ふぶきの部屋

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聖女か悪女か 美智子上皇后の肖像14

2021-05-06 07:00:00 | 聖女か悪女か美智子上皇后の肖像

1963年3月4日 美智子妃懐妊発表。同22日流産。その後3ヶ月の静養生活に入る

 1963年 病院に見舞いにいく皇太子

 

 週刊平凡 1963年5月30日号

ナルちゃんお見舞いに・・・

 1963年7月8日 軽井沢静養に向かう皇太子一家

 

1963年4月17日→ 葉山静養

   7月2日→一旦帰京

   7月8日→ 軽井沢静養

   8月6日 → ガールスカウトのキャンプファイヤーに参加

   前日より軽井沢プリンスホテル → 野尻湖ホテルに夫妻で宿泊

 1963年9月 山口国体の為福岡空港に到着

 

 1963年9月 山口県庁のバルコニーから挨拶をする皇太子夫妻

 1963年9月 山口国体開会式出席

徳山市の鼓ヶ浦製肢学園を訪問

光市の武田薬品工場で顕微鏡をのぞく

光市で急行列車の到着を待つ

岩国の錦帯橋を渡る

 1963年10月20日 29歳の誕生日

 1963年10月23日 皇太子の発案で2泊3日の奥日光旅行

 1963年10月 浩宮が通う学習院幼稚園を視察

 週刊少女フレンド創刊1963年12月1日号

世界の王女さまとナルちゃんがいっぱい」

 1963年11月2日 上野動物園を訪れた浩宮と美智子妃

 

 1963年11月26日 聖イグナチオ教会でケネディ大統領追悼ミサに参加

 1963年12月20日 皇太子30歳の誕生日用に撮影された写真

 

  1963年12月 翌年オープン予定のこどもの国を視察

 1963年12月 デンマークのマレクレーテ王女と歌舞伎座へ

 1963年12月 母校・聖心のクリスマスキャロルに参加

 1963年 浩宮と共に正田家に里帰り

流産した年、様々なバッシングを受けた美智子妃は半年にも及ぶ静養生活を送ります。その優雅なことといったら・・・と思ってしまうのは時代が違うからでしょうね。

復活した美智子妃はカメラに自分がどう写っているかをより意識するようになり、今ような表情になっています。

自分を「女優」と仮定したということは、「自分の美しさ」に目ざめ、これを利用すれば国民を味方につけられると思ったのかなと。

伏目がちや、どこを見ているのかわからない表情をしてみたり。

子供といる時ですらそんな感じで、ひたすら自分がどう写っているかなんですよね。

「美智子さま、お元気になってよかった・・・でもまだおつらそう」とか、そんな同情を引いたことでしょう。

それにしても、雑誌の付録が「ナルちゃんの部屋」っていうのも。

いわゆる浩宮には「皇孫殿下」という威厳は一つもなかったって事ですね。


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8 コメント

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時代を感じさせますね (RM)
2021-05-06 07:08:50
初の民間人お妃が産んだお子様なんて、所詮平民の子供と変わらないという意識があったのでしょうかね。
御付きの女官でさえ、美智子さんよりも家柄は遥か上だったそうですから。
仮にも将来の天皇陛下になる存在だったはず。
それなのにマスコミが「ナルちゃん」呼びですからね~。
現代でさえ「悠仁さま」ですよ。どれだけ軽く扱われてきたのか…。
Unknown (Ray)
2021-05-06 10:38:27
貴重な写真沢山拝見出来とても楽しいです。
何はともあれ、この頃の美しさには難しい事は別にしてため息が出ます。ブルーのカーディガンの写真鮮明に覚えてます。
流産された時、詳しく説明が新聞に出て、その原因を知った母親がお気の毒だと、かなり憤慨していました。隠してあげれば良いのにと、やはり苛められてるんだねと父親と話していました。

女優の原節子さんが美しいまま姿を隠したように、この頃だけの記憶が残ったなら、美智子様は私の永遠の美の象徴だったでしょう。
当時を知る者 (しまき)
2021-05-06 12:34:19
>所詮平民の子供と変わらないという意識

すみません。RMさまは徳仁殿下がお生まれのとき、物心がおつきでしたか?多分お生まれになっておられないかと。

これは当時、昭和30年代の空気だったんです。
どういう雰囲気かというと、「国民のそばにある皇室」「開かれた皇室」「平民皇太子妃が将来の国母になるめでたさ」(めでたさです。残念ではありません。)
「神ではなく人間としての天皇とその一族」(戦前、天皇陛下は神様でした。人間宣言をなさり、国民と同じ「人」だと皆に感じさせたのです)

だからナルちゃんというのは、日本国民皆が慈しみ、可愛がり、その成長を楽しみにということでの「ちゃん」付けだったのです。「ナルちゃん憲法」がその例です。いわば「プリンス・ナルちゃん」です。海のプリンスとは訳が違う、本物の王子様。アイドル的存在でした。

ちなみに私の祖母世代になると、「天ちゃん」と言っている人たちもいました。昔は神様だったけど、今は一人の人間だからネという意味で。親しみの呼称で、決して蔑称ではありません。
Unknown (ミス・レモン)
2021-05-06 13:03:30
戦後すぐの日本は今では想像もつかないほど左翼的でした。宮中に端を発する「御家柄」などに意味を感じる人は「旧弊」だったのです。
「なにもかも新しくなって出直す日本!」「古い上着よさようなら!」です。

次の天皇である皇太子の妃さえ「民間出身」:このことがどれだけのインパクトを日本の社会にもたらしたか。
そうでもしなければ、生き残ることはできなかったのです。
国際社会から求められる「新生日本国」像、民主主義的なものとは言えない皇室の存続、その矛盾の突破口として求められたのが「皇太子妃美智子」でした。
Unknown (松陰神社前)
2021-05-06 13:20:55
母親として流産したと言う事は、皆の顔を伺い、同情を引き付け、求めるという事が出来ない程の辛さだったと思います。

そこは純粋に悲しさと苦しみだけだったと感じます。

あの時代は昭和天皇という威厳がありながら、慈愛のある天皇が存在し、「なるちゃん」と国民に愛され、子供、孫のように呼ばれている存在でした。あの時代の空気を覚えています。

どうしても今の天皇と幼少時の徳仁さまと結び付きませんね。

昭和天皇が、本当に皇室の支柱だったと、今更ながら思いました。もうあのような幸福な時代は、戻って来ないのかな。
Unknown (猫カフェ)
2021-05-06 13:21:27
悠仁さまには御称号もなく、寛仁親王のヒゲ殿下みたいなニックネームも無いので親しまれていません。
紀子様が厳格なイメージで悠仁さまを育てていることもあり親しもうとすれば叱られそうな。
愛子内親王が親しまれているのかと言えば違うんですがアイコとかマコとかの御名前は呼びやすいでしょう。
Unknown (アメリ)
2021-05-06 19:05:27
その時代に遡って、どのような時代だったのか等も思い出して、何故、ちゃん付けで呼んでいたのかを考えると、本当に興味深いですね。勉強になります。

美智子さまにファッションモデルのように着飾っていただいて、写真をどんどん撮っていたのも、何か当時の政府が意図する事があったのかもしれないかなとも思ったりします。
Unknown (ふらん)
2021-05-06 21:45:35
上野動物園の写真、ナルちゃんの後ろに座ってるの佐伯晋さんですよね。
たかが新聞記者がこんなに近くに居て写真におさまってるのが驚きです。
子供のトラのなんてまるで家族のよう。
意味深ですね。

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