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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

ファービアン

2025-03-28 19:47:30 | 読んだ本
E.ケストナー/小松太郎訳 一九九〇年 ちくま文庫版
これは去年12月に街の古本屋でたまたま見つけた文庫。
知らない書名だったので、ケストナーってあのケストナーだよなと、表紙めくってカバーそでんところの著者紹介みて、『エミールと探偵たち』を書いたケストナーだとたしかめた。
あとは裏表紙のほうめくってみて、鉛筆書きの値段たしかめたら、即買い決めた。(なんか最近、(特に外国文学の?)文庫本でもおどろくような値段のときあるんで。(この店はそうでもないけど。))
1931年の作品で、副題が「あるモラリストの物語」となってるけど、モラリストってなんだあと私なんかはわかってないわけで。
主人公ファービアンはタバコの広告をつくる仕事をしてる30男で、ベルリンで下宿してるとこへ心配してる母親から手紙が来たりする。
時代はナチス党が勢力を伸ばしてるころで、世間はなにかと騒がしいが、なんかあやしそうなクラブとかカフェとかも活況のようで、失業は多いかもしれないけど、そんな暗いってばかりでもなさそう。
ファービアンは、だんないるのに男をひっぱりこむ女と関わりあいになったり、友人の新聞編集者が紙面を埋めるためにウソの記事をさらっと書くのを見たりして、なんか嫌だ厭だと思う毎日のようで。
>「ぼくが資本家でない、っていう意味はだね、全然金をもうけようっていう気がないんだ。何のために金を儲けるんだ。金を儲けてどうするんだ。腹一杯喰うためなら何も出世する必要はない。(略)とにかくぼくは資本家じゃないよ! ぼくなんか利子も欲しいと思わないし、剰余価値も欲しいと思わないよ:
>ラブーデは頭をゆすぶった。「きみは呑気だな。金がもうかって、その金が要らなきゃ、権力と交換することができるんだよ」
>「権力があったからって何になるんだい。きみが権力を欲しがってるのは分ってるよ。だけれどぼくはそんなものは欲しくないんだ。欲しくないのに、権力を得たって何になるんだ。利欲と権勢欲とは姉妹だよ。しかしぼくとは血がつながっていないんだ」(p.75)
なんて友人とのやりとりから、なんとなく性格がわかるような気がする。
風変わりな若い娘たちと出会ったときには、
>「昔は女が男に身をまかせると、男はそれを贈物として大切にしたものだけど、いまの男はお金を払ってくれて、あとはもうお金を払って使ってしまった商品みたいに、いつか女を捨ててしまうのよ。現金払いの方が安上りだと思ってるのねえ」
>「昔は贈物と商品とは全然別なものでした。今日では贈物は金のかからない商品なんです。あんまり安いもんだから、買手は信用が置けないんです。きっといい加減なまやかしものだろうと思っちゃうんです。まあ、たいていはそれが本当の場合が多いんですがね。なぜかっていうと、たいがい女は後になって請求書を出しますからね。突然男はその贈物の道徳的な値段を払い戻さなきゃならないんです。精神的な為替相場で、終身年金として払わされるんですからね」(p.129-130)
なんてやりとりがあるけど、このへんは個人の気質ってよりは、時代の風俗を語ってんだろうなという気がする。
そんなこんなでダラダラしてるだけかと思いきや、新しいガールフレンドができたとたんに、会社をクビになったりして、その後も不幸な出来事が続発。
田舎の親元へ帰ったところで、
>「どうするかまだ分りません」と、ファービアンはいった。「ここで暮すようになるかもしれません。ぼくは仕事がしたいんです。働きたいんです。もうそろそろ目の前に一つの目的を持ちたいんです。見つからなきゃ発明しますよ。もうこうやっちゃいられません」(p.308)
なんて、やる気を見せるんだけど、ハッピーエンドにはならない。
