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田中利典師「吉野山と嵐山」(3)豊太閤大花見が、花見宴会のルーツ

2023年03月29日 | 田中利典師曰く
金峯山寺長臈(ちょうろう)田中利典師は、2016年(平成28年)11月、東京の奈良まほろば館で「吉野と嵐山の縁(えにし)」(世界遺産連続講座)という講演をされた。師はその講演録を7回に分けてFacebookに連載された(2023.2.28~3.6)。あまり知られていない貴重なお話なので、当ブログでも追っかけて紹介させていただく。
※トップ写真は、吉野山東南院のしだれ桜(手前)とシロヤマザクラ(奥)(2023.3.28撮影)。今年は開花が早く、しだれ桜はすでに3/24に見頃を迎えていたのでハラハラしたが、まだ咲き残っていた、ラッキー!

今日のタイトルは〈豊太閤(ほうたいこう)大花見が、花見宴会のルーツ〉とした。秀吉が吉野山で開いた大花見宴会が、日本の花見宴会の嚆矢(こうし=はじまり)とされている、というお話である。

今年の吉野山の桜は開花が早く、昨日(3/28)の時点で、下千本が7分咲き、中千本でも5分咲きだった。満開はそれぞれ3/30と3/31とされている(吉野町のHPより)ので、吉野山で花見をされる方はお急ぎいただきたい。では、師のFacebook(3/2付)から、全文を抜粋する。


シリーズ「吉野山と嵐山」③
著作振り返りシリーズの第7弾は、2016年11月に開催した世界遺産連続講座から「吉野と嵐山の縁(えにし)」の講演録です。吉野の歴史からひもとくので前置きが長く、なかなか本題の「吉野山と嵐山」の話に入りませんが、7回に分けてアップします。講演の雰囲気を伝えるために、あまり手を入れていませんので、饒舌ですがお許しください。ご感想をお待ちしています。

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吉野の歴史を繙く続き…
いよいよ今日のテーマに深く関わる、後醍醐天皇、南北朝時代を迎えます。後醍醐天皇は建武の中興という、鎌倉方を討ち破って天皇親政の政治を取り戻しますが、しかし建武の中興はわずか2年数ヶ月で敗れて、後醍醐天皇はこの吉野に逃げておいでになるわけであります。

これも義経の時に申し上げましたように、後醍醐天皇は花見がしたいから吉野に来たわけではなくて、この吉野の持っている金峯山寺の経済力と武力と、それから山伏という全国に網羅されたネットワークと、そういったものを頼りにこの吉野においでになるわけであります。

本題の件はもう少し後で触れるので、ちょっと時代を先に進め、豊臣秀吉の時代のお話。ちょうどNHK大河ドラマの『軍師官兵衛』で、今やっているのは第一次朝鮮出兵のころですが、この第一次出兵が終わった文禄3年(西暦1594年)4月に、戦国大名の勝ち残りのみなを引き連れ、秀吉は吉野に花見に参ります。

秀吉の花見というと、「醍醐の花見」が有名ですが、実は「醍醐の花見」は、吉野の花見をした後、そのときの花見が非常に良くて心に残っていたのですが、もう吉野には行くだけの体力気力が秀吉になかった。それで、京都の醍醐でやったというのが「醍醐の花見」。吉野の花見が本家なのです。

それはさておき、秀吉は吉野で大花見大会を催します。徳川家康、伊達政宗、前田利家… 戦国大名の勝ち残り、5千人を集めて花見の苑を催したのです。で、ですね、花見っていうと今や、春になれば日本中で皆んながやりますが、花見を一般の人がするようになるのは、結構新しいんです。

皆さんの大好きな「暴れん坊将軍」の時代です。このあいだ、松平健さんが取材に吉野においでになり、私とツーショットの写真撮りました。案外大きな人でしたね。その松平健さんの「暴れん坊将軍」徳川吉宗の時代に、江戸の庶民が、火事や飢饉やいろんな改革で疲れ果てていて、街の治安が悪くなっていた。

そこで江戸の庶民に楽しみを持たせることも大事だろうということで、隅田川の堤など、江戸のいろんなところに桜を植え、庶民に花見をすることを奨励した。以降、庶民が花見を楽しむようになるんだそうです。だからそれ以前は、そんなに庶民が花見をするようなことはなかったのですが、それよりもはるか前に秀吉は、吉野で大花見の宴会を行ったのです。大々的な花見の嚆矢(はじまり)ともいわれています。

ところで、この花見が問題なんですが、吉野山は桜で有名で、吉野即桜のイメージなのですね。ただ実はこの桜は、… 江戸の隅田川の堤とか久度山とか,そんなところの桜は吉宗が人々に花見をさせるために植たのです… 吉野の桜は違うわけです。吉野の桜は人が花見をするために植えたわけではない。これは後で詳しく申し上げます。あ、私は後で申し上げると言いながら、よく申し上げないことがある。そのときはお許しください(笑)。

本居宣長も吉野に3度参詣しております。本居宣長は、吉野一山の水分神社と関係が深い方です。水分神社はもともとは分水嶺、農作に由来する神様ですが、この「水を分ける」と書くので「みくまり」と読みますが、それが「みくまり→みくもり→みこもり… こもり」となって、日本人特有の言霊信仰から、「みくまり神社」を「子守神社」というようになり、子授けの神様になっていきます。

本居宣長は、お父さんとお母さんが、この子守神社の神様に子授けの願をかけて生まれた子供(申し子)なのです。それで生涯3度もおいでになった。金峯山寺は明治までは、神様と仏さまが同居していました。水分神社も一山の中の神社でした。

また西行の足跡を慕って、芭蕉は生涯に2度、吉野に訪れています。これもご神木の吉野桜が持った歴史のひとつ。こうやってみると、ずいぶんいろんな人がおいでになっている。良寛をはじめ、まだ他にもたくさんの方がおいでになります。

いつだったか吉野山で時代行列をするとするなら、古代から幕末の吉村寅太郎の時代くらいまで、吉野を訪れた人たちだけでものすごい行列ができるな、と話したことがあります。残念ながらお金がないので吉野町ではまだできてません。(笑)
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