大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

赤穂義士が眠る泉岳寺 Sengaku-ji temple

2018年11月14日 09時00分21秒 | 港区・歴史散策
Sengakuji is one of the most famous and popular Buddhist temple in downtown district of Tokyo.
Sengakuji was built by Tokugawa Ieyasu who was the first Shogun of Tokugawa government in 1612 near Edo Castle. However, after only 30 years, it was devastated by fire and this led to a reconstruction at the present site. The biggest reason for making Sengakuji famous is that there is a grave of Ako-gishi in the precincts.

深まりゆく秋を感じながら、久しぶりに赤穂義士ゆかりの高輪泉岳寺を訪れました。ここ泉岳寺では毎年、師走の14日には盛大な義士祭りが行われています。義士祭りが行われる日は境内は派手な幟が立てられ、線香の煙が漂う中で義士の墓へ詣でる多くの参拝客で賑わいます。

泉岳寺は旧東海道筋(現在の15号線)からほんの僅か奥まった場所に山門を構えています。かつては旧東海道に面して総門が置かれていたようですが、時代の変遷の中でその姿は失われています。御存じのように泉岳寺は曹洞宗の寺院です。いわゆる禅宗の寺ですが、禅宗の寺の伽藍配置は一般的に総門、中門、山門、仏殿(本堂)、法堂、方丈がほぼ一直線に並んでいます。ですから泉岳寺も総門、中門、山門、仏殿が一直線に並んでいました。
泉岳寺の最寄りの駅は都営地下鉄の泉岳寺駅です。この泉岳寺駅のA2出口から緩やかな坂道を進んでいくと泉岳寺の中門へ至ります。その距離わずか150mです。

泉岳寺中門 Middle Gate

この緩やかな坂はかつて車坂と呼ばれていました。そしてこの坂道の両側の地域は芝車町と呼ばれていました。この「車」の由来は江戸時代にはこの地域一帯に牛車を曳く牛小屋大八車の置き場が並んでいたといいます。このことから車坂、車町と呼ばれていましたが、実はこの場所こそ大八車の発祥の地と言われています。

また、この辺りの地名は高輪と呼ばれていますが、この地名の由来もこの車と関わりがあるようです。実は使えなくなった大八車の車輪をうず高く積み上げたことから「高く積み上げられた輪」ということで「高輪」という地名になったとも言われています。

また、この近くに願生寺という寺が堂宇を構えていますが、この寺の境内には大八車を曳いていた牛の霊を鎮める「牛供養塔」が置かれています。

それでは泉岳寺の中門へと進んでいきましょう。かつては総門の次に現れる門だったので「中門」と呼ばれました。この中門は江戸時代の天保7年(1836)に再建されたものです。中門には「萬松山」の山号が掲げられています。「萬松山」の意味は「萬代にわたって松平家が栄える」ということです。

中門の山号 Main gate

ここで言う「松平家」は徳川将軍家のことをいいます。実は泉岳寺は開幕の祖である家康公と深い関わりがあります。そもそも泉岳寺は家康公の命によって創建された寺です。家康公は幼少の頃から9年間の長きに渡って駿府の今川義元の下で人質生活を送っていました。そしてあの桶狭間で義元公が信長に討たれた後、家康公は故郷の岡崎に戻り、三河の守護職となり、信長との同盟締結を経て、戦国時代を生き抜いてきました。そして関ヶ原の戦の勝利で天下を手中に収めたのです。

家康公は天下をとった後も、幼少時代に過ごした駿府での生活を忘れていなかったようです。そして義元公に対しても尊敬の念を抱いていたようです。そんなことで家康公は義元公の菩提を弔うための寺を江戸に創建することを決めたようです。
その寺が泉岳寺なのです。もともとの泉岳寺の創建は家康公が亡くなる4年前の慶長17年(1612)で、開山の地はお城に近い外桜田(現在の警視庁)と言われています。

しかしその後、三代将軍家光公の時代の寛永18年(1641)の寛永大火で外桜田の泉岳寺は消失してしまいました。
そして泉岳寺はここ高輪に移転することが決定されるのですが、その再建がなかなか進まなかったといいます。これに業を煮やした家光公は五家の大名を指定して堂宇の再建を急がせたのですが、その大名家の中に赤穂・浅野家の名前が入っていたのです。ということは浅野家と泉岳寺の繋がりはここから始まったのです。