ファービアンは、「その反対が明白に証明されないかぎり、ひとを見たら気違いと思え」(p.142)って、人間と付き合う場合に役立つ仮説をもってるけど、母親のほうは「人間は習慣の動物なり」(p.308)なんていうのが口ぐせらしい、なんかおもしろい、エミールとおかあさんみたい。
章立ては以下のとおり。最後の「ファービアンと道学者先生たち」は著者があとがきのつもりにしていたが削除されたもの。「盲腸のない紳士」は1931年初版のとき出版社の意向で収録を拒否されたもので、本来は第11章の前に入るものらしい。
第一章 カフェのボーイが神託を告げる それでも相手は出かける 「精神的ちかづき」の会
第二章 世の中にはおそろしく厚かましい淑女がいること 弁護士に異存はないこと 乞食は品性を堕落させること
第三章 カルカッタに十四名の死者が出たこと 嘘をつくのは正当なこと かたつむりが環になって這うこと
第四章 ケルンの大寺院のように大きなシガレットのこと ホールフェルト夫人の好奇心のこと 間借人がデカルトを読むこと
第五章 ダンスホールでまじめな会話 こっそり剃っているパウラ嬢 モル夫人がコップを投げること
第六章 メルキッシェス・ムゼーウムでの決闘 次の戦争はいつ起こるか 医者は診断を誤らぬこと
第七章 舞台の上の狂人のこと パウル・ミュラーの大冒険 浴槽の工場主
第八章 大学生が政治に没頭すること 父親のラブーデがこの世に惚れていること 外アルスターでの平手打ち
第九章 風変りな若い娘たちのこと 死ぬはずの男がぴんぴんしていること 「従妹」と呼ばれるクラブのこと
第十章 不道徳の局所解剖学 男女の道は尽きることなし ちょっとの違いが大きな違いのこと
第十一章 工場で寝耳に水 クロイツベルクの奇人 貧乏は一つの悪い習慣であること
第十二章 戸棚の中の発明家 働かないのは恥であること 母親が登場すること
第十三章 百貨店とショーペンハウアーのこと 逆の女郎屋 二枚の二十マルク紙幣
第十四章 ドアのない路のこと ゼロフ嬢の舌のこと 掏摸のいる階段
第十五章 模範的な青年のこと 駅の意義 コルネリアが一通の手紙をしたためること
第十六章 冒険を求めて ヴェディングの銃声 ペレスおじさんの遊楽園
第十七章 犢の肝臓、ただし筋のないところ ファービアンが意見を述べること セールスマンが堪忍袋の緒を切らすこと
第十八章 がっかりして家に帰る 警察はどうしようというのか 惨憺たる光景
第十九章 ファービアンが友だちのために弁護をすること レッシングの肖像が真二つに割れること ハーレンゼーでの孤独
第二十章 自家用車のなかのコルネリア 寝耳に水の教授 ラブーデ夫人が失神すること
第二十一章 法律家が映画スターになること 昔の知人 母親が軟石鹸を売ること
第二十二章 子供の兵舎を訪れる グラウンドの九柱戯 過去が街角を曲ってくれる
第二十三章 ピルゼン・ビールと愛国心のこと トルコ式ビーダーマイヤーのこと ファービアンがロハでもてなされること
第二十四章 クノル氏に魚の目があること 日刊新聞は有能の士を必要とすること 泳ぎは習っておくべきこと
ファービアンと道学者先生たち
盲腸のない紳士
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サム・ホーソーンの事件簿V

2025-03-20 19:20:11 | 読んだ本
エドワード・D・ホック/木村二郎訳 2007年 創元推理文庫
これはたしか去年12月ころに買った中古の文庫、ひさしぶりに読むことになった、シリーズの続編。(前作読んだときから1年以上空いてしまったが。)
探してたわけでもなくて、たまたま見つけた、っていうか、おや、まだ続きがあったんだって感じで、ちとよろこんだ。
何巻まであるのかも知らなかったんだけど、この第5集を買ったすぐあとに、地元の古本屋で6冊セットで手ごろな値段になっているのを見たときは、ありゃりゃ最初からこれあればと思った。
まあ、第一集を読む時点では、続きを読みたくなるかどうかなんてわかんなかったんだから、揃いをみつけても買おうとしたかどうかはわからんがね。
シリーズの発表順の第49作から第60作を順に収録したもので、物語世界は1939年、40年といったところ、スタート時には学校出たばかりだった主人公サム・ホーソーン医師も四十代前半になっている。
