ここ数年、自転車をヘビーユーズしている。どのくらい乗っているかというと、数年の間に5回もタイヤを交換したほど。正直、車で移動すべきな走行距離とは思う。

 

さて、ではその走行距離とはどのくらいだったのだろう。

思い立ってざっくり試算をしてみたところ、13,500kmと出た。

北海道から沖縄までの距離は3,000km超らしい。

ということはその2往復分くらいということだろう。

日本列島2往復分を自転車で、つまり温室効果ガス排出ゼロで移動したということになる。

 

それではもしこの距離を自転車ではなく、車で移動していたら温室効果ガスをどれだけ排出していただろうか。

 

調べてみたところ、自動車の温室効果ガス排出量の算定式には燃料法と燃費法の2種類があるという。

 
【燃料法】
温室効果ガス排出量 = 燃料使用量 × 単位発熱量 × 排出係数
【燃費法】
温室効果ガス排出量 = 走行距離 ÷ 燃料消費率 × 単位発熱量 × 排出係数
 
ここでは燃費法で試算してみたい。
燃料消費率はいわゆる燃費である。最近の車は30km/L以上のものも珍しくないようだが、仮に15km/Lとしておこう。
ガソリンの場合、単位発熱量は34.6MJ/L、排出係数は0.0183kg-C/MJで、これらを乗ずると1Lあたりの炭素排出係数となる。炭素Cから二酸化炭素CO2の分子量で換算すると、1L当たりの二酸化炭素排出係数となる。2.32kg-CO2/Lだ。
よくよく見ると、1L当たり2.32kgってすごい重さだ。
 
従って、
温室効果ガス排出量 = 13,500 ÷ 15 × 2.32 = 2,088
2,088kg-CO2となる。
 
車でなく自転車で移動したので、2,088kg-CO2の温室効果ガスを削減できたということになるだろう。
 
しかし、2トンの二酸化炭素、といっても全くピンと来ない。
ちなみに燃費が30km/Lだったら、当たり前のことだが1トンの二酸化炭素ということになる。燃費のありがたみはよくわかる。
 
環境省と国立環境研究所によると、2020年度の日本の温室効果ガス排出量は11億5,000万トン(CO2換算)だったとのことだ。(2022年4月15日確報値)
新型コロナの影響もあり、前年より5.1%(6,200万トン)減少した。
2013年度からは18.4%(2億5,900万トン)減少したという。
 
改めてこの数字を見て思った。
国民ひとりひとりが排出量で語れるようになると、温室効果ガス排出量削減に直接貢献できるような気になるかもしれない。
排出量換算のエコポイントなどがあればもっと親しめるのでは。
あるのかもしれないが目にした覚えはない。
今さらではあるが、今回の試算はそんな思いが湧いてくる経験となった。

 ひと月ほど前に自転車で転倒して肋骨を骨折してしまった。肩の荷物のバランスをくずして縁石クラッシュ。スピードは全然出してなかったけど見事に背中から落ちたようだ。猛省中。

 私の自転車は15年以上前に買った街乗りスポーツタイプバイク。ここ数年ヘビーユーズしている。どのくらい乗っているかというと、数年の間に5回もタイヤを交換したほど。正直、車で移動すべきな走行距離とは思う。
 日常的に車を使わないのは、運転しなければ事故を起こす確率はゼロだという消極的な信念から。仕方ない時しか車は運転はしない。
(ここで脱炭素に貢献するため、とか恰好いい理由は敢えて言わないでおく)

 さて、とはいえ、自転車だって乗れば乗るほど事故に遭ってしまう可能性は高まる。そういうわけで、1度だけ車と事故になってしまったことがあった。そのほかはひやっとしたことが数回あったくらいなので確率的には低いと思うし、かなり慎重に乗っていると思う。

 今回のケガは猛省だが、2年前のその事故は、猛省どころかいまだに後悔をしている。

 その時は、国道の歩道(いわゆる自転車歩行者道)を走っていて狭い脇道から出てきた自動車に横から衝突されてしまった。こういうと出合い頭の事故というイメージがするけれど、実際にはそうではなくて、見晴らしのよい脇道から出てこようとして止まっているその車を私は100mも前から認めていた。国道側の車がもう少し続くのを確認してその車の前の空いているスペースを最徐行で通り抜けようとした途端に車が発進したのだった。(正直、故意?と思うレベル)