将軍家と深い関わりをもつ泉岳寺は広大な寺領の中に七堂伽藍を構え、曹洞宗江戸三ケ寺の一つに数えられ権勢を誇っていました。

中門を抜けると、参道がまっすぐにのびています。その参道の右手に門前らしい雰囲気を漂わせる店が数軒並んでいます。これらの店は参拝客のための土産物を販売しています。

参道に並ぶ店 Shops in the precinct

そして参道の奥に二層の山門が構えています。この山門は天保3年(1832)に再建されたもので、2階には十六羅漢様が安置されています。

山門 Main gate

この山門の右脇に誰もが知る有名な人物の像が置かれています。ご存じ大石内蔵助吉雄です。大正10年に除幕されたもので、その姿は元禄羽織に手には連判状を持っています。

大石内蔵助吉雄の像 Bronze statue of Kuranosuke Oishi

それでは山門の脇をすり抜けて、本堂前の広場へと進んでいきましょう。石畳が敷かれた広場の右側は庫裡の建物がつづき、一番奥にご本堂が置かれています。この本堂は終戦後の昭和28年(1953)の再建です。ご本堂には白い文字で書かれた「獅子吼(ししく)」の扁額が掲げられています。

ご本堂 Main hall

獅子吼の扁額

「獅子吼」とは釈尊が説法する様子がまるで獅子が吼ええているような様子であることを意味しています。すなわち釈尊が大衆に恐れることなく説法することを指しています。

さ~て、お待たせいたしました。本日のタイトルの「赤穂義士が眠る泉岳寺」の話題へと進んでいきましょう。泉岳寺と言えばまず真っ先に頭に浮かぶのが「赤穂四十七士」です。それと同時に浅野内匠頭長矩が眠る寺として知られています。このため泉岳寺の境内を彩るすべてが赤穂四十七士に関わるものばかりです。

それでは順番に見学していくことにしましょう。参考までに泉岳寺境内に置かれている赤穂四十七士の記念碑の簡単な見取り図を下記に掲載いたします。



境内の広場から左手へと伸びる細い道を進んでいきましょう。この細い道の突き当りに赤穂四十七士の墓があります。
そんな道の脇に現れるのが「主税梅と瑤池梅」です。この主税梅は大石主税がお預けになった松平家の三田屋敷で切腹した庭に植えられていた梅の木と言われています。
また瑤池梅は義士の墓守をした堀部妙海法尼瑤泉院から賜った鉢植えの梅をここに移植したものと言われています。

そして少し進むと、こんどは「血染め梅・血染め石」が置かれています。これらは浅野内匠頭長矩が田村右京大夫邸の庭先で切腹した際に、その血がかかったと伝えられている梅の木と庭石です。

血染め梅・血染め石 Chizome plum tree and stone

御存じのように、浅野内匠頭長矩は元禄14年3月14日に江戸城内松の廊下で吉良上野介に対して刃傷事件を起こして、即日切腹を言い渡されたました。なんと享年35歳という若さです。
そして「風さそう 花よりもなお 我はまた 春の名残りを いかにとやせん」という時世の歌を残しています。

そして次に玉垣に囲まれた場所に置かれているのが「首洗い井戸」です。時は元禄15年師走の14日、赤穂四十七士が本所松坂町の吉良邸に討ち入り、見事、主君の仇である吉良上野介の首をあげ、泉岳寺に眠る主君の墓前に首を供える前に、この井戸で首を洗ったと伝えられています。

首洗い井戸 Kubi-arai well

このあと、右手に「天野屋利兵衛」の顕彰碑が現れます。この人物は大阪の商人で浪士たちの討入りを支援したと伝えられています。しかし浪士の討入り前に、浪士たちに槍20本を送ったかどで捕縛され拷問にかけられました。
しかし拷問にも白状しなかったのですが、浪士たちの討入り成功後に自白したといいます。
尚、仮名手本忠臣蔵の中では「天河屋義平」の名で登場し、「天河屋義平は男でござる。子にほだされて存ぜぬことを存じたとは申せぬ」なんていう名台詞が有名になりました。