童話的性格のつよいとこが好きで読んでんだけど、登場人物はちゃんとトシをとるし、時代背景は現実に即してる、昔々のいつかどこかでって童話ではない。
ドイツのおかげでヨーロッパでは戦争が始まって、アメリカも参戦するんだろうかって人々は心配してるが、アメリカ国内にもヒトラーを支持するひともいたりして、そういう関連からの事件も本書内には複数起こってる。
(こないだ読んだチャンドラー作品の1941年ものにも、アメリカ国内にいるナチス勢力なんてものが描かれてたんで、私には自然に受け入れられるとこあった。)
動機はまちまちであれ、あいかわらずサム先生のまわりでは、不可能殺人が起こりつづけて、近所で見たこともないロードハウスがあったが後で行ってみたらやっぱり見つからなかったりとか、郵便受けに本を入れたはずなのに監視しているまえで爆弾に変わっちゃってたりとか、水害のため墓地の柩を移動させようと掘り出してみたら真新しい死体が入ってたりとか、もう大変。
毎度おなじみレンズ保安官は、
>「先生、《アップル・オーチャード》なんて存在しないんだ。これはあんた好みの不可能犯罪じゃないそ。殺人犯が嘘をついてるだけだ」(p.30)
とか、
>もっとも素晴らしい感想を述べたのは、一時間足らずで現われて死体を見たレンズ保安官だったよ。「あんたは今まで以上に厄介な事件をもたらしてくれたぞ、先生。きのう生きていた人間がどうやって二十年も埋められていた柩の中で殺されたんだ?」(p.90)
とか、
>レンズ保安官はただ首を横に振った。「あんたの標準から見ても、これは不可能だぞ、先生。(p.292)
とか、もーいいかげんにしてくれよ、先生は不可能なのが好きなのはわかったから、みたいなセリフを吐くのが妙におもしろい。
街のなかでも評判らしく、町会議員をして、
>メイヴィスがせせら笑った。「もしこれもあなたが好むところの鍵のかかった部屋の謎だとしたら――」(p.224)
なんて言ったりするんで、サム先生は名探偵というより、犯罪を運んできちゃう “ウミツバメ” と思われてんぢゃなかろうか。
それでもなんでも、毎回とんでもない謎が提示されたとしても、私は深く考えたりしないでバンバン読み進んでく、前半にタネをこっそり仕掛けといて、あとで鮮やかに答えをみせてくれるのが楽しいから。
短いんだよね、それにストーリー展開のテンポがいい、いまの私の日常にはときどき片道20分くらいの電車移動の機会があるんだけど、そのなかで一篇が読めちゃう、今回はそうやってすぐ読んでしまった。
一読したなかで気に入ったのは、「消えたロードハウスの謎」と「園芸道具置場の謎」あたりかな、犯人がそんなこと仕組んでたのかって、ちょっと驚かされるとこがいい。
さてさて、それはそうと、五年の間つとめてくれてサム先生がたいへん身近に感じていた看護婦が去ることになる一方、隣町とのあいだにできた新しい動物病院の女性獣医師がとても魅力的なひとだと感じたりして、犯罪事件とはちがった方面でなにか新しい展開があるのかもなんて気になってくるシリーズでもある。
収録作は以下のとおり。なお、最後の「レオポルド警部の密室」はこのシリーズとは別のレオポルド警部ものと呼ばれる短篇のひとつ。
消えたロードハウスの謎 The Problem of the Missing Roadhouse
田舎道に立つ郵便受けの謎 The Problem of the Country Mailbox
混み合った墓地の謎 The Problem of the Crowded Cemetery
巨大ミミズクの謎 The Problem of the Enormous Owl
奇蹟を起こす水瓶の謎 The Problem of the Miraculous Jar
幽霊が出るテラスの謎 The Problem of the Enchanted Terrace
知られざる扉の謎 The Problem of the Unfound Door
有蓋橋の第二の謎 The Second Problem of the Covered Bridge