 結果的には腕の擦り傷で血が出たくらいで、(今回もそうだけど)自転車は無傷、つまり被害なし。しかし、相手の車はボンネットやナンバープレートがへこんでいた。結局警察の対応で2時間近く時間を費やすこととなり、しかも調書も取られ、「交差点の事故なので運転手さん(私のこと)にも注意義務があります」と諭された。もっとも、相手の車の運転手さんは「自分が見ていなくて全面的に悪かった」と最初から言われていたし、特段被害もないので何ももめることはなかった。

 では、私はなにを後悔しているのか。
 それは調書への対応についてだった。2点ある。

 ひとつめは、「今後このようなことにならないようにどうしますか?交差点では十分注意するようにしますね?」と聞かれ、「はい」と言ったこと。それがきっと私の言葉として残されているわけだ。
 「交差点には十分注意して進入する」などという反省文を残して何の意味があるのだろうか?そもそもこれ以上注意しようがないくらい注意して進入したのに。正直、正解は「進入すべきではなかった」だった。私の反省点はズバリ「相手の運転手さんとアイコンタクトができていなかったこと」だ。たいがいの場合はやっていたのに、この時には確認できていなかった。本当にこちらの方に顔が向けられていなかったのだろう。
 ということで、あのやりとりはなんの意味があったのかという後悔が残っている。

 そしてふたつめの最大の後悔。それは「何キロで走行していましたか?」という質問。
「スピードメーターがついているわけではないので速度はちょっとわからないですがゆっくりです」
と答えると、
「では15キロくらいですね」
「そんなに出てないと思いますが」
「そのくらいでないとふらついて倒れますよ」
「ではそうかも」

というやりとりで、私は時速15Kmで走行していたという記録になっているのだろう。
ほんとに会話がこれだけだったらもっと注意深くしてたのだけど、あまりにいろいろ煩雑で個人情報なども意味なく山ほど聞き出されたりして面倒になっていた。

時速15Km。1時間で15km先まで行ける速度。
そんな速度で倒されて、擦り傷で済むとは思えない。
徒歩と同じ速度で走ってもたいしてふらつかない自信もある。
最徐行で進入したから衝突したときはブレーキもかけてほぼ時速ゼロだったと思う。

後から思うとあれってほとんど「誘〇〇問」?
こうやって「えん〇」とかになってしまうのでは。
と背中がぞくっとした。
そしてあんな記録がどこかに残っているかもと思うと本当に後悔してもしきれない。

そして、ただでさえそそっかしい上に歳とともに反射神経も運動神経も鈍くなっている。
不測の事態に臨機応変に対応する力も衰える一方のように思われる。
今まで以上に用心深く過ごさなくてはとつくづく思う。

1.宇宙空間に再現する地球環境

 私が環境や持続可能性に興味があると認識したのは、子供のころにアメリカのオニール博士が提唱したスペースコロニー計画を知ったときであった。スペースコロニーは宇宙空間に地球環境と変わらない巨大な居住空間を出現させる構想でそのころは21世紀には実現するとされていた。

 私の関心をかき立てたのは宇宙で生活できるということばかりではなく、それ以上に地球環境をいかに再現するかという様々な工夫に対してだった。いうまでもなくヒトは宇宙空間で生存することはできない。遠心力を利用した重力、植物と共生した大気の維持や食料確保、エネルギーの生産、廃棄物の再資源化など、スペースコロニーは自らの中でほぼすべてを賄わなければならない。そのためにそこには、今でいうところの持続可能性を実現した社会が描かれていた。このような空間が実現できる可能性に強い期待を覚えたものである。

 昨今においても例えば火星移住計画においてはいかに地球環境を再現できるかが課題となっている。実際に地上の密閉空間の生態系で人が生活するというバイオスフィア2のような実験も記憶に新しい。

 

