子どもが自分で〇か×かを判断する機会を頻繁に設ける。
これを日常的にやり続けていくことで、子どもがものさしを自分で持てるようになる。
あらゆる場面で〇か×かの判断を迫ることである。
ある算数の文章題の立式で5×3なのか3×5なのか、判断する。
これに対し、これらを答えが同じだから同じだとする暴論、詭弁があるが、誤りである。
結果が同じで正しい答えが出るのだからいいという結果主義であり、公式主義である。
式とは数学の世界における言語である。
言語には文法があり、その順序には意味があり、二つの式は明らかに同じではない。
こういったことの正誤を判断できるのが、ものさしを持っていることの証である。
Aという意見に賛成か反対か。
ここは走っていいか、だめか。
判断の場面は無限にある。
〇×をつけるには、ものさしがいる。
判断基準となるラインがあって、そのラインで〇か×かが分かれる。
漢字テストの〇つけを子ども自身がやるとわかる。
例えば「角」という感じを書くとする。
間違えるパターンは大体決まっている。
5画目が長すぎて「用」のようにはみ出していたら×である。
ここがものさしの基準になる。
はっきりと出ていたら当然×である。
しかし、慣れないと、子どもはそれでも「〇か×か」と教師の判断を仰いで持ってくる。
はっきり間違えているのにも関わらず、〇か×かの判断ができないのである。
自信がないのである。
ものさしを常に大人に委ねている子どもは、自信がなくなり自身のものさしがなくなる。
これは、トレーニングとして続けていく内に自信をもてるようになる。
問題は「ちょっと出ている」というような微妙な場合である。
この微妙な字は〇か×か。
どこまで許容するか。
ここへは文化庁が平成28年に出した「常用漢字表の字体・字形に関する指針(報告)」がある。
文科省からは、とめやはねなどに対し、字体の多様化による許容範囲が示されてはいる。
(参考:学校教育における漢字指導の在り方について
これもよく読めば「自己判断」ということである。
基本的な字体があって、そこを基準に場に応じた許容範囲を判断せよということである。
「漢字を覚える」というための学習時と「メモをとる」という場合とでは明らかに違う。
インタビューのメモ時の字など、明らかに崩れているが、本人が読めさえすれば全く問題ない。
一方で、漢字を覚える場面やその定着を見るためのテスト、書写などでそのような崩れた字を書いたら、当然×である。
場に応じた判断が大切なのである。
先の漢字の〇つけに戻ると、指導方針が定まることで、許容範囲が定まる。
微妙なラインについては、指導者が基準を指導し、そこで〇×をつけることになる。
個々人のものさしだけだと、〇×がぶれてテストというもののもつ公平性が失われるからである。
先の「角」の例だと、新出漢字指導時、あるいはテストをやる前の時点で、
「角の字の5画目は下に出さない。漢字テストで出ている場合は×。」
と明示しておくことである。
そこまで基準がはっきり指導されていればぶれないし、書く側も気を付けるはずである。
結果、判別困難な微妙な字が減る。
要するに、漢字指導とは公のものさしを自分で持てるようにするということが含まれる。
その内、そんな細かいことを言わなくても判断できるようになる。
テストでは「自分なりのものさし」では測ってもらえない。
公のものさしに沿って判断される。
だから、テストで〇つけをしてもらっているだけだと、ものさしの基準を持たずに済んでしまう。
自分で〇つけをすることで、これがわかる。
「微妙なところ」は頭を使うのにうってつけである。
よく考える子どもが育てるためには、よく頭を使う場面を多く設定することである。
0 件のコメント:
コメントを投稿