案山子会議の謎 The Problem of the Scarecrow Congress
動物病院の謎 The Problem of the Annabel's Ark
園芸道具置場の謎 The Problem of the Potting Shed
黄色い壁紙の謎 The Problem of the Yellow Wallpaper

レオポルド警部の密室 The Leopold Locked Room
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解体新著

2025-03-14 19:40:45 | 読んだ本
百目鬼恭三郎 平成四年 文藝春秋
これは去年5月ころに買い求めた古本、読んだの最近。
著者は1991年に亡くなってるので、没後一年で出された、最後の書ということらしい。
初出は第一部が「諸君!」で1985年から1990年、第二部が「三省堂ブックレット」で1986年から1990年。
どっちも単純にほぼ発表順に並べられてる、一篇あたりの分量は短くて、第一部が単行本で3ページ、第二部は2ページしかない。
『風の書評』のひとの書評なんでね、個別の本の内容紹介がどうのこうのより、バッサバッサと斬りつけるような一面が、読んでておもしろくてしかたがない。
>日本はいまや経済的には超大国になっているのに、外国人崇拝の風習は一向に改まらないようだ。何の取り柄もない平凡な日本文化論も、著者が外国人となると、わけもなく感心されるから、外国人にとって日本はさぞかし住みよい国にちがいない。もっとも、これは、片言をしゃべるオウムがめずらしがられるようなものかもしれず、感心されて得意になる外国人はバカだということになる。(p.18)
とか、
>もうイヤになるほど繰り返し警告してきたにもかからわず、新聞・雑誌での無責任な書評は少しも減ずる気配がない。評者の顔触れをみると、いずれも高名な学者、作家、評論家であるから、よけい理解に苦しむのである。結局、相対的に文化の水準が下落した、とでも納得するほかはあるまい。(p.30)
とか、
>私は、記号論とかポスト構造主義といった先端的な現代思想を武器にして、一見精緻らしく仕立てた文学論は、めったに読まないことにしている。何度読み返してもわからないのと、どうせこれらは対象作品の本質をつかんではいまい、と思われるからだ。理解できないくせにどうしてそんなことがいえるか、と反問されるかもしれないが、文学の本質などというものが彼らの思考の埒外にある、ということを思い出してほしい。(p.79)
とか、
>国際関係論とか国際政治学を専攻する学者が、論壇ジャーナリズムに寄稿した論文は、あまり読まないほうがいい。彼らの論調は、一見日本の現在と未来を憂慮しているかのように装っているけれど、その実は日本をバカにしており、読むと腹が立ってくるからだ。(p.85)
とかって書き出しで始まってると、この本を読んでごらんなさい、ぢゃなくて、こんな本読むな、って書評かいって思わされて、それがおもしろい。
(どーでもいーけど、私にとって映画評ってそうあってほしいんだよね、「これは駄作、見るな、時間のムダ」って言ってほしい。なんでもホメちゃうのは評論家ぢゃなくて宣伝屋でしょ。)
んぢゃ、どういう考えで俎板にのせる本を選んでんのかと思うんだが、
>私にとって書評すべき本は三通りある。その一は世評は高いのに実質がそれに伴わない本であり、その二は積極的に人に奨めたいと思う本である。その三はやや複雑で、一般読者には面白くなかろうから積極的には推せないが、私自身の好みにあっているためについ吹聴したくなる、といった種類の本である。(p.142)
ということで、積極的にすすめてるものが少ないようにみえるのは、かなしいことに世の中には第一の種類に属する本が多いってことなんだろう。
すごくアタマいいひとなんで、わけわからん文章にあたると、わかったふりをすることなく、なに書いてあるかわからんと言うとこがいいですね。
文学評論について、