2.生態系としての地球環境

 上記のような閉鎖環境で人工的に持続可能性の高い環境が再現できるのであれば、逆に私たちは地球環境自体の持続可能性を高めることもできるのではないか。限られた資源を貪り奪い合い汚染しながら発展する社会ではなく、循環させながらもっと効率的で、かつ真に豊かで平和な社会を築くことができるのではないか。実際、エネルギーと温暖化効果ガス、水質汚染、大気汚染などの環境問題が解決できるように思われた。

しかし、上記で求められている環境は、地球の環境というよりは私たちヒトにとって都合のよい環境の再現を目指したものといえよう。バイオスフィア2の例では地球の複雑な生態系を再現することができないためにヒトが生存できる環境を維持することが非常に困難であることを目の当たりにしたといわれている。このようにヒトが今生きているこの環境は地球という場が提供する絶妙な生態系の中で成り立っていると考えられる。

では、実際に私たちが目指すべき環境はどう定義すればよいのだろうか。

 ひとつは徹底した生態系の保全であると考える。先に述べたように複雑な地球環境の要素をひとつひとつ数値化してあるべき姿を述べることは困難である。私たちの経済活動が地球環境に影響を与えることなく、大地と海洋、大気や微生物に至るまで数十億年かけて構築されてきた生態系を維持し共生することである。そのためには徹底したゼロエミションの取組みが求められる。温室効果ガスでいえばカーボンニュートラル、カーボンオフセットとして具体的に目標化されてきているが、環境全般に対して循環型社会構築への取組みが必要であろう。これらは経済活動個々に対応できるものではなく、まずは地域循環圏を、さらに地域で循環しきれない場合は重層的に広域循環圏を広げ、私たちが産業革命以来顕著に与え続けていた地球環境への影響を低減し、持続可能性を担保した社会を実現させる構想が必要である。

 それでは目指すべき環境とは地球から与えられるAS-ISということになるのだろうか。環境へ影響を与えるのは私たちの経済活動だけというわけではない。太陽活動や地球のマントル、プレート活動、様々な天体レベルのマクロな変化が現在の地球環境に影響を及ぼし続けている。その中で地球は数十億年にわたり生命を育む環境を築き上げてきた。あるべき環境の姿をヒトが快適に生存できる環境としたとき、その環境は現在の複雑な生態系そのものであると述べたが、ではその生態系の実態とはどのようなものでどう維持されているのであろうか。それは私たちがゼロエミッションで保全すれば持続可能というわけではなかろう。

 そう考えると、次に目指すべき環境とは、生態系とマクロ環境のバランスの保持であり、そのために私たちはある程度環境への関与をすべきと考える。まずは生態系起点であるべき環境の全体論について総合的な議論を深め、保持するための個々の技術要素の研究開発が必要となるであろう。

 

3.あるべき環境実現へ

 今回、環境工学を学んでみてそのターゲットが温暖化問題はもちろんのこと再生可能エネルギーから循環型社会まで広範であることに驚いた。時代の要請で工学の役割は変化していくものと感じた。

 2015年に国連がSDGs(持続可能な開発目標)を示して以来、経済活動も巻き込んで世界の潮流が激変したと言われている。ただし国内の意識は周回遅れともいわれ有識者の間では危機感が漂っている。特に経済に直結するのはESG(環境・社会・企業統治)投資へのシフトであろう。ESG投資は実質的にSDGsを指標にしているとも言われており、今やSDGsを考慮していない経済活動は成り立たなくなってきている。

 このような世相を背景に、環境工学はSDGsの達成を可視化する重要な役割を担うことができると考える。そのために必要なのは膨大なデータに立脚したアセスメントやシミュレーションの確立と普及であろう。

 私は長年、情報処理技術者として持続可能な社会実現のために貢献したいと考えていたが直接的な貢献をするには力不足を感じていた。しかし、今やあらゆる活動にDX(デジタルトランスフォーメーション)が浸透しつつある。SX(サステナブルトランスフォーメーション)という言葉も聞かれるようになっているが、その実現のためにも私たちは環境DXともいうべき新たな分野を見据えて推し進めていくべきと考える。

合気道の基本技である「呼吸法」。

ただ腕を曲げて上げるだけにしか見えない。

しかし、この動作を正しく再現できれば、力も使わず相手を制することができる(らしい)。

 

