今日の反省である。

この歳になったら、人生、楽しさを追求する方が良さそうである。

敢えて刻苦して磨こうとしても、この歳になったら今更もうこれ以上変化はない。
後は、楽しく生きることを考えた方が、より良く生きられそうである。

まずは気楽が一番である。

さて、もう寝る時刻。
それでは皆さん、お休みなさい。
就寝前の状況である。

東京地方の深夜の天候は、晴れ。
ドアを開けて、外を見た。
月がほぼ真上に出ている。
星はほとんど見えないのである。

体重を測る。
70.0Kg。
もっと減ってほしい。

体調は、良好。
具合の悪いところは特になし。

深夜のおやつである。
ジンジャーエールを一杯飲んだ。
美味しかったのである。

深夜の投薬である。
鼻炎・気管支の薬を服用したのである。

これで、本日は後しばらくでおしまい。
一晩寝ると、また明日である。
ネットのニュースを見たら、築地市場跡地に5万人規模スタジアム建設されるという記事があった。

えっ、嫌だなぁ。
ただでさえ、混雑する場所だよ。

その場所に一時に5万人も人が集まるんだよ。
後楽園球場(東京ドームか)がある水道橋駅の夏場の夜の大混乱を考えると、地元の築地や銀座あたりの人は大反対しそう。

だって客層違うよ。
詳しく書くと、語弊があるので書かないけれど、築地や銀座にくるお客さんとはかなり違うよ。
喫煙率高いよ。

そもそも、そんなもの建てるので、築地の市場を移転したの。
何だか変な話ばかりである。
ニャーゴの平日、結果報告である。

今日は、朝、再求職活動の後、実家に行った。
お寺に行き、都心を一回りし、一緒にパスタを食べた。

今日もまた、父の健啖家である姿を見ることができた。
パスタを食べ、ソーセージを食べ、ガーリックトーストを食べ、ほうじ茶を飲んでいたのである。
93歳でこれだけモリモリ食べられたら、余計なもの、不都合なものは、寄ってこられないのである。

今日は大変に有意義な平日を過ごせたのである。
久し振りに袋小路編。
見つかった順に書くので、順不同。
次は目黒区である。
どこへ飛ぶかは、見つかり次第である。

今回は、東京共済病院を周回するだけの道路である。

【所在地】
目黒区中目黒2。

【名称】
不詳。

【当初の目的・機能】
東京共済病院を周回するだけのの道路。

【袋小路となった理由】
施設の移動後の区画整理が途中で他の道に繋がらなかったため。

【距離】
約120m×約180m

【現在残された機能】
東京共済病院等へのアクセス道路。

【コメント】
袋小路編、次は、目黒区にある行き止り道路、というよりは周回道路である。
厳密に言えば袋小路ではないが、元の場所にしか戻れず、どこへも行けず一回りする機能しかないので、広義の袋小路とする。
場所は、目黒区中目黒2。

自然地理的に言えば、目黒川のかつての氾濫原と河岸段丘。
人文地理的に言えば、山手通りと駒沢通りが重なる中目黒立体交差から山手通り沿いに230mほど進んで、目黒川方面に左折。
田楽橋を渡った先である。

川の向こうに交差点があり、左右が川沿いの道路。
直進すると、右側が東京共済病院の敷地で、左側が東京地裁の敷地。
180mほど進むと道沿いに右に折れる。
また道沿いに進むと120mほどで道なりに右に折れる。
右側が東京共済病院で左側が中目黒講演。
180mほど進むと今度は目黒川の堤防にぶつかり、右折しかできず。
そのまま、120mすすむと、元の交差点に戻る。
他にはどこへも自動車では進めない。
行き止りにはならないが、どこへも行けず、元へ戻るだけのほぼ純粋周回道路である。

この道路の現在の機能は、道路左右の施設に入る程度。

さて、この周回道路、いつだれが何の目的で、建設したのか。
何でこの周回道路があるのか、調べてみた。

資料は、いつもの通り、一切ない。
古い地図を見てみた。

1994年の1/10000の地図で見ると、西側の道路しかできておらず、東京共済病院も立て直される前の位置にある。
もっと古い地図では、建物が立ち並ぶばかり。

確かこのあたり、工場や研究施設等が、立ち並んでいた場所である。

以下は全て筆者の推測である。

この周回道路、立ち退いた建物を整備し、病院を改築したりする段階で出来上がったもの。
将来的には、どこかへ抜ける道路ができる可能性はあるが、北側と東側が自衛隊の施設なので当分動きそうもない。
南側は目黒川で西側には高層の建物が完成している。