>私は文学評論の類を読むのが昔から苦手だった。正直いって何をいおうとしているのかがすんなりわかった場合はほとんどないし、せっかく苦労して大要をつかんでも、その論旨は首肯しがたいものが多かったからである。これでは骨折り損のくたびれもうけではないか。(略)
>(略)その人間に合った服を探すのではなくて、あらかじめ用意した服に人間を合わせようとするのが、近代批評の通弊だが、この評論もまたその流を脱しておらず(略)(p.172-174)
みたいに言ってくれてるの読むと、そうかあと思う。
古典の伝記作品をジャーナリスト的だと批判するところで、
>(略)私にいわせると、扱う事物についての全体像を見極めようとしないで、読者の表層の感情を刺激できさえすればそれで満足してしまうのが、洋の東西、古今を問わずジャーナリストの第一の特徴である。(p.71)
みたいにジャーナリストの性質を説明してくれてるとこなんかも、参考になりますね。
あと、読んでくなかで感心させられるのは、たとえば「戦争の悲惨が再現されないように惨禍の全容を認識しよう」みたいな本に対して、
>いうまでもなく、戦争の惨禍は、その属性であって、原因ではない。従って、戦争の悲惨さをいくら強く認識したところで、戦争が起こる原因を解消しはしないから、戦争を抑止することはできない。戦禍の記録物のほとんどが、その意図に反して、残酷趣味を刺激するだけの効果に終わっているのは、このせいなのである。(p.24-25)
っていうふうに冷静に語る論理ですね、そういうのは好きです。
というわけで、読んでみたくなる本はあまり見つからないんだけど、めずらしく「とにかく面白くて、読みはじめたらやめられない科学史だ、といっておこう。」(p.120)なんて言っている、板倉聖宣『模倣の時代』は、気になりました。
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錯覚の科学

2025-03-07 19:07:35 | 読んだ本
クリストファー・チャブリス&ダニエル・シモンズ/木村博江訳 2014年 文春文庫版
これは、たしか去年8月ころに買い求めた古本の文庫。
丸谷才一さんの『人魚はア・カペラで歌ふ』のなかで、「一読して、すこぶるおもしろかつた」とあったんで興味もった、モーツァルト効果の話の元ネタにされてた。
日本での単行本は2011年、原題「The Invisible Gorilla」は2010年の刊行。
見えないゴリラ、ったあ何のことよと思うんだが、これは心理学の実験。
被験者にバスケットボールのゲームの映像を見せて、片方のチームのパスの数を全部かぞえてくれって課題を出す、それで一所懸命見てると、その映像にはゴリラ(着ぐるみ)が登場してカメラに向かって胸を叩くまでする、その間およそ9秒なんだが、実験終わったあとに被験者に聞くと、およそ半数がゴリラに気づかなかったという。
人は見ようとしてないものは見えてないって錯覚に関する話なんだが、それだけぢゃなくて、見えなかった人が後でタネ明かしされると「ウソだ、そんなの絶対いなかったって」って反応するとこまで含めて、重要な問題ありなんぢゃないかと。実験受けてないひとに話だけすると、「自分だったら絶対に気づくよ」って答えるとかね。
ということで、
>日常的な錯覚は、人の思考や決断や行動に影響をあたえ、人生まで変えることがある。私たちの目的は、それをお伝えすることだ。錯覚の影響力を正しく理解できれば、自分の行動や思考について、これまでとはべつの見方ができ、適切な行動がとれるようになるだろう。(p.28)
ってあたりがテーマであって、日常的な錯覚には、「注意力、記憶力、自信、知識、原因、可能性にまつわる錯覚」(p.10)の六つがあるとして、それぞれに章を設けて説明してくれる。
注意力の錯覚ってのは、映像内のゴリラを見落とすように、そこにあること予想していないと見えないってことなんだが、世界的バイオリン奏者に朝の地下鉄の駅で演奏してもらったら、ほぼほぼ無視されたって話は、どっかで読んだなと思ったら『予想どおりに不合理』にあった。
記憶力の錯覚ってのは、記憶がひとのなかで変わってっちゃう、時間たってズレてくってだけぢゃなく、つくりかえちゃうこともあるってあたり。
