東京回想・消えた学校、都立高校編は、本所工業高等学校でひとまず終了である。
まず書いていて気が付いたこと。
資料が少ないということ。
栄光ある旧ナンバースクール一桁台の中学校・高等女学校の資料は、綺羅星の輝くがごとくに並んでいた。
(でも、これら旧ナンバースクールでも定時制課程については触れていないところが多かった。)
何でも乗っているウィキペディアにも、学校の記述自体がないところも多かった。
それに、後継校にあたる学校でも、前身校の名称を沿革に全く記述していないところがあった。
この少なさは、ちょっと寂しい。
ネット上にこれほど少なかったのは、自動車学校と同じくらいである。
ここまでないということは、学校に関わった人たちに思い入れがないのか、あるいは忘れ去りたい記憶なのか。
そんな印象まで受けたのである。
それから、沿革もまともな資料がない。
消えた学校だから、基本的には少ないのは分かる。
意外に参考になったのが、学校の同窓会のホームページだった。
きちんと運営されている所には、しっかりした学校の歴史が書かれていた。
これは有り難かった。
調べていくうちに、役に立ったのが、高校野球のデータベース。
学校名のところに、簡単な沿革が載っていた。
その他、中等教育、職業教育、工業教育の研究をしている論文あたりが大変に参考になった。
そして、一番役に立ったのが、1990年に東京都教育委員会が作成した「都立学校沿革」。
都立の学校として存在したことのある学校の沿革を全て記載してある本である。
それまで、まるでばらばらに砕かれた壺の断片を拾い集めてつなぎ合わせている感じだった。
この本を見つけて、壺本体の全体像を見つけた気持ちになったのである。
そして、調べていくと、東京全体の中等教育、それも男子商業教育、男子工業教育、女子商業教育、女子家政教育といったどちらかという場、頂点部分ではなく、裾野部分の歴史が、大変に興味深いことが理解できた。
今回学べたことはだいたいこんなところ。
・商業学校は、長年の間、男子向けであった。
・多くの学校は、夜間(定時制)であった。
・昭和で戦前の段階で、中学校・高等女学校が10校以上ずつ増やされた。
・戦争中、男子商業学校は募集停止され、女子商業学校や男子工業学校に転換された。
・戦時転換された女子商業学校や男子工業学校おおよそ2学年しか続かず戦後すぐ廃止か統合された。
・戦後すぐの新制高校には、商業科・工業科に普通科が併設されていることが多かった。
・昭和20年代には、定時制分校が小学校に併設されていることがあった。
・昭和30年代半ばの商業高校、工業高校の倍率は3倍近くあった(全日制・定時制とも)。
・昭和30年代半ば以降、定時制のみだった商業高校、工業高校に全日制が付加された。
けっこう興味深い内容だと思う。
例えば、ノーベル賞を受賞された大村智先生が、墨田工業高校定時制で教えていたのは、1958年頃。
このエピソードは、上記の内容のいくつかに結びくだろう。
また、個々の内容には、それぞれ印象深いエピソードがきっとたくさんあるはずである。
そう、学校の話題は、自分の卒業した学校より偏差値が高ければ揶揄、低ければ嘲笑するばかりしかできないとしたら寂しい。
そして、日本の歴史の中、東京の歴史の中で、それぞれの学校の各種の役割は、それぞれ深いものがあると思う。
東京の学校の歴史は、鉄道マニアとか、そのあたりの人たちが飛びつきたくなるような歴史とネタの宝庫と思われる。
でも、誰も触ろうともしないのだから、しばらくは、ちょっと勝手にいろいろと調べていこうと思うのである。
さて、消えた都立高校編は、これでおしまい。
この先は、消えた私立高校編にかかろうかと思う。
ちょっと間をおいて、ネタを拾ってから進むのである。
乞うご期待。