こんな感じのアプローチの記事は
確か何年か前にも書いたような気がするんですが
偽りの自分
そう聞いて
ひとによってはざわついたりすることもあるかな??
そんなひとはもしかしたらおめでとうかも知れません ^^
因みに
今思えば偽りしかなかったんじゃなかろうかと言う
(じっさいはそんな事もないんだけど ^^)昔の私は
偽りの自分???
そんなの私にはじぇーんじぇんカンケ―ありませーーん♪と
自分に対してなーーんの疑いも持たず
自己犠牲 他者優先の在り方を
自分の本来の在り方だと大きく誤解したまま
なんか背中にいつも大きな荷物を背負ってるんだけど
これどれだけ頑張ったら軽くなるんだろう
自分まだまだだな
努力が足りないな
もっと頑張んなきゃな
そんなバリバリ他人軸の時代
って言うかずっとそんな感じで生きて来ました 笑
もう記憶も大分ザックリになって来てるので
もっと細かく色々あった気もするし
今もまだある部分もあるんだけど ^^
そこにはイイもワルイもないと言う感じかも
だからね
本当にひとの反応って面白いなって思うんだけど
言い換えると
ひとって自分のことを全く分かってない
こと(とき)もある 笑
でね。
偽りの自分が通用しなくなってくるって言うのは
自覚のアリナシに関わらず
これからの時代
自分に対する抵抗が強ければ強いほど
目の前に映し出されるセカイと言うものも
しんどさを増すと言うこともあるかもで
これは
このブログでもたまに書く
外側のセカイは自分の内側の投影でしかないと言うことが
何となくでもわかってくると
どんなセカイをタイケンしたいかは
自分次第と言う言い方もできるかもで
そんな風には見えない わからないと言うご意見も
すっごくよくわかるんだけど 笑
信じても信じなくても
ちゃんと自分が信じたセカイをタイケンしていけるので
信じるか信じないかは自分次第と言うことで ^^
オマケ
自分を偽らないってなったとき
これをひとつの概念で説明するのはとても難しいと思うんだけど
たとえば
外側のセカイに対して
自分を主張したりするって言うのも
もしかしたら
自分を偽らないと言う言い方もできるのかもだけど
どっちかって言うと
自分が自分に対してサレンダーしていくと言うか
抵抗を手放して諦めていく
自分を護って来た防弾チョッキを手放して
無抵抗になって行くって言った方が
的を得た表現に近いかもで
自分が自分に対して心から素直になって行くとも言える
タブン比較競争社会に生きて来た多くのひと(自我)が
コワすぎてやらないほう
避けたいと感じるほう 笑
なのかもです ^^
ゆるめる
手放す
自分とつながる
焦らずいっぽいっぽ ^^