スペースシャトル・チャレンジャーの爆発事故翌日に学生たちにそのとき何をどうしてたかレポートを書かせる、それで2年半後に思い出してもらうと、ずいぶんと記憶に食い違いが生じてるんだが、
>そしてなんと、以前書いたものを見て、自分の記憶ちがいを認めるよりも、自分の「現在の」記憶のほうが正しいと言い張る学生のほうが多かったのだ。
>鮮明な記憶も間違いである場合が多い――だが、その記憶のほうがしっくりくるのだ。(p.117)
ということで、都合よくといったらきびしいかもしれないが、しっくりくるように記憶はつくりかえられちゃうんだ、けっこう怖い。
自信の錯覚ってのは、ひとはとかく自分の実力を過大評価したがるって話で。
チェスの国際大会なり全米大会なりの場で参加選手に自身のレーティングについて訊いてみる、レーティングってのは直近の試合結果で現在の実力を数値化してるんだが、選手は自分の現在の数値をほぼ正確に知っている、そこでその数値はあなたの実力を表してますかと問うと、
>(略)現在のレーティングが自分の本当の実力だと答えたプレイヤーは、わずか二一パーセントだった。四パーセントが自分は過大評価されていると考え、残り七五パーセントは過小評価だと考えていた。自分のチェス能力について、彼らは驚くほど自信過剰だった。(p.134)
ということになる。
それだけならいいんだけど、自信の錯覚ってのはもう一つの側面があって、他人が自信ある(・ない)態度でいるかどうかってのは、私たちが相手の実力を測る有効な手掛りにする傾向があるってんで、けっこう重要。
そりゃチェスの対局だったらいいかもしれんが、医者とか政治家とか裁判の証人とかと向き合った場合に、相手が自信過剰だったらどうよってことになり、さらに困ったことには「能力が弱い人ほど自信は強い」って傾向があるんだという、あぶない危ない。
知識の錯覚ってのは、自分が実際以上によく知っているという思い込みがあるってこと。
これがどんなもんなのかは、日常的な機械や道具についてその仕組みを説明させてみればわかるという、どうして自転車のペダルをこぐと車輪が回るのかとか、水洗トイレの仕組みを正確に説明してみなさいとか。
やってみると、けっこうすぐ行き詰って知識不足に気づくんだが、そこでまた自分がなんもわかってないことを知ったときの驚きようが錯覚の錯覚たるところ。
>トイレを使うとどんなことが起きるかを、どのようにして起きるかと取りちがえ、日常的に見知っているという感覚を、ほんものの知識と誤解してしまうのだ。(p.188)
ということだそうです。
おのれの無知ほど気づきにくいものはないんで、トイレなら使えればそれでいいのかもしれないけど、投資判断とかで間違いを起こすとたいへんだからご用心って。
原因の錯覚ってのは、根拠のない話が定説になってしまうとか、偶然を必然ととらえてしまいがちな傾向とかの裏にひそんでいるもの。
相関関係はあるかもしれないけど、それは因果関係ぢゃないよと、それに気づかないというか、原因・結果ってストーリーを好んぢゃうひとが多いそうで。
アイスクリームの消費が多い日には水難事故の割合が多いというのは相関関係だけど因果はないよね、でもそこにストーリーを持ち込むと信じぢゃうひとがいる俗説ができちゃうのかも。
ハシカのワクチンをうつと自閉症になるから自分の子どもには絶対予防接種させないって親がいるって話を紹介して、
>(略)原因の錯覚には三つの片寄りが潜んでいる。パターンを求めたがる傾向と、二つのものの相関関係を因果関係へと飛躍させる傾向、そして時系列的な前後関係のある物語を好む傾向だ。それがわかると、理由が見えてくる。なぜわが子に、はしか予防のワクチンを接種させない親がいるのか。答えは親たち、メディア、著名人、そして医師の一部までもが、原因の錯覚にとらわれるためだ。具体的に言うと、彼らは実際には存在しないパターンをあると思い込み、偶然同時に起きたことを因果関係ととりちがえるのだ。(p.260-261)
というようにバッサリ。