天野屋利兵衛の顕彰碑

顕彰碑に刻まれた文字の一番下の二文字「浮図(ふと)」とは塔、仏塔さらには僧侶や仏教徒の意味を持っています。

天野屋利兵衛の顕彰碑を過ぎると、石段が現れます。この石段を上ると赤穂四十七士と浅野内匠頭長矩そして正室の阿久里姫(瑤泉院)の墓へと通じていきます。

浅野内匠頭長矩墓

その石段を上ったところに門が置かれています。この門はもともと浅野家の上屋敷(鉄砲洲)の裏門として使われていました。

墓域へと通じる門 Gate to Ako Gishi's Graves

それでは墓域へと歩を進めてまいりましょう。私たち日本人にとって「忠臣蔵」「赤穂浪士」「仇討」はいつの時代でも誰もが感動し涙するドラマではないでしょうか。判官贔屓なんて言葉もありますが、この赤穂浪士の義挙は日本人の血にながれる「武士道」「忠君」「潔さ」を長く伝える美談そのものであると感じます。

そんな義士たちが眠る墓域は泉岳寺境内の中でも特別な場所です。むしろ霊域といってもいいような佇まいを見せています。
そんな霊域に眠る義士たちの墓の配置図を下記に掲載します。

赤穂義士の墓域図

御存じのように赤穂浪士の方々は討入り後、4家の大名家にお預けになりました。その内訳をみると、大石内蔵助吉雄を含む17名は肥後熊本54万石の細川家、大石主税や堀部安兵衛など10名は伊予松山藩15万石の松平家、その他10名が長府藩6万石の毛利家、そして9名が三河岡崎藩5万石の水野家にそれぞれ分かれて預けられました。

しかしこれら4家に預けられた人数の合計は46名です。おやっ、おかしいな! 赤穂浪士は四十七士なはずですが……?
一人足りません。実は、この一人は「寺坂吉右衛門」という人物です。

この寺坂吉右衛門は討入り後、大石内蔵助の密命をおびて行方をくらませています。その後、討入りから20年後に江戸に戻り曹渓寺(麻布)の寺男になっています。そしてこの寺の口利きで土佐山内家の分家に仕官し、82歳で亡くなっています。そして墓は曹渓寺に置かれています。

浪士の墓は前述の4家ごとに分けて配置されています。そして墓石を数えると全部で48基あります。は~て、これもおかしいな! 赤穂浪士は四十七士なはずですが……?

墓域への石段

これにも訳があります。上記の寺坂吉右衛門は四十七士の一人ですから問題ないのですが、もう一人はいったい誰なのでしょうか? その一人が実は「萱野三平」という人物です。この方は討入りには参加していない人物です。

萱野三平はもともと討入りメンバーの一人だったのですが、父親と意見が合わず、最終的に討入りに加わることができず、討入り前の元禄15年1月14日に26歳で自刃しました。このため彼の志を顕彰する目的で四十七士と共に祀られています。
よって先の寺坂と萱野三平の2名を加えて、48基の墓石が置かれています。

岡崎藩水野家お預けの9名の墓

岡崎藩水野家の墓の一番奥に寺坂吉右衛門の供養墓が置かれています。寺坂の墓には「遂道退身」の文字が刻まれています。
彼のその後に人生を表すように「道を遂げて、身を退く」と刻まれています。

墓石に刻まれた戒名の一番上には「刃」という文字があります。この「刃」の文字の意味は傑出した人物を表していると言われています。また一説には、本来は討入りという罪を犯した罪人なのですが、武士という身分で切腹をしたことを表しているとも言われています。

「刃」の文字

細川家お預けの17名の墓

細川家お預けの17名の墓

毛利家お預けの10名の墓

大石内蔵助の墓

大石主税の墓

赤穂浪士が切腹してから今年(2018)で315年も経っています。長い長い時の移ろいを経ても、未だに日本人の心の中に残る彼らの義挙は未来永劫、引き継がれて行くことと信じています。





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