いまだ二段のまま進歩のない私は、呼吸法についていろんな指導者の方からそれぞれの表現でご指導いただいて来たがまだまだできていない。

今日も、とてもいい表現で教えていただいた。

手首をつかまれての呼吸法で、

「相手の腕のことは忘れて、コップの水を飲むイメージで腕をあげるとよい」

実はコップの水を飲むときの腕の動きは微妙な捻りが入っている。

この捻りが相手の力とぶつからない秘訣らしい。

さすがにコップで水を飲むことはできるので、これはすごいと思った。

コップの水をこぼさないよう無意識に水平に保つ動きをしているのも関係しているかもしれない。

 

もうひとつ、腕をムチのように力を入れずに動かすときには、おへそで動かすイメージがいいと言われていた。

腕の力で振るのではなく腰を入れるためにはこのようなイメージはいいなと思う。

 

人の身体の動きは奥深いなと思う。

 

ワロハ~♪

LOHASといえば一見、化学と対極にあるイメージもあるが、環境や健康を語るには基礎的な物理化学がわからなければ単なる根拠のない信条に終始してしまうだろう。

オカルトのままでは、本当のことはわからない。
と、バリバリ文系の私は我が身を振り返った。
そしてたまたま出会いがあって、国家資格である危険物取扱者乙種第4種を受験してみることにした。
基礎物理化学を含む試験だ。
結果的には短期記憶のみで勝負し、35問中32問正解で合格。合格ラインは6割なので楽勝だったわけだが、記憶はすでにかなり飛んでいる。

ガソリンスタンドで必須のいわゆる乙4は人気の国家資格だが、私の野望はもちろんこれで終わらない。
最終的には甲種を目指して勉強するつもりだ。文系にとっては相当な背伸びである。

誰でも受験できる乙種とは違い、甲種を受験するには厳格な受験資格があり、私でもなんとか資格を得ることができる唯一の方法は、乙種をあと3つ合格することだ。
第6種まであるうちの 第1類又は第6類、第2類又は第4類、第3類、第5類の4種類以上の免状が交付されていれば受験資格となる。

ということで前回受験は昨年10月だったが、次回は2月に受けることにした。
しかも同日に3つまで複数受験できるので3つ受けてしまうことにした。

かなり厳しいが、それ以前にもっと思いがけないハードルがあったのでその話を書きたい。

前回は電子申請でさくっと受験の申請ができたのだが、複数受験の場合は書面申請になるという。
しかも願書は受験する都道府県の消防試験センターか消防署にもらいに行かなくてはならない。
これはクリアが難しい難問だった。
そして取りに行く機会をうかがつているうちに受付期間を過ぎてしまうことに。

仕方ない、違う都道府県で受験しよう。(都道府県ごとに受験日設定は異なる)
消防署を見つけ出し、もう夜8時前だったが行ってみた。
消防署の受付はもちろん24時間人がいるのでなんとかしてくれるだろうと思っていたが、まさかの「二階の事務所へどうぞ」の案内。こんな時間なのに大丈夫?
いえいえ24時間大丈夫です、と言われ、あ
がってみると、すでに連絡が入っていてレスキュー姿の隊員さんが願書を用意してくれていた。
3部もらってきた。本当にありがとうございます。

受験の種類ごとに願書を作成。
これに専用の払込証明書を貼付して郵送することになる。
受験料として合わせて13500円も払うので郵送もポスト投函では不安だしせめて特定記録郵便にしたい。

つまり、郵便局の窓口には必ず行かなくてはいけない。これもなかなか行けるものではないので、払込のあと、即、特定記録郵便で発送してしまいたい。
で、なんとか都合をつけて郵便局へ。
事前に証明書貼付欄と投函用封筒の封には両面テープを貼っておいた。

こうして無事に発送はできたが、記入ミスなどなく受験票が届きますように。
既得免状の交付都道府県とは異なる都道府県に申請するのは手続き面の不安を感じたわけだが、合格したら受験した都道府県で免状に追記してくれるシステムなのだろう。

そしてなによりも、選んだ3種、5種、6種のほとんど見たこともない物質の勉強が悔いなくできますように。

ワロハ~♪