さらには、ひとは統計的なデータなんかより個人的な体験談とか実話とされるものに弱い、って指摘は興味深いですねえ、ワクチン接種と同じ年頃に自閉症の症状が発見された子どもは何パーセント、ってより、ワクチンうった後にうちの子は自閉症になったって人の話のほうが説得力がある、って。
可能性の錯覚ってのは、でました、モーツァルト効果の話ですね、フットボールの練習中にモーツァルトの曲をかけていると選手の学習能力が高まると。
可能性の錯覚は、まだ開発されていない認知能力の大きな貯蔵庫が、脳の中に眠っているという思い込みである。自分がそこへ到達する方法を知らないだけで、貯蔵庫は開けられるのを待っている――そんなふうに考えるのだ。この錯覚には、二つの思い込みが重なっている。一つは、人間の心と頭脳の奥に、幅広い状況に対応する高度な能力が隠されている、という思い込み。もう一つは、この能力は簡単な方法で解き放つことができる、という思い込みだ。(p.279-280)
ということで、思い込みのすごさというか、こうして冷静に解説されちゃうと、人間って哀しいねえって気までしてきちゃうな。
俺には可能性があるんだって前者の思い込みはまだカワイイとして、後者のたいした努力なんかしなくてもそれは引き出せますよって思い込みのほうは、商売商売ってひとたちに騙されないでねって感じもしないでもないし。
ちなみにモーツァルト効果って、その後ほかの研究者が似たような実験を繰り返したけど、実証されてないんだという。でも最初の発表のインパクトが大きかったから、世の中には効果ありと思っている人がいる。似たような例では、映画のなかにサブリミナル広告を入れるとコーラとポップコーンの売り上げが伸びた、ってのもウソらしい。こわいこわい。
しかし、おもしろいなこの本、忘れたころにまた読んでみると、おお、そーかー、って刺激を受けること多いかもしれない。
章立ては以下のとおり。
はじめに 思い込みと錯覚の世界へようこそ
実験I えひめ丸はなぜ沈没したのか? 注意の錯覚
実験II 捏造された「ヒラリーの戦場体験」 記憶の錯覚
実験III 冤罪証言はこうして作られた 自信の錯覚
実験IV リーマンショックを招いた投資家の誤算 知識の錯覚
実験V 俗説、デマゴーグ、そして陰謀論 原因の錯覚
実験VI 自己啓発、サブリミナル効果のウソ 可能性の錯覚
おわりに 直感は信じられるのか?
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チャンドラー傑作集1

2025-02-28 19:27:38 | 読んだ本
レイモンド・チャンドラー/稲葉明雄訳 1963年 創元推理文庫
ちょっと前に(関川夏央・谷口ジローの『事件屋稼業』を読んだときだ)、そういやチャンドラーの短篇ってあんまり読んだことないなあ、と思ってしまい、地元の古本屋で文庫を手に入れた。(1982年の28版)
4作品収録されてるけど、どれも文庫で80ページ以上はあるからやや長い、中篇っていうのかね。
なんも知らんと、主人公はぜんぶフィリップ・マーロウなんだろうなと思ってたんだが、そうぢゃないのね。
訳者あとがきによれば、フィリップ・マーロウは1939年の長篇『大いなる眠り』からで、本書の「赤い風」はジョン・ダルマス、「金魚」はカーマディが、発表当時の主人公だったんだけど、短篇集刊行時にマーロウに改められたんだそうで。
ただし、チャンドラー自身の言葉によると、主人公は一貫した人物として書いたんだという、まあ、そうだろうな。

「脅迫者は射たない」Blackmailers don't Shoot(1933)
ジョン・マロリーがハリウッド女優を脅迫するとこから始まる。
若気の至りで書いたような男への手紙を買い取れというんだが、女はそんなもの何さニセモノでしょって感じで相手にしない。
女の用心棒みたいなやつとイザコザになって、ちょっとワルそうな刑事もからんできて、当然悪い組織の連中も出てくるし、だんだん大ごとになってく。
そしたら女優が誘拐されたとかいって、その黒幕は彼女の顧問弁護士ぢゃないかって言い出して、なんだかけっこう複雑。
