我が国を代表する思想家で、名著『共同幻想論』の著者である吉本隆明(りゅうめい、または、たかあき)氏は、『ひきこもれ』の中で、「ぼーっとする」時間の大切さを説いていた。
どのくらい大切かというと、自分の娘達(彼の子供は女の子2人)がぼーっとしていたら、母親に買い物に行くことを言いつけられた彼女達の代わりに、この我が国最高の思想家が、自ら買い物かごを持って(当時の買い物スタイル)八百屋や魚屋に行っていたほどだった。
私が以前勤めていた高収益の優良な会社は、創業社長が一代で作った会社だったが、その社長が私によく、「仕事ばっかりするな。ぼーっとする時間も大切だ」と言っていたものだった。

ただし、「ぼーっとする」とは、妄想することではない。
「ぼーっとすることならまかせて下さい」と言う愚か者は、何もしていなくても本当にぼーっとしているのではなく、頭の中で下らないことを考えているのだ。
吉本隆明氏や、私が知っているあの社長が言う「ぼーっとする」は、無念無想に近い状態だ。
松本隆氏が作詞した、松田聖子さんの隠れた名曲に『メディテーション』というものがあり、その中に、
「波のハープだけ心ふるわせ 透明になった心が流れ出すの」
という歌詞があるが、これが、良い「ぼーっと」している状態の雰囲気と思う。
なぜ、波の音が心を震わせるのかというと、自分が波と一体化しているからだ。
人間は、自然と一体化し易く、特に、夕陽や柔らかい風や星空と一体化しやすい。
電波工学の世界的権威でサイ科学研究者であった関英男博士は、若い時、受信機から聴こえてくる宇宙からの電波を聴いているうちに、それと一体化し、その後、外に出て星を見たら、星が語りかけてきたという。
「20世紀最大の詩人」と言われたアイルランドのW.B.イェイツは、「正しく」ぼーっとしていると、壁の絵が語りかけてきたという。
私が知っている感性豊かな女子小学生は、夜によく壁に普通に話しかけるそうだが、壁も何か話してくれるのだと思う。きっと、良い漫画でも読んでいるうちに、ぼーっとするのだろう。

ぼーっとしている時、人間はどうなっているかご存じだろうか?
実は、人間本来の姿に戻っているのである。
では、人間本来の姿とは何だろう?
それは、時間と空間を超えた存在だ。
時間や空間を超えようなどと思わなくて良い。
元々、そんなものを超えているのだから。
その本来の姿になるためには、ただ、「ちゃんと」ぼーっとすれば良い。

正しくぼーっとするためには、波や風や光や、あるいは、絵や音楽や漫画や、自分のお気に入りのものに静かに没頭し、それと1つになると良い。
個人的には、ベドルジフ・スメタナの『わが祖国』の第2曲『モルダウ』を聴くと、ぼーっとしやすい。特にクラシック好きでなくても、聴き惚れてしまう美しい旋律の曲で、この『モルダウ』だけが演奏されることもよくある。
そして、W.B.イェイツは「憎むことをやめた時に」そうなりやすいと言っていたと思う。
誰かを、あるいは、何かを憎んでいると、ぼーっとすることは出来ない。

『マスターの教え』の中で、マスターが、「ぼーっと雲を見上げている時に心に入り込んだことは実現してしまう」といったことを言う。
ただし、ぼーっとした時に、願い事をする必要はない。
流れ星が消えない間に願い事をする離れ業をする必要がないのと同じだ。
流れ星を見ている時は、一瞬、ぼーっとするものだ。
そして、決意したことがあるなら、その時に叶ってしまうのである。
とはいえ、特に流れ星を待つ必要もなく、ただ、ぼーっとすれば良い。








  
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