夜に沈む | 墜落症候群

墜落症候群

墜ちていくというのは、とても怖くて暗いことのはずなのに、どこか愉しい。

 私は床に直に敷いたマットレスの上に足を投げ出していた。
 寝転がってはいない。
 壁を背中にして、脱力しているのだ。
 私の長い黒髪が背中と壁に挟まれて、下手に身動きすると痛いので、少しの身じろぎすらも億劫で、じっとしている。
 だらりと首を下に向けるも、自分の大きいおっぱいに阻まれてお腹は見えない。
 壁と背中に挟まれる長髪はボサボサだし、おっぱいを包んでいるのもよれよれのTシャツ一枚だ。
 花奈辺りが見たら、「だらしがない!」と怒ってくるかもしれない。
 そこで私が「逆に花奈はブラとかつけて気を遣う必要がなくていいよね? 背中と胸がどっちも同じくらいの厚さだから」と言ったら完全に戦闘モードに入ることだろう。
 花奈は胸が小さい自分のことを普段あまり気にしていない風なのに、私がからかうと怒り出すのだ。
 自意識に完全に囚われている私からすると、誰かの言葉であそこまで左右される心持ちというのは、少し不思議な気がする。
 胸とは厚い脂肪に他ならない。でも、その向こうには無防備な心臓がある。今もとくんとくんと脈打っている。
 誰だって私の心臓がそこに鼓動していることを知っている。だから心臓は何にも守られていないと私は思う。
 誰かが貫こうと思えば容易く破られ動きを止める私の心臓。
 息苦しく思えて、私は溜息を吐く。
 ぽたぽたぽた、という台所からの水音が聞こえる。
 あの音を止めなければ。
 早く立ち上がらなければ。
 無音の深夜、無気力に飲まれている場合ではない。
 そうだ、コンビニにでも行こう。
 でも、私は結局動けないでいる。
 夜に飲まれそうな気分でいる。

 気が付くと、私は夜の街を歩いている。
 記憶が不確かだが、確か……コンビニに行ったのだったか。
 やたらと眩しいコンビニだった。目が開けられないくらい眩しかったことだけを覚えている。
 私はコンビニ袋をぶら下げていることに気が付いた。
 しかし、そのコンビニ袋は空だった。
 コンビニに寄ったのに袋が空なんてことがあるだろうか?
 どこかに中身を置いてきてしまったのか?
 そこでようやく私は気付くが、自分の服装もラフなTシャツとホットパンツ姿ではなくなっている。
 闇に溶け込むような黒いコートを着込んでいた。コンビニに行くだけにしては、少し重い服装にも思える。
 私は街道沿いを歩いている。
 誰にも行き合わない。
 深夜とはいっても、いくらでも人はいそうなものなのに。
 いや、でも人がいない方がいいか、と私は思い直す。
 今、人と会ったら、ナイフで刺し殺してしまいそうな気がするから。
 私は無防備な心臓の音に耐えられない。その音を他人に気取られるくらいなら、相手の心臓の音を先に止めた方がマシだ。
 世界に私だけしかいないみたい、と呟いてみたいものだが、しかし、車の通行はあるので、なんだか中途半端だ。
 しかし、私の想像は飛躍する。
 運転席の人間、そこに見える上半身の下は、大小様々な触手を生やしているのではないか?
 私以外の人間は、もう全部バケモノと化しているのでは?
 だとしたら私には都合のいい世界だな、と思う。
 バケモノならいくら殺しても構わないだろうから。きっと罪にも問われないだろう。
 私は街道を歩いていく。
 果てがないはずの街道にも果てがある。行き止まりとか突き当たりではなく、『果て』がある。
 そこは暗い闇だ。何もない黒だ。深い深い夜だ。
 私は躊躇することなく、その中に踏み込んでいく。

 目を開けると、私はベッドの上で壁に背を預けている。
 しかし、私は声を出すことができない。一切の身動きができない。
 呼吸すらも止まっていることに気付く。
 私の心臓はもう鼓動していない。
 そのことに私はひどく安心する。
 もう止まっているのだから、もう終わっているのだから、これ以上他人を恐れる必要はない。
 自分が他人に危害を加えることに怯える必要もない。
 マットレスがじんわりと濡れていることに気付く。
 見れば、部屋は浸水し、マットレスの厚みの分は重く揺らぐ黒い水に満たされている。
 黒い水は水位を増し、私の脚を浸していく。
 それは酷く粘性があり、そして酷い匂いだ。
 まるでコールタールみたいだ。
 それは確実に不快なはずなのだが、私にはその不快さを跳ね除けることはできない。
 ただ受け入れるだけだ。
 どれだけ悪いことが起きても、自分には選択肢すら与えられていないことに、なんだか気がラクになる。
 黒い水は部屋を満たしていく。
 私は黒い水に包まれる。
 私という輪郭は解けて、黒い水と一つになっていく。
 もう思考も手放され、私という存在は消えていく。
 その時、生まれてきて初めて安心することができた。

 私は、夜に沈む。