いまひとつスラスラと読んでけなくて、なんつーかスッキリしない。これがチャンドラーのデビュー作だそうだ。

「赤い風」Red Wind(1938)
というわけで、これにはフィリップ・マーロウ登場、サンタ・アナ特有の暑い風が吹き荒れている夜に、住んでるアパートの近くに店でビールを飲んでるとこから始まる。
>若造はもう一杯ウィスキーを注いでやったが、それを差しだすとき、お祖母さんを蹴とばしでもしたような後ろめたい顔をしたので、さてはカウンターのかげで水増ししたなと私は察した。呑んだくれは平気なものだった。脳腫瘍の手術をする外科医のような細心の注意をはらって、男は二十セント銀貨二枚を山から摘みあげた。(p.100)
いいですねえ、こういう表現があちこちあると、退屈しているヒマがない。(村上春樹さん言うところの “目を覚めさせるサプライズ” )
その店に、女を捜している男が入ってきたかと思うと、突如銃撃があって死人が出ることになる。
そしてマーロウが自分の部屋へ帰ろうとエレベーターを降りると、捜されていたと思われる服装の女が立っていた。
(すっかり忘れてたけど、この作品は前にべつの文庫本で読んでた。)

「金魚」Goldfish(1936)
これもフィリップ・マーロウもの、むかし婦人警官だったっていう女性から、二粒で20万ドルの値打ちがあるレアンダーの真珠ってのを探してくれと依頼を受ける。
列車強盗で15年刑務所くらいこんだ男が盗ったはずなんだが、その真珠については絶対口を割ることはなかった、だが刑務所仲間のつてで手掛りをつかんだのだという。
>「(略)サイプというのは――もう年寄りでね。十五年間を勤めあげたでしょう。もう充分以上に罪をつぐなったのよ。それをきくと気が重くならない?」
>私はかぶりを振った。
>「だって強盗を働いたんだろう。人もひとり殺しているんだ。今はなんで生活を立てているんだね?」
>「細君がお金持ちなのよ。彼はただ金魚道楽をやっているだけなの」(p.194)
というわけで男を探しにいくマーロウだが、真珠を狙う別の連中とトラブルになるのは当然の成り行き。

「山には犯罪なし」No Crime in the Mountains(1941)
これの主人公はロスアンジェルスの私立探偵ジョン・エヴァンズ、内密の件で相談したいと500ドルの小切手同封した手紙で呼び出され、ピューマ・ポイントっていう標高五千フィートの湖があってキャンプとか盛んな山へ出かけてく。
行ってみてから、指示どおり電話したが依頼者は不在、何の話かもわかっていないうちに新しい死体を見つけちゃってトラブルに巻き込まれる。
それにしても、見知らぬ男に拳銃を突きつけられて後ろ向かされてからしばらくして、
>有能な人間ならいまが潮どきだった。すばやく地面に倒れると見せて、膝だちの姿勢でうしろから突きあげ、自分の拳銃を手に光らせて立ちあがるという按配だ。それには目にもとまらぬ速さが必要だ。腕っこきの男なら、後家さんが義歯をはずすときのような滑らかな一挙動で、この眼鏡をかけた小男をあしらってしまうことだろう。私にはどうしても自分が腕っこきとは思えなかった。(p.275)
って考えめぐらせ、ジッとしてるところなんか、なかなか正直でよろしい。ハードボイルドの主人公って、とかくスーパーマンとして描かれちゃいそうなもんだが、自分はそんなカッコよく立ち回れないと認めてる主人公って、なんかいい。
かくして、あちこち突っついてってみると、どうやら偽札づくりの組織がからんだ事件が相談の本題だったようだが、それにしてもバンバン人がよく殺される。
タイトルは、地元の保安官補が、
>「この土地には犯罪らしきものはなかった。夏場にときたま喧嘩とか酔っぱらい運転があるくらいのもんでね。(略)ほんとうの犯罪はおこりっこないさ。山には強力な犯罪の動機ってものがないからな。山の人たちは平和そのものなんだ」(p.311)
って言ってるあたりからきてるっぽいが、どうしてどうして殺人事件の舞台になっちゃう、まあ確かに騒ぎ起こすのはヨソもんだけどね。
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