第五章 疾風 ~山野八十八~
「俺は六年振りだ。随分と変わったんだろうなあ」。
「そうか、左之助(原田・十番組組長)は、(江戸へ)戻ったことがなかったか」。
「こんな形で戻ることになろうとはなあ」。
「言うな。これから江戸で敵を迎え撃つ。そのために戻るのだ。未だ負けた訳じゃないさ」。
永倉新八(二十番組組長)の太い声が重々しい。
「ああ。そうだな。江戸で勝って、子が産まれる前には京に戻りたいものだ」。
原田は、新選組で唯一、京で祝言を挙げて所帯を構えていた。
「なあ、山野君。君もそうだろう」。
「えっ、私ですか」。
「ああ、やまと屋のお栄ちゃんには、別れは言ったのか」。
原田と違い平隊士の八十八は、所帯こそ構えてはいないが、壬生寺の裏手の水茶屋・やまと屋のお栄とは、夫婦同然の仲であった。
八十八の京への未練とは、即ちお栄であった。戦場を離れ、こうして船中にあると、どうしてもお栄のことを思ってしまう。
「永倉さんがおっしゃるように、江戸で勝って直ぐに京に戻れますから」。
この時、皆口先では強がっていたが、それが容易ではないことは誰もが周知していた。それは、鳥羽伏見の戦にて、新政府軍との武力の差、いやそれよりも錦の御旗が立ったことで、新選組は賊軍となってしまっていたのだ。
八十八の入隊は、文久三年(1863年)五月。同期の馬越三郎。ほぼ同時期には、父親と共に入隊した 馬詰柳太郎。その同期である佐々木愛次郎。楠小十郎らがいたが、彼らの顔は船中で見ることはない。
馬越三郎、馬詰柳太郎は脱退し、佐々木愛次郎は、何者かに惨殺されれ、楠小十郎は長州の間者であったがために粛正された。
特に親しかったわけではないが、一時は共に汗し共に励んだ仲である。一抹の寂しさは拭えないでいた。
山野君のことは、函館で離脱したとしか聞いとりませんな。その後どこでどうしているのやら。
戊辰の戦が終わり、わしは松前藩に帰藩し、藩医の娘と一緒になって名も杉村義衛と改め申したのでな。こうして剣術道場を開いておっても永倉新八だと気付かん者も多いのじゃよ。
まあ、そんお陰で、わしは謹慎も免れたのじゃがな。
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「そうか、左之助(原田・十番組組長)は、(江戸へ)戻ったことがなかったか」。
「こんな形で戻ることになろうとはなあ」。
「言うな。これから江戸で敵を迎え撃つ。そのために戻るのだ。未だ負けた訳じゃないさ」。
永倉新八(二十番組組長)の太い声が重々しい。
「ああ。そうだな。江戸で勝って、子が産まれる前には京に戻りたいものだ」。
原田は、新選組で唯一、京で祝言を挙げて所帯を構えていた。
「なあ、山野君。君もそうだろう」。
「えっ、私ですか」。
「ああ、やまと屋のお栄ちゃんには、別れは言ったのか」。
原田と違い平隊士の八十八は、所帯こそ構えてはいないが、壬生寺の裏手の水茶屋・やまと屋のお栄とは、夫婦同然の仲であった。
八十八の京への未練とは、即ちお栄であった。戦場を離れ、こうして船中にあると、どうしてもお栄のことを思ってしまう。
「永倉さんがおっしゃるように、江戸で勝って直ぐに京に戻れますから」。
この時、皆口先では強がっていたが、それが容易ではないことは誰もが周知していた。それは、鳥羽伏見の戦にて、新政府軍との武力の差、いやそれよりも錦の御旗が立ったことで、新選組は賊軍となってしまっていたのだ。
八十八の入隊は、文久三年(1863年)五月。同期の馬越三郎。ほぼ同時期には、父親と共に入隊した 馬詰柳太郎。その同期である佐々木愛次郎。楠小十郎らがいたが、彼らの顔は船中で見ることはない。
馬越三郎、馬詰柳太郎は脱退し、佐々木愛次郎は、何者かに惨殺されれ、楠小十郎は長州の間者であったがために粛正された。
特に親しかったわけではないが、一時は共に汗し共に励んだ仲である。一抹の寂しさは拭えないでいた。
山野君のことは、函館で離脱したとしか聞いとりませんな。その後どこでどうしているのやら。
戊辰の戦が終わり、わしは松前藩に帰藩し、藩医の娘と一緒になって名も杉村義衛と改め申したのでな。こうして剣術道場を開いておっても永倉新八だと気付かん者も多いのじゃよ。
まあ、そんお陰で、わしは謹慎も免れたのじゃがな。
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