次に気になったのは真澄が国仙禅師の名とその存在について、筑摩の御湯での邂逅よりも以前から知っていたという点である。
国仙が真澄の叔父にあたる人物にとって同じ法門の先輩に当たるといった縁で、「遊覧記」には真澄がこの出会い以前から国仙の存在について既に承知していたと記されてはあるが、ここにはその真澄の叔父の僧の名は記されてはいない。
真澄の叔父に当たる人物は国仙とは同門の法弟であるとは言うものの、どういった法統に属していたのかは語られてはいないから詳しいことは判らないが、国仙の法脈や年譜を追って行けば、殊によったら真澄の叔父のとの接点など見出せる可能性も出てくるかも知れぬと思いついた。
併せてもう一点、そもそも備中の円通寺の住持である国仙が、この時にどのような用向きや理由があって、ここ信州の筑摩の湯に滞在していたのかについても、こうした作業をしてみて行ったら判るかも知れないと云った期待も働いて少しばかり調べてみることにした。
国仙禅師の年譜 国仙(1723‐1791)
享保11年(1726年)・・孤児となり町田・小山田の大泉寺の高外全国の許で養育を受けたと伝わる。 (4歳)
享保12年(1727年)・・師の全国が井伊家7代井伊直惟(なおのぶ・井伊直弼の曽祖父)から請われて近江・彦根の井伊家菩提寺清凉寺へ第9世として転住する。国仙はこれに随侍したとされる。 (5歳)
享保20年(1735年)・・彦根清凉寺にて国仙は全国和尚より出家得度を受ける。 (13歳) この年、全国は井伊直惟が病身を理由に弟に家督を譲り彦根藩主を隠居するのに伴って三河八並村(現・豊田市矢 並)に医王寺を開創。
元文元年(1736年)・・直惟が37歳で卒去したのを機にして全国和尚は清凉寺を退董(退任)。 (14歳)
元文2年(1737年)・・全国和尚は三河医王寺に開山第一祖として晋住。国仙も随従したとされる。 (15歳)
従って、国仙が引き取られた先の町田小山田の大泉寺で暮らしたのは約1年で、その後、全国の転住先の彦根・清凉寺で過ごした期間は約10年間ということになる。
全国に随い、三河医王寺に移るようになった国仙15歳の頃から約3年間諸国修行に出向き、大義宗孝・華厳曹海・頑極官慶・悦厳素忻・関山道察らの師家に参じたと伝わる。
寛保元年(1741年)・・医王寺に戻り、師の全国より印可証明を受ける。 (19歳)
寛保2年(1742年)・・全国が73歳で示寂。 (20歳)
孤児の幼児が全国和尚の許に預けられて後、師弟として暮らした時間は16年に及び、国仙は全国の法嗣が23人あったとされている中の一人と云うことになるが、全国が三河医王寺へと入ってから亡くなるまでの5年間、国仙の拠点にした寺院は当然ここにあったと想像されるが、全国の亡き後の国仙の動向はどのようであったのか調べてみると、次にと国仙の年譜が確認されているのは
宝暦4年(1754年)・・鉄文道樹が信濃伊那の金鳳寺で諸堂を復興して開堂結制、国仙が首座に充てられる。(32歳)
である。
師の全国の死後、20歳から32歳までの国仙和尚の12年間の動向は如何であったのか、更には、彼が信州伊那の金鳳寺で首座を務めたという後、首先住職先として彼が4歳の時に最初に預け入れられた寺である武蔵町田・小山田の大泉寺へ第25世として法兄から継承した時まで(宝暦年中であるが、その年次はハッキリとは判っていないようだ)の間(14・5年になるのだろうか。)の動静は把握できない。
が、ここで判るのは師の全国に随って彦根。清凉寺から三河の医王寺に移った15歳から武蔵の大泉寺に晋山する(35歳くらいか)迄の凡そ20年間は国仙にとって所縁のあった地域は三河・信濃がその中心であったと推定することが出来そうである。
そのような見方に立って考えると、まず一点目に気にかかった真澄の叔父が国仙とは同門の法弟に当たると云った関係性について、おそらくのこと、国仙の15歳から35歳頃までの三河や信濃に修行の拠点があったと考えられる約20年間の時期に成り立った可能性が高いと云えるだろう。
真澄の出身地は三河の岡崎とも豊橋とも云われ、真澄の叔父にあたる法師も三河が生地であったろうから同地やその周辺地が修行をした場であったろうから国仙がこの地域に居た時期と重なり国仙とこの叔父との接点を持たれ、さらにまた、真澄自身も幼少時には岡崎城下に所在し浄瑠璃姫伝説でも知られる、国仙とは同じ宗旨の曹洞宗の成就院で稚児として過ごした時期もあったそうだから、この叔父の口から同じ宗門仲間とも云える甥の真澄に対して国仙和尚の名が語られたのであったのだろう。
ここでもう一人国仙と縁の深い三河出身の鉄文道樹について触れて見る。
生年は宝永7年(1710年)。
寛保2年(1742年)32歳で遠江・掛川に在る少林寺に於いて黙子素淵より嗣法する。【この年に国仙の師・全国が示寂している。】
延享3年(1746年)信濃・飯田にある増泉寺へ首先住職する。【同年に師・素淵が少林寺にて示寂。】
延享4年(1747年)一年余で増泉寺を辞して、信濃・伊那富県の金鳳寺へと転住。
寛延元年(1748年)冬、金鳳寺にて法兄の頑極官慶を請じて結制を修し受戒会を行う。
宝暦4年(1754年)夏、金鳳寺の諸堂を復興して結制開堂し国仙が首座となる。
宝暦11年(1761年)金鳳寺より備中玉島の円通寺の第9世として晋住する。
明和5年(1768年)出府して円通寺の法事会公許を訴える。
明和6年(1769年)円通寺を辞す。国仙が後任として晋住する。
明和7年(1770年)尾張青山村(現・愛知県西春日井郡豊山町)に泉松寺を法地開山して入山。第1世となり寺内の天地庵に住す。 【1808年に千松寺に改称されている。】
天明元年(1781年)泉松寺にて示寂