに万引きするかもしれないし、生きるために人を蹴落としたり嘘をついたりするかもしれない。いや、するだろう。私の今の生活は、たまたま運が良かっただけ。

 

前回のブログで、スーパーで中東系に横入りされた!って怒ってたけど、そもそも彼女らは「横入りはいけないよ。」ってことを教えてもらってないのかもしれない。ま、とはいえここはスウェーデンなのでスウェーデン流に合わせて欲しいところだけど。

だから「何やってんの!」って怒るのではなく、「スウェーデンではこうするのがマナーですよ。」って優しく諭すべきなんでしょうか?でも実際は難しいけど。「ちょっとぉぉぉー!もぉぉぉぉー!」ってなるわな。だって人間だもの♪みつを♪

 

着地点がわからなくなってきたが、スウェーデンにいる難民の人とか、教育をあまり受けてこなかった?という人達を理解はできないかもしれないが、すこーしだけ共感を持って見ることができるようになったのかもしれない、、、や、分からない。

私ごときに共感されても「はぁ?」って感じだろうけど、「あなたも大変だったんですね」という気持ちが根底にあるかないかでだいぶ違うと思う。

 

とはいえ彼らと同じアパートん住みたいとは全然思わないんだけど。だって!あの人らの声が!めちゃくちゃ大きいんですもん。声が大きい人は人種に関わらず苦手。だから日本人でも声が大きい日本人とは同じアパートには住みたくない。

 

とはいいつつ、語学学校で会った難民の人って、教育を受けていないっていうよりも、母国では会計士とか教師とか医者っていう人も多かったので、この映画に出てくるような絶望的に貧乏ってわけではないのだけど。

絶望的な人はお喋りカフェで会うことが多かったかな。

 

一見の価値がある映画。

 

支離滅裂で終わり。