文永の役 750年 | 花は桜木 人は武士 柱は檜 魚は鯛 小袖はもみじ 花はみよしの
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前回モンゴル帝国から元の成立を話し

フビライの南宋攻略の再開するところで

お話が終わりました。

 

南宋攻略するうえで日本が関わってくるわけですが、

南宋攻略・元寇の話をする前に

高麗の話をしなければなりません。

当時の高麗は武臣と文臣との対立して

国内が乱れた時代でした。

 

そんな中、1218年にモンゴルを離反した

契丹の一派が高麗に侵入した際に

高麗はチンギス・ハンに協力し、

モンゴルと同盟関係になるわけですが、

 

1224年、高麗の扱いに不満がある者が、

モンゴルの使臣を殺害する事件が起こり、

国交が断絶

 

1231年、降伏勧告を促す国書が高麗に届くが

モンゴル軍が侵攻が始まり

 

1232年に高麗は首都を開京(開城)から江華島に移し、抵抗する

再び、1247年にモンゴルが高麗に侵攻し、

1258年に高麗王高宗はモンゴルに降伏する。

その際、王子(元宗)を人質としてモンゴル宮廷に差し出し、

ハン直属の親衛隊組織であるケシクに加わる。

 

1259年にモンケ・ハンと高麗王の高宗が亡くなると、

人質としてモンゴルにいた王子(元宗)は帰国し、

即位した元宗は親モンゴルとしてクビライに臣従

親モンゴル政権に反対する武臣たちが反発するが

モンゴルの力を借りて排除にに成功する。

 

1260年元宗の子、後の忠列王がモンゴルに人質として送られ

1271年に忠列王はクビライの娘を娶り、モンゴル(元)との結びつきを強くする

以後、高麗王の世子たる王子を人質に差し出し

ケシクに出仕させ、元の皇女を妃に迎えさせ、

代替わりの際に帰国し、王位を継承した。

 

元に支配された高麗王(24代元宗~31代恭愍王)の間

元宗と夭折した2王以外は元の皇女を妃として迎えている。

 

そして、いよいよ元寇(文永の役)に話を進める。

 

なぜ元は日本に侵攻したのか?

日本と南宋は正式な国交を結んでいなかったが

交易はしており、日本は木材と硫黄を輸出していた。

特に硫黄は火薬の材料になるため軍需物資を南宋に輸出していたことになる。

南宋の協力国として日本の存在が目障りであるため

 

そして元の人質だった忠列王から日本侵攻を進言したともいわれ、

その理由として親モンゴルに反対派の武臣たちの反乱軍が日本に救援の

要請をしたことがあり、武臣の反乱を抑えるためだったと考えられる。

この反乱軍を討伐したモンゴル人武将の忻都(キント)と

高麗人武将の洪茶丘(ホン・タグ)が元寇に参加している。

 

そして、元は日本に度々国書をだして通交を求めたが、

日本は蒙古というよくわからない国を無視した。

 

1274年に元は日本に侵攻し、対馬・壱岐を攻略し、

多くの島民の被害でている。

この戦いは松浦水軍が参加しており、多数の死者をだしているが、

迎撃態勢を整えて九州の御家人は博多に集結していた。

 

そして1274年10月20日 博多湾に侵攻し、

鳥飼干潟に上陸、赤坂山(福岡城)の西側にあたる 

 

ここで登場するのが蒙古襲来絵詞で有名な竹崎季長で

赤坂山側から、上陸してきたモンゴル兵を迎え撃つ

この鳥飼合戦で竹崎季長の横にいた筑後国御家人の

光友又二郎は射落とされ落命し、

季長自身も左膝に馬も左腹に矢を受け

てつはうによる攻撃もあり、轟音に驚いた馬が暴走し

手綱操作が不能になり、右側に敵のモンゴル兵を見る形になったため、

弓による攻撃ができない状況になり、

絶体絶命のピンチに陥ったが

肥前の白石勢が追い払ってくれた。

※この場所は鳥飼の塩屋の松といわれ、

現在鳥飼に塩屋橋という橋が樋井川にかかっていて

この橋に名前をとどめている。

 

モンゴル兵は鳥飼の西にある祖原山に移動して

防衛体制をとる。

 

従来は文永の役は1日で終わったと言われるが、

関東評定伝に「10月24日に大宰府で合戦、官軍が勝利し、

異賊は敗北した」とある

 

百道原・姪浜の戦いで指揮官の劉複享を

少弐景資が射落とし、この負傷により

陣が乱れ元軍が敗走したと思われる。

 

あと、和暦の10月下旬は現在の11月下旬なので

秋から冬へ季節替わりの時期で根拠地の確保ができない以上

野営するには厳しい季節になり、

冬の玄界灘を超えての補給は

より厳しくなるので、

撤退するのが合理的と

考えたのだろう

 

文永の役から750年なので

今回、取り上げましたが

弘安の役に関しては

今のところ未定です。