たぶん、当分の間は、このまま東京共済病院のまわりを周回するだけの不思議な道路として存在し続けるようである。


東京回想・消えた学校、都立高校編は、本所工業高等学校でひとまず終了である。

まず書いていて気が付いたこと。

資料が少ないということ。
栄光ある旧ナンバースクール一桁台の中学校・高等女学校の資料は、綺羅星の輝くがごとくに並んでいた。
(でも、これら旧ナンバースクールでも定時制課程については触れていないところが多かった。)

何でも乗っているウィキペディアにも、学校の記述自体がないところも多かった。
それに、後継校にあたる学校でも、前身校の名称を沿革に全く記述していないところがあった。

この少なさは、ちょっと寂しい。
ネット上にこれほど少なかったのは、自動車学校と同じくらいである。
ここまでないということは、学校に関わった人たちに思い入れがないのか、あるいは忘れ去りたい記憶なのか。

そんな印象まで受けたのである。

それから、沿革もまともな資料がない。
消えた学校だから、基本的には少ないのは分かる。

意外に参考になったのが、学校の同窓会のホームページだった。
きちんと運営されている所には、しっかりした学校の歴史が書かれていた。
これは有り難かった。

調べていくうちに、役に立ったのが、高校野球のデータベース。
学校名のところに、簡単な沿革が載っていた。

その他、中等教育、職業教育、工業教育の研究をしている論文あたりが大変に参考になった。
そして、一番役に立ったのが、1990年に東京都教育委員会が作成した「都立学校沿革」。

都立の学校として存在したことのある学校の沿革を全て記載してある本である。

それまで、まるでばらばらに砕かれた壺の断片を拾い集めてつなぎ合わせている感じだった。
この本を見つけて、壺本体の全体像を見つけた気持ちになったのである。

そして、調べていくと、東京全体の中等教育、それも男子商業教育、男子工業教育、女子商業教育、女子家政教育といったどちらかという場、頂点部分ではなく、裾野部分の歴史が、大変に興味深いことが理解できた。

今回学べたことはだいたいこんなところ。

・商業学校は、長年の間、男子向けであった。
・多くの学校は、夜間(定時制)であった。
・昭和で戦前の段階で、中学校・高等女学校が10校以上ずつ増やされた。
・戦争中、男子商業学校は募集停止され、女子商業学校や男子工業学校に転換された。
・戦時転換された女子商業学校や男子工業学校おおよそ2学年しか続かず戦後すぐ廃止か統合された。
・戦後すぐの新制高校には、商業科・工業科に普通科が併設されていることが多かった。
・昭和20年代には、定時制分校が小学校に併設されていることがあった。
・昭和30年代半ばの商業高校、工業高校の倍率は3倍近くあった(全日制・定時制とも)。
・昭和30年代半ば以降、定時制のみだった商業高校、工業高校に全日制が付加された。

けっこう興味深い内容だと思う。

例えば、ノーベル賞を受賞された大村智先生が、墨田工業高校定時制で教えていたのは、1958年頃。
このエピソードは、上記の内容のいくつかに結びくだろう。

また、個々の内容には、それぞれ印象深いエピソードがきっとたくさんあるはずである。
そう、学校の話題は、自分の卒業した学校より偏差値が高ければ揶揄、低ければ嘲笑するばかりしかできないとしたら寂しい。
そして、日本の歴史の中、東京の歴史の中で、それぞれの学校の各種の役割は、それぞれ深いものがあると思う。

東京の学校の歴史は、鉄道マニアとか、そのあたりの人たちが飛びつきたくなるような歴史とネタの宝庫と思われる。

でも、誰も触ろうともしないのだから、しばらくは、ちょっと勝手にいろいろと調べていこうと思うのである。

さて、消えた都立高校編は、これでおしまい。

この先は、消えた私立高校編にかかろうかと思う。
ちょっと間をおいて、ネタを拾ってから進むのである。
乞うご期待。